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氷中航路の整備士令嬢は、夜の公爵と朝を待つ  作者: 乾為天女


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第13話 偏愛は命令ではなく権限で

 四客目を学院へ運び込んだ翌朝、クイリーの机には、器より分厚い書類の束が置かれていた。


 「……何ですか、これ」


 最上段には、王立技術学院と交通院監察室の連名で、こう記されている。


 『旧氷中航路緊急保守調査・特別作業規程』


 その下に、細かな条文が十数枚。


 クイリーは立ったまま一枚目をめくった。


 「護衛二名の常時同行。危険区画では四名。通信符を二系統。帰還予定時刻を十五分超過した場合は捜索開始……」


 「足りないか」


 向かいの椅子でジオンニが言った。


 「多いです」


 「では減らすか」


 「そういう意味でもありません」


 クイリーは二枚目へ進む。


 そこまでは、予想できる内容だった。

 公爵であり監察権を持つジオンニが、危険区域へ何度も潜る技術者へ護衛を付ける。むしろ遅いくらいだ。


 だが三枚目で、指が止まった。


 『現場主任クイリーに、作業中止権限を付与する』


 「……これは」


 「読んだ通りだ」


 「誰の命令に対してですか」


 「全員だ」


 クイリーは顔を上げる。


 ジオンニはいつものように、感情を押しつけない静かな目でこちらを見ていた。


 「学院長、交通院の現場責任者、監察官。私も含む」


 「公爵閣下の命令も?」


 「君が危険だと思ったら、私の命令でも止めていい」


 あまりに平然と言うので、クイリーは数秒、返事を失った。


 「それ、かなり重い権限ですよ」


 「危険区域で責任だけ負わせ、止める権利を与えない方が不自然だろう」


 「理屈ではそうです」


 「理屈以外に何かあるか」


 「普通は、その理屈が通らないんです」


 ジオンニはわずかに眉を上げた。


 クイリーは書類を机へ置く。


 「現場で一番怖いのは、壊れた機械だけじゃありません。期限です。上役の面子です。予算を使ったから動かしたいとか、偉い人が見に来たから試験を中止できないとか」


 「あるな」


 「あります。だから主任が危険だと言っても、『もう少しだけ確認しろ』になる」


 「君は従うのか」


 「従わないために、毎回けんかをするんです」


 「では、今後はけんかをしなくていい」


 「……それが、この紙ですか」


 「そうだ」


 クイリーはもう一度、条文を見る。


 作業中止権限。

 再開条件の決定権。

 設備の封鎖申請を監察室経由で即時処理する権限。


 さらに次の頁には、別のものがあった。


 『緊急保守予算について、現場主任クイリーへ一定額までの即時決裁権を付与する』


 「待ってください」


 「今度は何だ」


 「予算まで?」


 「昨夜、四客目の保管架を作るために申請書を三枚書いただろう」


 「書きました」


 「承認まで六時間かかった」


 「早い方です」


 「六時間の間に共鳴管が破裂したら?」


 「倉庫から適当な部材を借りて応急処置します」


 「その後、無断使用の報告書を書く」


 「よくご存じで」


 「だから先に権限を渡す」


 クイリーは黙った。


 護衛を増やす。

 危険な場所へ行かせない。

 公爵邸に置く。


 そういう形なら、理解しやすかった。


 だがジオンニがしたことは逆だった。


 クイリーが現場へ行くことを止めず、その代わりに、そこで自分の判断を通せる仕組みを作っている。


 「私だけですか」


 「現場主任は君だからな」


 「特別扱いですね」


 「そうだ」


 否定しなかった。


 クイリーの方が困る。


 「そこは少しくらい取り繕いませんか」


 「なぜだ」


 「偏っていると思われます」


 「偏っている」


 「ジオンニ」


 「能力を見て権限を渡すことと、君を特別に扱っていることは両立する」


 ジオンニはそこで一度、視線を落とした。


 「私は君に、生きて戻ってほしい」


 静かな声だった。


 「だが、そのために君の仕事を奪えば、君は私を信用しなくなる」


 「……よく分かっていますね」


 「観察は得意だ」


 「本人に言います?」


 「感謝も必要なことも、伝えなければ関係は作れない」


 その言い方が、妙にジオンニらしかった。


 クイリーは書類を閉じた。


 「では条件があります」


 「聞こう」


 「この権限は私だけが得をする形にしないでください。今回の調査が終わったら、危険設備を扱う現場主任全員に適用できる制度へ直す」


 ジオンニの口元が少しだけ動いた。


 「君ならそう言うと思った」


 「なら最初から書いておいてください」


 「君自身に要求させた方が、制度として強くなる」


 「……駆け引きですか」


 「サマンサほど上手くはない」


 そこへ扉が叩かれた。


 「失礼します」


 入ってきたのはヴイアンだった。

 彼は三枚の点検票を順番に机へ置く。


 「旧南連絡坑の一次確認が終わりました。四客目の受動波形から、今まで死線扱いしていた枝線に微弱な応答があります」


 クイリーが身を乗り出す。


 「圧力は?」


 「低いですが、周期が一定です。ただし、一か所だけ壁面温度が不自然に下がっています」


 「亀裂の可能性」


 「あります。僕は先に遠隔測定を増やしたいです」


 「私も同意」


 クイリーは即答した。


 ジオンニが確認する。


 「今日の現地調査は?」


 「予定では午後です」


 「予定では、か」


 クイリーは新しい規程を見た。


 まだ署名していない。


 それでも、試すにはちょうどよかった。


 「中止します」


 「理由は」


 「壁面温度低下の原因が未確認。氷圧の逃げ道になっている可能性がある。人を入れる前に遠隔測定を二系統追加します」


 「必要日数は?」


 ヴイアンが答える。


 「部品があれば半日。なければ二日です」


 「部品は?」


 「学院在庫では一系統分だけです」


 クイリーは規程の予算欄を見る。


 「市内の魔導計器商から一系統買います。ヴイアン、型番を。互換品でもいいけれど、感度誤差二パーセント以内」


 「はい。候補を三つ出します」


 「最安値じゃなく、納期と校正履歴も並べて」


 「分かりました」


 ヴイアンは一度だけジオンニへ目を向けた。


 「監察室への購入申請は?」


 ジオンニはクイリーを見る。


 「現場主任が決める」


 「では、クイリー主任へ出します」


 それだけ言って、ヴイアンは出ていった。


 扉が閉まる。


 クイリーはしばらく、その扉を見ていた。


 「本当に通すんですね」


 「何を」


 「私が止めたら、止まる」


 「そのための権限だ」


 「今日の現地調査には、あなたも同行する予定でした」


 「知っている」


 「予定を空けていたのに」


 「それが何だ」


 「公爵の予定を半日潰しました」


 「安全確認より私の予定が重要なら、最初から君に任せる意味がない」


 クイリーは息を吐いた。


 ずるい、と少し思う。


 宝石を贈られるより、舞踏会で手を取られるより、こういう方がずっと困る。


 自分が大切にしているものを、正確に見抜かれている。


 そして、それを尊重される。


 囲われてはいない。


 逃げ道まである。


 それなのに、以前よりずっと強く、この人の隣にいたいと思わされる。


 「署名します」


 クイリーはペンを取った。


 「ただし追記を」


 「制度化の件か」


 「それともう一つ」


 「何だ」


 クイリーは空欄へ書き込む。


 『現場主任が作業中止を宣言した場合、身分・役職を問わず、現場区域内の全員はこれに従う』


 そして、その下へ署名した。


 「これなら、あなたも勝手に入れません」


 「望むところだ」


 「普通、そこは嫌がるところです」


 「君が私まで止められるなら安心できる」


 「どうしてですか」


 「私が無茶をしたとき、止める人間がいる」


 クイリーは一瞬、言葉を失った。


 前なら、ジオンニは自分の痛みを後回しにした。

 夜の異常も、家系の義務も、耐えることを当然だと思っていた。


 今は少し違う。


 守るための仕組みに、自分自身も入ろうとしている。


 「それは進歩ですね」


 「褒めているのか」


 「かなり」


 「なら感謝する」


 ジオンニは本当に、少し嬉しそうに言った。


     ◇


 午後三時。


 遠隔測定器の追加設置が終わった。


 結果は、現地調査を止めて正解だった。


 旧南連絡坑の壁内側で、氷圧が周期的に跳ねている。

 人が入っている最中に最大波が来れば、崩落まではしなくても、古い覆工材が剥離する可能性があった。


 「誤差じゃなかった」


 クイリーは二台の記録を重ねる。


 「中止継続。明日、補強材を入れてから調査する」


 「了解です」


 ヴイアンはすぐ記録へ反映した。


 誰も「予定通り行け」とは言わない。


 たったそれだけのことが、妙に新鮮だった。


 夕刻、監察室から正式な承認印の押された規程が戻ってきた。


 公爵印の隣に、現場主任の権限を示す銀色の封印がある。


 クイリーは指先で、その縁をなぞった。


 「主任」


 ヴイアンが新しい通信紙を持ってきた。


 「ケンジさんからです」


 紙には、短く書かれていた。


 『第五共鳴器、北方接続駅旧駅長室にて現物確認』


 『初代駅長の食器として保管。所有権は駅管理局』


 『緊急保守調査への貸与内諾を得た。明日朝、学院へ移送する』


 クイリーは紙を読み終え、窓の外を見る。


 もう夕暮れだった。


 学院の向こうで、王都の灯りが一つずつ点き始める。


 そのさらに北。


 氷中航路の入口がある。


 残り三客だったものが、明日には残り二客になる。


 「準備しましょう」


 クイリーは言った。


 「五客目が来たら、その日のうちに検査します」


 そして少し考えてから付け加えた。


 「危険だと思ったら、止めます」


 ジオンニは迷わず頷いた。


 「君が決めていい」


 その一言が、今朝よりもずっと重く、けれど心地よく聞こえた。

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