第11話 三客目と偽りの記録
王立測候台は、王都でいちばん空に近い場所にある。
城壁北東の丘、その頂上。
白い石造りの塔が三本並び、屋上では風向計と雲量板が朝から休みなく動いていた。
クイリーは正面玄関を見上げ、息を吐く。
「寒いですね」
「学院より風が強いからな」
隣のジオンニが答える。
「閣下の体調を聞いたつもりでした」
「……それなら、昨夜よりはいい」
「睡眠は」
「二時間半」
「改善しています」
「褒められた気がしない」
「褒めていません」
ジオンニが小さく笑った。
そのやり取りの間にも、ヴイアンは手元の書類を一枚ずつ確認している。
「監察権による閲覧許可。学院からの技術調査申請。器の搬出が必要な場合の一時借用申請。三点、揃っています」
「さすが」
「前回、公爵家では現物を見つけてから手続きの話になりましたので」
「改善が早いわね」
「他者の意見は活用するためにあります」
そこへ測候台の職員が迎えに出てきた。
年配の観測主任だった。
「ジオンニ公爵閣下、王立技術学院の皆様。お待ちしておりました」
応接室へ通される。
クイリーは座るより先に、台帳の複写を広げた。
「約二十年前、旧氷中航路の共鳴設備廃止に伴い、陶器一客がこちらへ移管されています。記載名は『第三共鳴点退役記念品』です」
観測主任は眼鏡を上げた。
「陶器、ですか」
「はい」
「気象観測器なら分かりますが……」
「用途が失われた後の名称だと思います」
主任はしばらく考え、それから立ち上がった。
「古い記念品なら、資料塔の収蔵室でしょう。開設百周年の整理で、用途不明品をまとめて移した記録があります」
「確認させてください」
資料塔は、三本の塔のうち最も古かった。
石の螺旋階段を二階まで上り、さらに鉄扉を二枚抜ける。
収蔵室には、壊れた温度計、旧式の風速計、気球観測用の金具、記念盾、歴代主任の肖像画まで並んでいた。
「分類が広いですね」
クイリーが言う。
「捨ててよいと判断できない物を集めた結果です」
観測主任は苦笑した。
「整備倉庫でもよくあります」
「安心しました」
「安心するところですか?」
「人は用途不明の物を簡単には捨てない。そのおかげで助かっています」
ミルは今日は同行していない。
井戸から離れすぎると疲れるらしく、学院地下の保守台で眠っている。
だから今回は、人間だけで探す。
クイリーは台帳番号を読み上げた。
「旧航路、第三共鳴点。移管番号、七四二」
ヴイアンが棚札を追う。
「七百番台は奥です」
棚を三列。
木箱を十七個。
十八個目の側面に、かすれた数字が残っていた。
七四二。
「ありました」
箱は小さい。
蓋を開ける。
厚い綿布の中央に、一客のスープボウルが収まっていた。
一客目、二客目と同じ乳白色の陶器。
ただし青銀の線は、器の内側に細かな格子を描いている。
ジョドから預かった鑑定板を底へ当てる。
淡い青光。
「同じ釉薬です」
クイリーは言った。
「三客目で間違いありません」
観測主任が器を見つめる。
「二十年近く、ただの記念品だと思っていました」
「記録上はそう扱われています」
ジオンニが言う。
「当時、この器の機能を知る者は?」
「少なくとも現職にはいません。前任者の退職は十二年前です」
「事故より後か」
「はい。ただ、前任者の日誌は保管しています」
クイリーが顔を上げる。
「見られますか」
「もちろんです」
器は正式に一時借用することになった。
搬出記録へ、観測主任、ヴイアン、ジオンニの三者が署名する。
クイリーも技術担当者欄へ名前を書く。
その横でジオンニが言った。
「手続きが多いな」
「必要です」
「分かっている」
「後で『どこから持ってきた器か分からない』と言われたら、証拠価値が落ちます」
「だから感想を言っただけだ」
「なら問題ありません」
ジオンニは何か言い返そうとして、やめた。
代わりに観測主任へ向き直る。
「保管してくれていたことに感謝します。用途が分からない品を二十年守るのは、簡単な仕事ではない」
主任は少し驚いた顔をした。
「……ありがとうございます」
クイリーはその横顔を見る。
ジオンニは、こういう礼を忘れない。
大きな決断のときだけではなく、誰にも注目されない保管や記録にも。
だから彼の周りでは、人が話してくれるのだろう。
学院へ戻ったのは正午前だった。
旧保守室には、ヴイアンが比較用資料を並べていた。
一つは、新書『氷中航路の真実』。
一つは、測候台から複写を許された当時の気象観測日誌。
そして中央に、三客目。
「温度条件は一客目と同じで始めます」
クイリーは鍋の温度計を見る。
「六十二度」
「記録開始」
ヴイアンが筆を取る。
器へ澄んだスープを注ぐ。
最初は何も起こらない。
十秒。
二十秒。
三十二秒後。
青銀の格子が一斉に発光した。
「来ました」
器の内側へ数字が浮かぶ。
気温。
気圧。
地下氷圧。
水脈振動。
測候台が地上で記録した気象情報と、旧保守線が地下で受け取った情報が一つの時系列に重なっている。
ヴイアンの筆が速くなる。
「事故前七日分から確認します」
「一日ずつ」
「はい」
クイリーは新書を開いた。
事故三日前の掲載資料。
『第三観測点 氷圧一二八』
危険基準は一三五。
新書の文章では、この数値を根拠に「事故直前まで観測値は安全域だった」とする交通院内部資料が引用されている。
「三客目は?」
ヴイアンが読み上げる。
「事故三日前。同時刻。第三共鳴点、氷圧一四八」
クイリーの指が止まった。
「二十違う」
「測候台日誌は?」
紙をめくる。
「地表観測の補正値から逆算すると、一四五から一五一の範囲。器の一四八と整合します」
「新書だけが一二八」
ジオンニが低く言った。
「数字を書き換えたのか」
「一件では判断しません」
クイリーは次頁へ進む。
事故二日前。
新書。
『第三観測点 異常なし』
三客目。
『第三共鳴点 周期振動増大。再測定推奨』
測候台日誌。
『北東微震。計器点検。原因不明』
さらに事故前日。
新書。
『警告符号、第二種』
三客目。
『警告符号、第四種』
第四種は、運行停止を検討する水準だ。
ヴイアンが筆を置いた。
「三箇所」
「まだあるかもしれない」
「同じ方向に変更されています」
氷圧は低く。
警告は軽く。
日付は遅く。
危険が、実際より小さく見えるように。
クイリーは新書を閉じなかった。
「でも、おかしい」
ジオンニが見る。
「何が?」
「この本は交通院の隠蔽を告発しているんですよね」
「ああ」
「なのに、なぜ交通院に有利な改変を混ぜるんですか」
ヴイアンが新書の前半を開く。
「告発の核心部分には、別の資料があります。事故当日の停止要請、担当者署名、中央管制との通信記録」
「それはまだ原本照合できていない」
「はい」
つまり。
本全体を嘘にするには、一部だけ嘘であればいい。
重大な数字の改変が一つ見つかれば、他の資料も疑われる。
逆に、偽造だと見抜かれなければ、事故前の危険度そのものを低く見せられる。
「二重に使える」
クイリーが呟く。
ジオンニの目が細くなる。
「誰かが意図して混ぜたならな」
「その“誰か”を決めるのは、私たちの仕事ではありません」
「サマンサだな」
「サマンサでも決めつけはしないでしょう」
ちょうどそのとき、扉が二度叩かれた。
「呼ばれた気がしました」
サマンサが入ってくる。
「呼んでいません」
「では勘です」
「便利ですね」
「よく言われます」
彼女は机へ近づき、並べられた三種類の記録を見た。
「顔がそろって難しいので、悪い知らせですね」
「技術的には良い知らせです」
クイリーは答える。
「比較できる独立資料が増えました」
「世間向けには?」
「悪い知らせです」
「では、聞きましょう」
ヴイアンが比較表を渡した。
サマンサは早い。
一行目を読み、二行目で眉を上げ、三行目で表情が消えた。
「新書だけ、危険が軽く見える」
「そうです」
「原稿の段階でこうだったかは?」
「分かりません」
「印刷所で差し替えられた可能性も?」
「私たちには判断できません」
「著者本人が変えた可能性も残る」
「はい」
サマンサは頷いた。
しばらく無言で比較表を見る。
「面白いですね」
ジオンニが眉を寄せた。
「面白い?」
「ええ。嫌な意味で」
サマンサは新書を持ち上げた。
「この本、全部が嘘なら簡単なんです。出版社と著者を調べて終わる。でも本物らしい資料が入っている。学院に残る様式とも一致する。そして今、数字を変えた資料まで見つかった」
頁を閉じる。
「本物の内部資料に、偽物を少し混ぜた可能性があります」
「目的は?」
「一つとは限りません」
彼女は指を一本立てた。
「改変が見破られなければ、事故前の警告を実際より弱く見せられる」
二本目。
「見破られたら、『ほら、この告発本は偽造資料を使っている』と言える」
三本目は立てなかった。
「どちらに転んでも、本物まで信用を失わせられる」
保守室が静かになった。
クイリーは三客目を見る。
器の光はまだ消えていない。
二十年間、棚の奥で用途不明品として眠りながら、地下から流れてきた数字を受け取り続けた。
人間が忘れても。
記録は忘れていなかった。
「公開できますか」
ジオンニが問う。
サマンサは即答しない。
「いまは駄目です」
「理由は?」
「三客目の仕組みを説明できる人間が少なすぎます。突然『魔法のスープ皿が二十年前の数字を覚えていました』と発表しても、こちらがセンセーションの続きを作るだけです」
クイリーは頷いた。
「再現試験が必要です」
「そういう言葉を待っていました」
サマンサが笑う。
「器の記録と、測候台の日誌と、別系統の資料。この三つをそろえる。誰が見ても同じ結論になる形にする」
「一つずつ確実に」
ヴイアンが言った。
「はい。派手さは後から勝手についてきます」
ジオンニは比較表を見たまま言う。
「新書の流通経路を追えるか」
「もう始めています」
「早いな」
「本が売れた瞬間から、誰が得をしたかを調べるのは私の癖です」
「頼む」
「もちろん」
サマンサは軽く答え、それからクイリーへ視線を移した。
「ところで、三客目があるなら四客目も?」
「台帳上はあります」
クイリーは移管記録を開く。
「第四共鳴点。廃止時、旧航路建設家系へ記念品として譲渡」
「家名は?」
「ローディア家」
サマンサの顔から笑みが消えた。
「それ、まずいですね」
「知っているんですか」
「家そのものは没落しています。ただ、先月、旧家財一式が競売商へ渡りました」
クイリーは椅子から立ち上がった。
「競売日は?」
「確認します」
サマンサも鞄から手帳を出す。
数頁めくり、指が止まった。
「……明後日です」
「場所は?」
「王都西区、グラシエ競売館」
ジオンニが立つ。
「監察権で差し止める」
「待ってください」
サマンサが止めた。
「公爵家が突然、古い食器一客を国家調査名目で差し押さえたら、それこそ値段と噂が跳ね上がります。所有者が反発すれば、返還交渉も難しくなる」
「では?」
「交渉します」
サマンサは笑った。
「相手が手放してもいいと思える条件を、先に作ります」
クイリーは三客目の光を消すため、温度低下を待ちながら記録紙へ最後の行を書いた。
『三客目、王立測候台より一時借用』
『新書掲載資料に、日付・氷圧値・警告種別の意図的変更と疑われる不一致を確認』
『原資料への偽情報混入の可能性。断定せず、流通経路と原稿履歴を調査』
そしてもう一行。
『四客目――競売まで残り二日』
器の青銀光が消えた。
次に急ぐべき場所は、もう決まっていた。




