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氷中航路の整備士令嬢は、夜の公爵と朝を待つ  作者: 乾為天女


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12/18

第12話 四客目を取り戻す交渉

 競売まで、残り一日。


 グラシエ競売館の下見会場には、朝から人が集まっていた。


 古い絵画。

 銀器。

 小型の魔導時計。

 没落した旧家から流れた家具。


 そして、展示台の端に置かれた一客のスープボウル。


 乳白色の地。

 青銀の線。


 クイリーは三歩手前で足を止めた。


 「同じです」


 隣のジョドが、珍しく小声で答えた。


 「ええ。焼成温度も釉薬も、見える範囲では同系統。第四区画の意匠です」


 展示札には、簡素な説明しかない。


 『北方旧家伝来 青線文深鉢』

 『推定百二十年前』

 『旧ローディア家所蔵品』


 氷中航路の文字はない。


 保守装置とも書かれていない。


 当然だった。


 二十年前に用途を失い、記念品として家へ渡ったのだ。


 価値を知らないまま百年以上残されたのではない。

 価値の意味だけが、途中で失われた。


 「触れられますか」


 クイリーが係員へ尋ねる。


 「申し訳ございません。下見会では手袋越しでも接触不可となっております」


 「底面だけでも確認したいのですが」


 「ご入札後でしたら、専門員立ち会いで」


 「入札後では遅いんです」


 係員が困った顔をした。


 その横から、サマンサが一歩出る。


 「困らせては駄目ですよ、クイリー」


 「分かってます」


 「分かっている顔ではありません」


 サマンサは係員へ名刺を渡した。


 「昨日お願いした件です。所有者の方との面会は?」


 「十一時に別室で、と承っております」


 「ありがとうございます。器はそのまま展示を続けてください」


 クイリーが振り返る。


 「そのまま?」


 「急に撤去したら、何かあると宣伝しているようなものです」


 「でも明日には競売です」


 「だから今日、話をつけます」


 サマンサはいつものように笑った。


 「値段ではなく、理由で」


     ◇


 別室に集まったのは五人だった。


 クイリー。

 ジオンニ。

 サマンサ。

 ジョド。


 そして、現在の所有者である老収蔵家、エルマン・セリウス。


 白髪の老人は、差し出された資料より先にジオンニを見た。


 「北方公爵閣下が、皿一枚のためにお越しになるとは」


 「皿一枚だから来たのではありません」


 ジオンニは静かに答えた。


 「その皿を必要としている人間がいるから来ました」


 「国家が、ですかな」


 「国家も含みます」


 「便利な言葉だ」


 老人の口調には棘があった。


 サマンサが口を挟まない。


 クイリーも待った。


 エルマンは机の上の資料へようやく視線を落とす。


 「昨日、競売館から連絡を受けました。出品を取り下げてほしいと、公的機関から相談があると」


 「お願いしたのは私です」


 サマンサが言う。


 「差し止めではありません」


 「その気になればできるのでしょう」


 老人はジオンニを見る。


 「氷中航路の監察官なら」


 「緊急安全調査の対象物として、一時保全を命じる選択肢はあります」


 ジオンニは隠さなかった。


 「ですが、今日は使いません」


 「なぜ」


 「あなたの所有権に不正がないからです」


 ジオンニは資料を一枚、老人の前へ滑らせた。


 「四客目は二十年前、正規の手続きでローディア家へ譲渡されています。その後の売却記録も確認しました。あなたは適法に取得した所有者です」


 エルマンの眉がわずかに動いた。


 「そこまで調べたか」


 「奪う前提なら、調べる必要はないでしょう」


 「なるほど」


 老人は椅子へ深く座り直した。


 「では、いくらで買いたい?」


 サマンサが初めて資料を開いた。


 「その前に、一つ確認させてください」


 「金額以外に何が」


 「なぜ競売へ出されたのですか」


 沈黙。


 エルマンは少しだけ目を細めた。


 「年を取りました」


 短い答えだった。


 「子は収集に興味がない。孫は国外です。私が死ねば、家の者がまとめて売るでしょう」


 「なら、生きているうちに整理したかった」


 「そうです」


 サマンサは頷く。


 「高く売りたい?」


 「安いよりはいい」


 「でも、一番ではない」


 老人が彼女を見る。


 「何が言いたい」


 「昨日、あなたの過去の出品記録を確認しました」


 クイリーが思わずサマンサを見る。


 いつの間に。


 「売却先を選べる私取引では、博物館や工房を優先している。国外の蒐集家から高値を提示されても断った品が二点あります」


 「人の財布を調べる趣味は感心しないな」


 「私も自分の趣味だとは思っていません」


 サマンサは笑う。


 「あなたが嫌なのは、安く売ることより、物の来歴が消えることではありませんか」


 エルマンの指が止まった。


 当たりだ。


 クイリーにも分かった。


 「……その器の来歴を、私たちはまだ全部知りません」


 クイリーは口を開いた。


 サマンサがこちらを見る。


 続けていい、という目だった。


 「でも、少なくとも飾り皿ではありません」


 「では何だ」


 「氷中航路の保守装置です」


 老人の顔から皮肉が消えた。


 クイリーは一客目から三客目までの写真を並べた。


 「同じ工房で作られた七客一組。各器は別の区画に対応しています。温かい液体で釉薬中の魔導鉱物を活性化すると、旧保守線に残る氷圧、振動、警告記録を読み出せます」


 「皿が、記録を?」


 「はい」


 「証明は」


 「公開できる範囲なら、ここに」


 ヴイアンが作った比較表。

 測候台の原簿。

 三客目から読み出した数値。


 機密部分は伏せてある。


 だが、同じ時刻の同じ値が一致していることは見せられる。


 エルマンは長く黙って資料を読んだ。


 「これが事実なら」


 「はい」


 「私の棚に四十年あった鉢は、北方の地下を見ていた?」


 「弱い受動記録だけなら、今も続いている可能性があります」


 「四十年も」


 「対応する保守線が生きていれば」


 老人は目を閉じた。


 やがて、小さく笑った。


 「面白い」


 ジョドが反応する。


 「面白いでしょう」


 「あなたは?」


 「古陶器修復師です」


 「なら分かるか。私はあれを、青の流れが美しいから買った」


 「ええ」


 「歴史的価値など、ほとんど知らなかった」


 「それでも残した」


 「美しいものは、理由が分からなくても残す価値がある」


 ジョドが嬉しそうに頷いた。


 「同感です」


 エルマンはクイリーへ向き直る。


 「これを渡せば、どうなる」


 「まず学院で非破壊検査をします。損傷があれば、ジョドが必要最小限の修復をします。その後、温度を管理した液体を使って記録を読み出します」


 「壊れる可能性は?」


 「ゼロとは言いません」


 クイリーは即答した。


 ジオンニがこちらを見る。


 サマンサも何も言わない。


 「古い陶器です。魔導鉱物も劣化しています。だから、壊れないとは約束できません」


 「正直だな」


 「機器保守で、壊れないと断言する人は信用しないことにしています」


 エルマンが喉の奥で笑った。


 「では、何を約束する」


 「状態を全部記録します。作業前、作業中、作業後。触れた人、温度、時間、魔力量。壊れた場合も隠しません」


 「その後は?」


 そこで、サマンサが一枚の提案書を出した。


 「調査終了後、この器を公開展示しませんか」


 「公爵家で?」


 「いいえ」


 ジオンニが答える。


 「王立技術学院を第一候補に考えています」


 老人が意外そうな顔をした。


 「学院?」


 「氷中航路の技師を育てる場所です」


 クイリーは言う。


 「七客が本当に保守装置だったなら、いちばん意味がある場所だと思います」


 サマンサが続ける。


 「展示札には、ローディア家からあなたへ渡った経緯も記載する。あなたが長年保存したことも。調査報告が公表可能になった段階で、器がどの区画を守っていたのかも追加する」


 「売ってしまった私の名まで?」


 「売ることと、捨てることは違います」


 「所有権はどうなる」


 「選べます」


 サマンサは二枚目を出した。


 「一つ。調査期間中だけ無償貸与し、終了後はあなたへ返却。その後、あなたから学院へ長期寄託する」


 三枚目。


 「二つ。公正な鑑定額で学院側の基金が買い取り、収蔵品として公開する」


 「基金?」


 「航路史料保存のための寄付基金です。公爵家が個人で買う形にはしません」


 エルマンはジオンニを見る。


 「あなたなら、競売で最高値をつけられるでしょう」


 「できるでしょう」


 「しない?」


 「しません」


 「なぜ」


 「私が欲しいからではないからです」


 ジオンニの声は静かだった。


 「必要なのはクイリーたちの調査であり、最終的には航路を使う人々です。私物にする理由がありません」


 クイリーは横顔を見る。


 権限を持っている。

 金もある。


 それでも、使わなくていい力は使わない。


 初対面の日、彼が整備記録を最初に読んだときと同じだった。


 立場より、理由を見る。


 エルマンはしばらく黙った。


 窓の外から、競売館の鐘が聞こえる。


 下見会の開始を告げる音だ。


 「一つ条件があります」


 「伺います」


 サマンサが答える。


 「もし七客がそろったら」


 老人は提案書の上へ指を置いた。


 「ばらばらに展示しないでほしい」


 クイリーは瞬きをした。


 「七客そろって初めて意味があるのでしょう」


 「はい」


 「なら、そろった姿を見せてください。私が生きているうちに」


 サマンサの笑みが、交渉用ではないものに変わった。


 「約束します」


 「では、貸与を選びます。調査後、私へ形式上返却してください」


 「その後は?」


 「私から学院へ寄託する」


 老人はペンを取った。


 「競売は取り下げる。値がつかなかったのではなく、置く場所を見つけたことにしておきたい」


 「十分、正しい記録だと思います」


 クイリーが言う。


 「あなたは機械にもそう言うのか」


 「機械は記録が正しい方が長く使えます」


 「人も同じかもしれんな」


 エルマンは貸与書へ署名した。


     ◇


 四客目が展示台から外されたのは、正午を少し回ったころだった。


 競売館の専門員が梱包し、ジョドがその手順を横から確認する。


 「そこ、綿をもう少し」


 「規定量ですが」


 「百年前の器に規定量なんてありません」


 「ジョド」


 「分かっています。手は出しません」


 言いながら、今にも手を出しそうだった。


 サマンサが吹き出す。


 クイリーは受領記録へ時刻を書いた。


 『第四共鳴器』

 『所有者エルマン・セリウスより緊急保守調査のため一時貸与』

 『調査終了後返却。返却後、王立技術学院への長期公開寄託を予定』


 四客目。


 これで半分を越えた。


 「残り三客」


 クイリーが呟く。


 「正確には、所在確認からですね」


 ジョドが台帳を開く。


 「第五共鳴点。北方接続駅へ移管」


 「駅?」


 「初代駅長の家系へ記念品として、とあります。ただ、その後の記録がない」


 「北方接続駅なら」


 ジオンニが言う。


 「ケンジが交易局側の保管記録を追える」


 「連絡します」


 クイリーが記録板を閉じた、そのときだった。


 梱包箱の中から、小さな音がした。


 こつ。


 全員が止まる。


 「触ってませんよ」


 ジョドが真っ先に言った。


 「誰も疑ってません」


 こつ。


 もう一度。


 クイリーは箱へ近づいた。


 器は冷たいままのはずだ。

 温かい液体も注いでいない。


 読み出しは起きない。


 だが受動共鳴は続いている。


 「保守線から、何か来てる?」


 ジオンニの顔色がわずかに変わった。


 クイリーはすぐ彼を見る。


 「痛みますか」


 「まだ痛みではない」


 「では?」


 ジオンニは目を閉じた。


 数秒。


 「遠い」


 「何が」


 「声が」


 こつ。


 箱の中で、三度目の音。


 ジオンニが目を開ける。


 「北だ」


 クイリーは第五共鳴点の記録を見る。


 北方接続駅。


 偶然と決めるには、出来すぎている。


 「学院へ戻ったら、四客目も非破壊検査から始めます」


 「はい」


 「それとケンジへ連絡。第五の所在確認を最優先」


 サマンサが肩をすくめた。


 「四客目を手に入れた祝いは?」


 「七客そろってから」


 「でしょうね」


 ジオンニが小さく笑った。


 「私は今でも十分、祝いだと思うが」


 クイリーが振り返る。


 「何がですか」


 「君が欲しいものを、君の望む方法で守れた」


 一瞬、返事に困った。


 サマンサが露骨にこちらを見る。

 ジョドまで梱包箱から顔を上げる。


 「……器のことですよね」


 「今日は、そういうことにしておこう」


 ジオンニは先に歩き出した。


 クイリーは数秒遅れて、その背中を追う。


 胸の奥だけが、整備記録に書けない速さで動いていた。


 その日の午後。


 ケンジから返事が届いた。


 『第五共鳴点の記念品らしき食器、北方接続駅旧駅長室の備品台帳に記載あり』


 『現物確認を急ぐ』


 残り三客。


 そして北方では、次の夜が近づいていた。

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