第10話 二客目は公爵家に
朝六時十二分。
公爵家の旧倉庫は、夜に見なくて正解だった。
「床が傷んでいる、という程度ではありませんね」
扉の前でクイリーが言うと、家令は申し訳なさそうに眉を下げた。
「最後に本格的な補修をしたのが二十年以上前でして」
「人が入っていなかったんですか」
「帳簿上は、季節ごとの確認だけです。大きな荷物は事故後にほとんど別棟へ移しました」
石造りの平屋だった。
屋根には朝霜が残り、北側の壁には蔦が枯れたまま張りついている。
昨夜、一客目が示した第二の光点は、この倉庫の真下付近だった。
クイリーは革手袋を締め直す。
「床下の空洞について、図面は?」
「こちらです」
家令から渡された古い配置図を開く。
建物の下に地下室はない。
ただし東壁沿いに、建設当初の資材搬入口を塞いだ跡が記されていた。
「旧保守線は?」
隣に立つジオンニが問う。
「公的な図面にはありません」
クイリーは答えた。
「でも、この搬入口の方向は学院地下から北西へ伸びる旧線と合います。完全に撤去せず、資材線だけ封鎖した可能性があります」
「なら、中から確認しよう」
「その前に」
クイリーはジオンニを見る。
「昨夜の症状は?」
「朝四時ごろまで弱い圧迫感が残った。今はない」
「睡眠は」
「一時間ほど」
「少なすぎます」
「だが動ける」
「動けるかどうかではなく、判断精度の問題です」
ジオンニは一瞬黙った。
「具体的には?」
「重い物を持たない。先頭に立たない。異常を感じたら即座に申告する」
「三つとも受け入れる」
「素直ですね」
「専門家の意見を無視して事故を起こした記録を調べている最中だからな」
返す言葉がなかった。
「では、行きます」
倉庫の扉が開く。
冷えた木材と油の匂いがした。
棚には古いランタン、測量杭、革の工具帯、壊れた滑車が並ぶ。
氷中航路建設時代の資材を、処分せず保管していたらしい。
ミルがクイリーの足元から飛び出した。
「ピィ!」
「待って。床を確認してから」
聞くはずもない。
小さな体は棚の間を縫って、東壁へ一直線に走った。
クイリーは杖状の打音棒で床板を叩きながら追う。
乾いた音。
乾いた音。
次。
低い、空洞音。
「ここです」
ミルが座り込んだ場所と一致した。
床板には細い切れ目がある。
釘ではなく、回転留め具で固定された点検蓋だった。
「倉庫の床に、こんなものが?」
家令が驚く。
「知らなかったんですか」
「少なくとも、私の代では一度も開けておりません」
クイリーは膝をつき、留め具の錆を落とした。
「閣下、照明を」
「了解した」
「先頭には立たないでください」
「覚えている」
蓋を持ち上げる。
冷気が上がった。
地下へ続く階段ではない。
深さ一メートルほどの点検槽で、その中を細い金属管と黒い導魔線が走っている。
クイリーは息を止めた。
「生きています」
「何が?」
「この線」
測定針を近づける。
わずかな反応。
学院地下で拾ったものと同じ周期だった。
「撤去されていない旧保守線です」
家令が青ざめる。
「では、この屋敷の下を今も?」
「大量の魔力が流れているわけではありません。でも、信号は来ています」
十年前から。
あるいは、もっと前から。
クイリーは点検槽の奥へ照明を向けた。
金属管の脇に、木箱が押し込まれている。
箱の表面には銀色の円が七つ。
「同じ印です」
昨夜、書庫で見た冊子の表紙と同じだった。
ジオンニが息を呑む。
「出せるか」
「私がやります」
点検槽へ腕を伸ばす。
木箱は見た目より重かった。
家令とクイリーで床へ引き上げる。
蓋の金具は錆びていたが、鍵は掛かっていない。
開ける。
中には油紙に包まれた陶器が一客。
一客目とは形がよく似ている。
ただし釉薬の青銀線は、縁から底へ向かって枝分かれしていた。
「二客目」
クイリーが呟いた。
ミルが高く鳴いた。
「ピィ!」
ジオンニは器へ触れようとして、手を止めた。
「触らない方がいいか」
「今は」
「分かった」
素直すぎて、クイリーは少しだけ笑いそうになった。
木箱の底には、折り畳まれた紙が一枚あった。
湿気で端が波打っている。
家令が紙を見るなり、顔色を変えた。
「先代様の字です」
ジオンニの表情が消えた。
「父の?」
「はい」
クイリーは手を止める。
「閣下が先に読みますか」
「いや」
ジオンニは首を振った。
「調査資料なら、同じ手順で扱ってくれ」
クイリーは紙を保護板へ載せた。
短い。
日付は十年前の事故、その翌日。
本文は三行しかなかった。
『七点分散を停止。』
『一点代替。』
『猶予を買う。』
それだけだった。
「……一点」
クイリーは紙と二客目を見比べた。
ジオンニは何も言わない。
「この“一点”が、公爵家の契約者ですか」
「可能性は高い」
「猶予というのは」
「航路全体が崩れるまでの時間を稼いだ、という意味だろう」
ジオンニの声は平静だった。
けれど、右手が固く握られている。
父親が何をしたのか。
七年も答えを探していた。
そして今、その手掛かりが三行だけ現れた。
クイリーは紙を裏返した。
「裏に続きはありません」
「ああ」
「別の記録があるはずです」
ジオンニが彼女を見る。
「なぜそう思う」
「これだけでは作業指示として足りないからです」
クイリーは即答した。
「何を停止したのか。どこを一点にしたのか。負荷上限はいくつか。解除条件は何か。整備士なら必ず残します」
「父は整備士ではない」
「なら、整備士に指示した記録がある」
クイリーは二客目を見る。
「あるいは」
一客目が温かいスープで記録を読ませた。
二客目も同じ装置なら。
「この器に残っている」
午前七時四十分。
旧倉庫から母屋の作業室へ場所を移した。
家令が厨房へ頼み、塩分の薄い温かい野菜スープを用意する。
「貴重品に食べ物を入れることへ、まだ抵抗があります」
家令が言う。
「私もあります」
クイリーは答えた。
「ただ、一客目ではこれが起動条件でした」
二客目を安定台へ置く。
一客目も隣へ並べた。
ジョドがいれば器の状態確認を任せたいところだが、朝一番で呼びつける距離ではない。
ひびはない。
釉薬の剥離も少ない。
「少量から試します」
クイリーがスープを注ぐ。
一杯目。
反応なし。
二杯目。
器の縁が青く光る。
「来ました」
三杯目。
底から枝分かれしていた線が、ゆっくり明滅を始める。
一客目も連動して淡く光った。
ミルが机の上へ前足を掛ける。
「ピィ……」
二客目から、音がした。
声ではない。
遠くで氷が軋むような低い響き。
その上に、短い符号音が重なる。
クイリーは記録器を作動させた。
「三短、一長、二短」
「航路の旧保守符号か?」
「似ています。でも完全には分かりません」
音が途切れる。
次の瞬間、器の内側へ文字が浮かんだ。
筆跡ではない。
魔導記録の転写文字だった。
『第五・第六共鳴点応答なし』
『第四、遅延』
『第一、過負荷』
クイリーの背筋が冷える。
「事故直後の保守状態……」
さらに文字が続く。
『中央承認待ち』
『待てない』
『契約者経由で迂回』
最後に。
『七点分散停止。一点代替開始』
ジオンニの呼吸が止まった。
「父の三行と同じです」
「ああ」
クイリーは記録時刻を確認する。
事故翌日の午前二時十四分。
「正式命令より先に処置しています」
「中央承認を待てなかった」
「その結果、崩壊を止めた」
「そして父が引き受けた」
ジオンニの声は静かだった。
クイリーは器の表示を見続ける。
記録は、まだ終わっていなかった。
『代替継続限界――』
そこで文字が乱れた。
「続きは?」
ジオンニが身を乗り出す。
「待ってください」
クイリーは器の温度を測る。
低下している。
スープを少量足す。
再び線が光る。
しかし表示されたのは、欠落記号だけだった。
『――年』
「数字が読めない」
「一年か、十年か」
「それ以外かもしれません」
クイリーは唇を噛んだ。
決定的な箇所だけが欠けている。
だが、分かったこともある。
「閣下」
「何だ」
「あなたの症状は、事故で自然に生じた後遺症ではありません」
ジオンニは黙った。
「人為的な応急処置の結果です」
クイリーは一つずつ言葉にする。
「本来七地点へ分散する何かを、公爵家の契約者へ迂回した。先代は“猶予を買う”ために始めた。つまり、恒久措置として設計したとは考えにくい」
「解除できると?」
「まだ言えません」
即答する。
期待だけを先に渡すつもりはなかった。
「でも、調べる対象は変わりました。呪いの治療法ではなく、七点分散の復旧条件です」
「正常だった仕組みを探す、か」
「はい」
昨夜の約束を、彼が覚えていた。
ジオンニは二客目を見る。
「父は、これを私に残そうとしたのだろうか」
「分かりません」
「容赦がないな」
「推測を事実にしないだけです」
「そうだった」
ジオンニは少し笑った。
そして、器の横にある三行の紙へ目を落とす。
「だが、父が何も残さなかったわけではなかった」
「ええ」
「それだけで、今日は十分だ」
クイリーは返事をしなかった。
十分ではない。
整備主任としては、まったく足りない。
解除条件。
残り五客。
事故直後に応答を失った第五・第六共鳴点。
中央承認を待たず一点代替を始めなければならなかった理由。
確認すべき項目は増えた。
だが、昨日までとは違う。
夜の苦痛には、始まった瞬間がある。
人が選んだ処置なら、構造を追える。
午前八時三分。
クイリーは調査記録へ書き込んだ。
『二客目、公爵家旧倉庫より回収』
『事故翌日の一点代替記録を確認』
『契約者負荷は事故後の応急措置に由来する可能性が高い』
最後の一文には、二重線を引く。
『残り五客の所在確認を急ぐ』
そのとき、一客目と二客目が同時に光った。
二つの航路図が重なり、王都のさらに北東へ細い線が伸びる。
線の先には、小さな雪片のような印。
クイリーは目を細める。
「これは……」
ジオンニが横から覗き込む。
「測候台の紋章だ」
二客目は、次の一客を知っていた。




