第14話 逃げてくる夜の住人
翌朝、第五共鳴器は北方接続駅から学院へ届いた。
運搬箱には、駅管理局の封蝋と、ケンジの署名が三つ並んでいた。
『貸与目的――旧氷中航路緊急保守調査』
『返却条件――調査終了後、原状を保って返却』
『破損時――即時報告』
「細かい」
クイリーが呟くと、箱を運んできたケンジが真顔で答えた。
「百年以上残った物を、私たちの代で割るわけにはいかない」
「同感です」
「だから運搬経路も二つ用意した。第一経路が凍結したら第二経路へ切り替える予定だった」
「そこまで?」
「壊れてから反省するのは、リスク管理じゃない」
クイリーは少し笑った。
「好きです、その考え方」
「航路再開についても同じだ」
ケンジは笑わなかった。
「再開したい。だが、壊れてから反省する再開はしたくない」
その言葉に、クイリーも表情を戻した。
箱は学院地下の仮設検査室へ運び込まれた。
ジョドが封を切る。
布を一枚ずつ外すたび、古い陶器の縁が現れた。
「これは保存状態がいい」
ジョドが息を弾ませる。
白地に薄い青の線。
縁には細かな銀点。
これまで回収した四客と同じ形だが、青線の走り方だけが違う。
「北方接続駅の区画ですね」
クイリーが既存の四客を並べた。
五客目を加えると、途切れていた航路図の北側がつながった。
「きれいだ」
ジョドが言った。
「器としてじゃない。設計として」
「褒めるところ、そこですか」
「僕は両方褒めてる」
ヴイアンは一つずつ記録した。
「外観異常なし。ひびなし。底部の共鳴鉱物反応あり。四客との相互干渉は――」
計器の針が、小さく震えた。
「あります」
クイリーは湯を用意した。
今日使うのは、塩だけを加えた薄い野菜スープだ。
味を楽しむためではない。
器ごとの差を比較するため、温度と濃度を揃える必要がある。
「六十二度」
ヴイアンが読む。
「入れます」
クイリーが五客目へスープを注いだ。
青線が光った。
一客目。
二客目。
三客目。
四客目。
並べていた器も、順番に薄く発光する。
五つの光が机の上でつながり、古い航路図の輪郭を作った。
その瞬間だった。
地下の奥から、低い音が響いた。
ごうん。
壁が鳴った。
「今のは?」
ジョドが顔を上げる。
「学院の機関じゃない」
クイリーはもう計器を見ていた。
旧保守線の圧力計が跳ねている。
一度。
二度。
三度。
「逆流?」
「違う」
クイリーは首を振った。
「流れが途中で切れてる」
ヴイアンが五客目の波形を別紙へ落とす。
「主任。第四線と第五線の間だけ、応答が急に消えています」
「断線?」
「可能性が高いです」
クイリーは壁に掛けてある旧学院図を開いた。
第四線と第五線が学院地下で合流する地点。
旧共鳴管室。
「見に行きます」
クイリーが工具箱へ手を伸ばす。
「待って」
ジオンニの声だった。
彼は検査室の入口に立っていた。
朝から交通院との協議に出ていたはずだ。
「戻ったんですか」
「今戻った。何が起きた」
「共鳴管が切れた可能性があります」
「危険度は」
「未判定です」
ジオンニは一秒だけ考えた。
「なら、君が決める」
昨日渡した権限を、彼はためらいなく返してきた。
クイリーは頷いた。
「現場封鎖。私とヴイアンだけ先行。ジオンニ様とケンジさんは入口待機。ジョドさんは器を絶対に動かさないでください」
「分かった」
四人がほぼ同時に答えた。
◇
旧共鳴管室の扉は、内側から歪んでいた。
「圧力で?」
ヴイアンが問う。
「違う」
クイリーは蝶番の反対側へ灯りを向けた。
「外から叩かれてる」
扉の中央に、細い傷が何本も走っていた。
工具を差し込み、二人で隙間を広げる。
冷気が吹き出した。
中は暗い。
壁沿いに走る古い金属管が、途中で潰されていた。
しかも一本ではない。
「三本」
ヴイアンが数える。
「切断じゃないですね」
「うん」
クイリーは断面へ指を近づけた。
金属が内側へめり込んでいる。
刃物で切った痕ではない。
大きな力で何度も打ち据えられた形だ。
床には砕けた石片。
その横に、黒い粉が落ちている。
クイリーは紙片で粉を拾った。
「魔導破砕剤」
「学院の保守用品には?」
「こんな強度の物はない」
ヴイアンは黙って記録した。
事故ではない。
誰かが壊した。
その事実だけを、まず確定する。
「ここから先は触らない」
「証拠保全ですね」
「はい。修理は記録を取ってから」
そのとき。
遠くで鐘が鳴った。
一回。
二回。
学院の警報鐘だ。
「地上?」
二人は顔を見合わせた。
続いて、人の叫び声がした。
「井戸だ!」
誰かが廊下の向こうで叫んでいる。
「校舎裏の井戸から、何か出てる!」
◇
井戸の周りには、すでに数十人が集まっていた。
教師。
学生。
警備員。
皆、近づけずにいる。
井戸の縁から、氷色の小さな影が次々と這い上がっていた。
一匹。
三匹。
十匹。
「ミル?」
クイリーが呼ぶ。
最初に出会った小精霊が、群れの先頭にいた。
「クイ」
ミルが短く鳴く。
だが、いつもの様子ではない。
体を覆う薄い光が不規則に明滅している。
後ろから上がってくる小精霊たちも、泥と氷片まみれだった。
中には片脚を引きずるものもいる。
「全員、下がって!」
クイリーは声を張った。
学生たちがざわめく。
「でも、魔物じゃ――」
「攻撃姿勢じゃない!」
クイリーは即座に否定した。
「井戸から距離を取って、通路を空けて。毛布と温水を持ってきて。熱湯は駄目!」
「精霊に毛布?」
「いいから!」
ヴイアンがすぐ補足した。
「主任の指示どおりに。動ける人は西倉庫へ。記録係、出現数を数えてください」
統制が戻った。
ジオンニも人垣を越えてきた。
だが、井戸へ近づいた瞬間、膝が折れた。
「ジオンニ様!」
クイリーが支える。
「大丈夫だ」
「大丈夫な人は今、膝をつきません」
彼の手が冷たい。
いつもの夜間症状より早い。
まだ夕方にもなっていない。
「聞こえる」
ジオンニが低く言った。
「何が」
「多すぎる」
彼は井戸を見た。
「声が、一つじゃない」
ミルたちが一斉に振り返る。
そして、井戸の底を見た。
「いたい」
ミルが言った。
別の一匹も鳴く。
「くらい」
「せまい」
「うるさい」
人間の言葉に近いものは、そこまでだった。
だが十分だった。
彼らは出てきたのではない。
逃げてきた。
「地下で何かが起きてる」
ケンジが井戸の縁から距離を取り、携帯圧力計を床へ置いた。
「数値が上がってる。しかも北じゃない。学院直下だ」
「共鳴管を壊したせいで、逃がしていた負荷が別の水脈へ集中した?」
ヴイアンが言う。
「可能性があります」
クイリーは立ち上がった。
「先に精霊を退避させます。旧実習棟を空けて。暖房は弱く、床面温度を一定に」
「人間と同じ扱いでいいのか?」
ケンジが訊く。
「分かりません」
クイリーは答えた。
「だから測ります。嫌がったら変える。今は井戸の周りに置いておく方が危険です」
ミルが彼女の靴へ前脚を置いた。
「クイ」
「分かってる」
クイリーはしゃがんだ。
「直すから」
ミルが首を振った。
「ちがう」
「え?」
小さな前脚が、ジオンニを指した。
「よる」
次に、クイリーを指す。
「あさ」
そして二匹、三匹と、周囲の小精霊が同じように鳴いた。
「よる」
「あさ」
「まつ」
意味を測りかねて、クイリーは黙った。
ジオンニも何も言わなかった。
◇
日が落ちる前に、旧実習棟は臨時退避所になった。
小精霊は四十七匹。
ミルを入れて四十八。
温度を上げすぎると落ち着かず、十二度前後で安定した。
水は飲まないが、浅い皿へ氷片を入れると集まった。
ジョドは五客を検査室から運ばず、扉を封印した。
サマンサには学院内の騒ぎを外へ漏らすなと連絡した。
「無理ね」
返事は即座だった。
『学生が何十人も見てる。今夜中に王都へ広がるわ』
「じゃあ?」
『隠さない。先に正確な情報を出す。井戸から出たものは学院を襲撃していない。負傷した小型精霊を保護している。それだけ公表する』
「お願いします」
『任せて。騒ぎは止められなくても、嘘が最初に走るのは止められる』
通信を切る。
クイリーは地下へ戻った。
旧共鳴管室では、ヴイアンが破損部を記録し終えていた。
「修理可能です」
「所要時間は?」
「仮復旧なら六時間。本復旧は部材が足りません」
「六時間」
夜明けまでに間に合う。
クイリーは時計を見る。
午後九時十二分。
「やります」
「はい」
「ただし二交代」
ヴイアンが目を瞬いた。
「主任は?」
「私も交代に入る」
「昨日作った規程を忘れてませんね?」
「忘れてない」
「なら三交代にしましょう。主任が倒れたら判断者が消えます」
クイリーは反論しかけた。
だが、昨日、自分で書いた文言を思い出した。
現場主任が危険だと思ったら止める。
自分自身も、現場の一員だ。
「……分かりました。三交代」
「改善案を受け入れていただき、ありがとうございます」
「言い方がジオンニ様に似てきましたね」
「良いものは採用します」
ヴイアンは真顔だった。
◇
午前零時を回った。
潰された共鳴管を外し、予備管へ交換する。
古い規格のため、現代の継手がそのまま合わない。
クイリーが寸法を取り、ヴイアンが削り、学院技師が固定する。
一つずつ。
急がない。
急いで壊せば、また同じことになる。
午前一時四十分。
一系統復旧。
旧実習棟から連絡が入る。
『精霊の明滅が少し落ち着きました』
「記録してください。復旧時刻と合わせます」
午前三時八分。
二系統目。
ジオンニの呼吸も少し楽になった。
彼は地下室の入口に椅子を置き、ずっとそこにいた。
「休んでください」
クイリーが言う。
「君も」
「私は交代で二十分寝ました」
「私は三十分寝た」
「いつ」
「君が一系統目をつないでいた間」
クイリーは疑いの目を向ける。
「本当に?」
「ケンジが見張っていた」
少し離れた場所から、ケンジが手を上げた。
「寝ていた。記録もある」
「そこまで記録するんですか」
「公爵が休息指示を守った証拠だ」
クイリーは思わず笑った。
それから、ジオンニの顔を見る。
青白い。
眠ったところで、四十八もの声が流れ込んでくるなら休息とは言えない。
「ジオンニ様」
「何だ」
「今、どんな感じですか」
「冷たい。狭い。何かに押されている」
井戸から来た精霊たちと同じだ。
「でも、さっきより遠い」
「共鳴管を戻したから?」
「たぶん」
ジオンニは自分の胸元へ手を当てた。
「君たちが一本つなぐたび、少しずつ離れていく」
「なら、やる意味はあります」
「ある」
彼は迷わず言った。
「ありがとう、クイリー」
「まだ終わってません」
「終わってからしか感謝してはいけない理由はない」
その答えが、妙に胸へ残った。
◇
最後の仮設管を固定したのは、午前五時二十六分だった。
「通します」
クイリーが遮断弁へ手を置く。
全員が計器を見る。
「三、二、一」
弁を開く。
低い振動。
針が上がる。
一度だけ揺れ、規定範囲へ戻った。
「保持」
ヴイアンが言う。
「第四線、第五線ともに応答あり」
ケンジも別の計器を確認する。
「学院直下の氷圧、下降」
クイリーは通信管を取った。
「旧実習棟、様子は?」
少しして返事が来る。
『光が安定しました。何匹か眠っています』
室内の空気が、初めて緩んだ。
「仮復旧完了」
クイリーは記録紙へ書き込んだ。
「本復旧まではこの区画を封鎖します。破壊痕は監察側へ提出。警備記録と出入口記録も全部照合」
「了解」
ヴイアンが頷く。
外へ出ると、空が薄く白んでいた。
夜明け前の中庭は青い。
旧実習棟の扉を開ける。
四十八匹の小精霊が、床や机の下で丸くなっていた。
ミルだけが起きていた。
クイリーを見る。
次にジオンニを見る。
「よる」
ミルが言った。
「あさ」
窓の向こうで、最初の光が雪へ落ちた。
ジオンニが小さく息を吐く。
「朝だな」
「はい」
クイリーは答えた。
彼は一晩、ここにいた。
精霊の声を受け続けながら。
誰かを守るためだからと、また自分の苦痛を当然のように後回しにして。
昨日までなら、それを責任感だと思ったかもしれない。
今は違う。
「ジオンニ様」
「何だ」
「一つ、追加で守ってもらいたい規程があります」
「また私を止める規程か」
「はい」
クイリーは彼をまっすぐ見た。
「あなたも、守る側だけじゃなくて、守られる側に入ってください」
ジオンニの表情が止まった。
「公爵だからでも、監察官だからでもなく」
クイリーは続ける。
「あなたが壊れたら困る人がいるからです」
「それは、誰だ」
問い返されて、今度はクイリーが止まった。
逃げようと思えば逃げられる問いだった。
学院が困る。
北方が困る。
調査が困る。
いくらでも言える。
けれど、夜明けまで彼の呼吸を気にしていた自分は知っている。
「私です」
クイリーは言った。
声にしてしまえば、意外なほど簡単だった。
「私は、困ります」
ジオンニは何も言わなかった。
ただ、いつものように一歩引いて受け止めるのではなく、しばらく彼女を見ていた。
やがて、ほんの少し笑う。
「分かった」
「本当に?」
「努力する」
「そこは即答で守ると言ってください」
「できない約束はしたくない」
「そういうところは冷静なんですね」
「君に教わった」
「教えてません」
ジオンニは、今度ははっきり笑った。
「では訂正する。守られる練習をする」
「それなら合格です」
ミルが二人の間へ割り込むように跳ねた。
「まつ」
クイリーがしゃがむ。
「何を?」
ミルは窓の外ではなく、床の下を見た。
「まだ」
四十八匹のうち、眠っていた何匹かが顔を上げる。
朝になっても、彼らは井戸へ戻ろうとしない。
クイリーはそれを見て、胸の奥に残っていた安堵を引き締めた。
共鳴管は直した。
けれど、地下で起きていることは終わっていない。
夜の住人たちは、まだ朝を待っている。




