第9話 公爵家の夜
公爵家の王都邸へ向かう馬車の中で、クイリーは膝の上の木箱を三度確認した。
錠は閉まっている。
緩衝布もずれていない。
箱の中には、修復したばかりの一客目が収まっていた。
「四度目を確認するなら、私が箱を持とうか」
向かいに座るジオンニが言った。
「三度目です」
「そうか」
「それに、閣下に持たせたら症状が出たとき落とすかもしれません」
「信用がないな」
「器については」
クイリーは即答した。
ジオンニの口元がわずかに緩む。
学院を出たのは日没の少し前だった。
一客目が示した航路図について、公爵家に残る古い記録と照合するためである。
表向きの目的は、それだけだった。
けれどクイリーには、もう一つ確かめたいことがあった。
昨夜、器へ触れたジオンニだけが聞いた言葉。
――寒い。
ミルの声とは違う。
もっと遠く、もっと深い場所から届いた感覚だったという。
「閣下」
「何だ」
「公爵家では、昔から同じようなことが?」
問いかけると、ジオンニは窓の外へ目を向けた。
王都の街灯が一つずつ灯り始めている。
その光が彼の横顔を短く照らし、すぐ後ろへ流れた。
「屋敷に着いてから話す」
「記録に残せない話ですか」
「逆だ」
ジオンニは答えた。
「記録に残すべきだったのに、残されなくなった話だ」
クイリーは、それ以上聞かなかった。
公爵家の王都邸は、華美ではなかった。
北方産の灰色石で造られた大きな建物で、玄関の柱にも窓枠にも余計な彫刻がない。貴族の邸宅というより、雪国の砦をそのまま王都へ移したようだった。
使用人たちはジオンニを迎えたあと、クイリーへ深く頭を下げた。
「整備主任殿。お待ちしておりました」
年配の家令が言う。
「東書庫と旧管理室は開けてあります。倉庫については、明朝から確認できるよう鍵を揃えております」
「ありがとうございます」
クイリーが答えると、家令は少し意外そうに目を瞬いた。
「いいえ。こちらこそ」
その言い方が、どこかジオンニに似ていた。
クイリーが横を見る。
「何だ」
「いえ。感謝を言葉にするのは家風なのかと思って」
「悪い家風ではないだろう」
「ええ。それは」
ジオンニは家令へ向き直った。
「夕食は簡単なものでいい。クイリー主任は書庫を先に見たいはずだ」
「閣下」
「違ったか」
「当たっています」
「ならよかった」
東書庫には、氷中航路の建設以前からの公爵家文書が並んでいた。
航路図。
水脈図。
北方各地の積雪記録。
鉱山の採掘台帳。
そして、そのどれとも違う薄い冊子が、古い木箱にまとめられている。
表紙には題名がない。
代わりに、銀色の円が七つ並んでいた。
クイリーは手袋をはめ、最上段の一冊を開く。
『霜月十二日。第三声、東へ寄る。水脈を二尺逃がす』
次の頁。
『霜月十三日。第五声、眠る。夜明けの食卓、異常なし』
さらに次。
『霜月十四日。七声そろう。氷壁静穏』
「声……」
「我が家では、そう呼んでいたらしい」
ジオンニが向かいに座った。
「夜の住人の声を聞く者を、契約者と呼ぶ」
クイリーの指が止まった。
「昔から?」
「氷中航路より前からだ」
ジオンニは一冊の古い冊子を引き寄せる。
「北方では、氷河の下に水脈がある。見えない亀裂もある。昔の人間は、それを正確には測れなかった」
「夜の住人は分かった」
「ああ」
彼らが嫌う場所を避ける。
騒ぐ夜には坑道へ入らない。
静かな夜だけ氷を削る。
そんな経験則から始まったのだという。
「公爵家の先祖は、彼らの感覚を人へ伝える役目を引き受けた」
「それが契約」
「本来は、声を聞くだけだ」
ジオンニはそこを強調した。
「痛みを引き受けるものではない。眠れなくなるものでもない。まして、一人で航路全体を背負うものではない」
クイリーは顔を上げた。
「では、今の閣下は正常ではない」
「そうだ」
あまりにも迷いのない返事だった。
彼は自分の状態を、長年そう理解していたらしい。
病気だとも、呪いだとも言わず。
正常な契約ではない、と。
「いつからです」
「十年前」
書庫の時計が小さく鳴った。
午後八時。
「事故の夜、父が契約を変更した」
クイリーは黙って続きを待った。
「正確に何をしたのかは、私は知らない」
ジオンニは言った。
「当時、私は北方の別領にいた。事故の報せを受けて戻ったとき、父は三日間ほとんど眠っていなかった。医師は魔力枯渇だと言ったが、父は違うと言った」
「何と?」
「『散らす場所がなくなった』と」
クイリーの頭の中で、一客目の器が浮かぶ。
七客。
七地点。
六つ、足りない。
「それから父上に症状が?」
「ああ。夜になると氷の音を聞き、肩や胸を押さえるようになった。眠れば地下へ引かれると言って、椅子で夜を明かすこともあった」
「閣下と同じ」
「似ている」
「似ているではありません」
クイリーは思わず強い声を出した。
書庫の空気が張る。
しかしジオンニは怒らなかった。
「確かに。同じだ」
そう訂正した。
「父が亡くなったあと、私へ移った」
クイリーの胸の奥に冷たいものが落ちた。
「契約は、本人の意思と関係なく?」
「少なくとも、私には選択肢が示されなかった」
「それを十年近く?」
「七年だ」
「十分長いです」
「そうだな」
ジオンニは、また簡単に認めた。
その認め方が、クイリーには腹立たしかった。
苦痛を大げさに語らない。
誰かを責めもしない。
自分を犠牲者だとも言わない。
けれど、それで負荷が軽くなるわけではない。
「父上が何をしたか、調べなかったんですか」
「調べた」
ジオンニの返答は早かった。
「公爵家に残る契約文書はほぼ全部読んだ。交通院にも照会した。事故後の保守記録も求めた」
「結果は?」
「『事故による設備損傷と契約者固有の後遺症』」
クイリーは眉を寄せた。
「説明になっていません」
「私もそう思う」
「それで諦めた?」
今度は、少し間があった。
「優先順位を下げた」
「同じです」
「違う」
「どう違うんです」
「私一人が眠れないことより、北方全体の物流の方が重い」
声音は静かだった。
公爵としてなら、正しいのかもしれない。
だがクイリーは納得しなかった。
「整備では、その考え方をしません」
「設備と人間は違う」
「違います。でも、故障を一つ放置すると、別の場所へ負荷が逃げます」
彼女は机に置いた一客目の木箱へ手を置く。
「原因不明の過負荷を『今は動いているから』で放置した結果、もっと大きな破損になる。私は何度も見ています」
ジオンニが彼女を見る。
「だから」
クイリーは一度、言葉を選んだ。
治す。
それは違う。
彼は壊れた機械ではない。
人生を元の形へ戻すことも、自分にはできない。
「私は、あなたを治すとは言いません」
ジオンニの目がわずかに細くなった。
「では?」
「正常だった仕組みを探します」
クイリーは言った。
「契約が本来どう動いていたのか。十年前に何を変えたのか。どこへ負荷が流れるはずだったのか。それを調べます」
それなら、自分の仕事だ。
「その結果、閣下が今より眠れるようになるなら、それは結果として歓迎します」
「ずいぶん遠回りな約束だ」
「守れない約束よりましです」
数秒、沈黙が続いた。
やがてジオンニが息を吐く。
「ありがとう」
その一言だけだった。
けれど、これまで聞いたどの礼よりも低く、静かだった。
午後十時を過ぎるころ、二人は書庫を出た。
夕食はとっくに冷める時間だったが、家令は食堂ではなく小さな応接室へ温かいスープとパンを用意していた。
「夜間調査なら、こちらの方が書類を広げやすいかと」
家令が言う。
「助かります」
クイリーは素直に礼を言った。
机の中央には、一客目を置いた。
今夜は起動試験をする予定ではない。
ただし昨夜と同じ時刻に、ジオンニの症状と器の反応を見る。
十一時三十九分。
ジオンニの指先が冷え始めた。
十一時四十三分。
一客目の青銀の線が、ごく薄く浮かぶ。
十一時四十六分。
ミルが木箱の横で耳を伏せた。
そして十一時四十七分。
ジオンニの肩が大きく震えた。
器の航路図が赤紫に脈打つ。
「来ます」
クイリーが言う。
「分かる」
ジオンニは椅子の背へ手を掛けた。
呼吸が浅い。
「どこです」
「北……いや」
彼が目を閉じる。
「近い」
「近い?」
「この家の下だ」
クイリーは器を見る。
昨夜まで一つだけ赤紫だった航路図の端に、別の小さな光が現れている。
弱い。
けれど確かに、王都北側の一点が明滅していた。
「ヴイアンの地図では、この付近に旧保守線はありません」
「公爵家の敷地は、航路建設時の資材集積所だった」
ジオンニが苦しげに答える。
「古い倉庫が残っている」
クイリーは顔を上げた。
「さっき家令が言っていた倉庫?」
「ああ」
ミルが突然、床へ飛び降りた。
「ピィ!」
扉へ走り、前足で引っかく。
「今から行く気?」
「ピィ、ピィ!」
クイリーは立ち上がりかけた。
だが、その手首をジオンニが掴んだ。
強くはない。
「待て」
「何です」
「倉庫は古い。夜間に照明なしで入る場所ではない」
「照明なら持っていけば」
「床も一部傷んでいる。家令に鍵と図面を用意させる」
クイリーは一秒考えた。
「……合理的です」
「そう言ってもらえて安心した」
手が離れる。
その瞬間、ジオンニの膝がわずかに崩れた。
クイリーは反射的に肩を支える。
「閣下」
「大丈夫だ」
「その言葉、禁止します」
「いつ決まった」
「今です」
「権限は?」
「設備調査責任者として、調査対象の状態申告に虚偽を認めません」
「私は設備ではないはずだ」
「さっき自分で言いましたね」
「覚えていたか」
「記録する仕事なので」
ほんの少しだけ、ジオンニが笑った。
笑ったまま、彼は椅子へ座り直す。
クイリーはスープの椀を差し出した。
白い普通の食器だった。
「温かいうちに」
「一客目ではなく?」
「貴重な魔導遺物で夕食を取らないでください」
「残念だ」
「本気ですか」
「半分ほど」
二人は、夜が通り過ぎるのを待った。
ミルは扉の前で丸まり、ときどき耳を立てた。
一客目は机の上で淡く光り続ける。
十二時を越えるころ、ジオンニの呼吸は少しずつ戻った。
「以前は」
彼が不意に言った。
「この時間が一番嫌いだった」
クイリーは記録紙から顔を上げる。
「十一時四十七分?」
「夜が長いと分かる時間だ」
まだ真夜中にもなっていない。
眠れない夜が、その先に何時間も残っている。
「今は?」
ジオンニはすぐには答えなかった。
窓の外は真っ暗だった。
「調べることが増えた」
「それ、喜ぶところですか」
「少なくとも、朝を待つ理由にはなる」
クイリーは返事をせず、記録紙へ目を戻した。
けれど、筆先が一度だけ止まった。
午前一時十三分。
器の第二の光点は消えなかった。
王都北側。
公爵家敷地内。
クイリーはその位置を写し取り、欄外へ書く。
『明朝、公爵家旧倉庫を確認』
その横で、ジオンニは久しぶりに椅子へ深く背を預けていた。
眠ってはいない。
それでも、これまでより少しだけ力を抜いている。
夜の住人の声を聞く家。
十年前に変えられた契約。
そして、七客のうち一客が示した新しい光。
公爵家には、まだ記録されていない何かが残っている。
朝になれば、それを確かめられる。




