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氷中航路の整備士令嬢は、夜の公爵と朝を待つ  作者: 乾為天女


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15/20

第15話 冬まで残り三十日

 翌朝、王都の石畳に厚い霜が降りた。


 学院の石畳は白く縁取られ、校舎裏の井戸には薄い氷膜が張っていた。

 そのすぐ横で、ミルが前脚を乗せては、ぱり、と割って遊んでいる。


 「元気そうですね」


 クイリーは井戸の縁から旧実習棟を見た。


 四十八匹の夜の住人は、昨夜より落ち着いている。

 仮復旧した共鳴管の数値も、危険域からは下がった。


 けれど、地下へ戻った個体は一匹もいなかった。


 「戻れないのか、戻らないのか」


 隣でヴイアンが記録板へ書き込む。


 「そこは分けて考えた方がいいですね」

 「うん。地下が安全になったと判断できる材料がない」


 クイリーは井戸の底へ視線を落とした。


 昨夜、共鳴管は誰かに壊された。

 しかも偶然ではない。


 五客目を起動した直後だった。


 こちらが七客を集めていることを知っている者がいる。

 そう考えるのが自然だった。


 だが、それを証明する記録はまだない。


 「破壊痕の分析は?」

 「魔導破砕剤の成分照合中です。学院内の在庫とは一致しません」

 「出入口記録は?」

 「昨夜の前後三時間で、旧地下区画へ正規入場した者は私たちだけです」


 「じゃあ、非正規経路」


 ヴイアンが頷く。


 「一つずつ潰します」


 「お願いします」


 クイリーも頷いた。


 焦って犯人を決めれば、また記録を見誤る。


 故障と同じだ。

 原因を決めてから証拠を探すのではなく、証拠から原因を狭める。


 そう考えたところで、学院正門の方から馬車の音がした。


 朝にしては多い。


 続いて、警備員が中庭へ走り込んできた。


 「主任!」


 「何ですか」


 「交通院から公示です。王都掲示所にも同じものが出ています」


 差し出された紙には、赤い公印が押されていた。


 クイリーは一行目を読み、眉を寄せた。


 『北方物流非常措置に基づく氷中航路試験運行について』


 その下に、日付がある。


 十二日後。


 「……決めたの」


 ヴイアンが横から読む。


 「昨日の報告を受けたあとですよね」


 「だから決めたんでしょうね」


 学院側が危険だと言えば言うほど、交通院は政治判断を急ぐ。


 クイリーは紙を最後まで読んだ。


 試験列車は一編成。

 積載物は救援用燃料。

 乗員は最小限。

 速度制限付き。


 文章だけなら慎重に見える。


 ただし、一番重要な一文がなかった。


 「中止条件が書いてない」


 ヴイアンが言う。


 「氷圧がいくつなら止めるのか。共鳴異常が出たらどの時点で撤退するのか。何もないですね」


 「走らせる条件だけ決めて、止める条件を決めてない」


 クイリーは紙を折った。


 「それは試験じゃない」


     ◇


 午前九時。


 学院の臨時監察室には、主要な関係者が揃っていた。


 クイリー。

 ヴイアン。

 ケンジ。

 ジオンニ。


 壁際には五客の共鳴器が、ひとつずつ固定台に載せられている。


 ジョドは補修用の樹脂を調合するため工房へ戻っていた。

 サマンサは王都の反応を追っている。


 机の中央に、交通院の公示が置かれていた。


 「十二日後」


 ジオンニが言った。


 声は平静だった。


 「監察官として、私は延期を勧告する」


 「交通院は従いますか」


 クイリーが訊く。


 「勧告だけなら、従わない可能性が高い」


 ジオンニは隠さなかった。


 「非常物流措置の適用中は、交通院に一定の裁量がある。北方の燃料不足を根拠にされた場合、危険性を示すだけでは弱い」


 「弱い?」


 クイリーの声が少し硬くなった。


 「崩落リスクが許容値を超えてるのに?」


 「政治判断では、『走らせないことで何人が困るか』も比較される」


 ケンジが静かに言った。


 彼の前には、北方から届いた数字が並んでいる。


 「だから今日は、その話をしに来た」


 ケンジは一枚目をクイリーへ渡した。


 北方主要六都市、燃料備蓄推計。


 一番少ない都市で二十四日。

 二番目が二十七日。

 平均で二十九・八日。


 「一か月……」


 「正確には、今朝の時点で平均二十九・八日」


 ケンジは言う。


 「配給をさらに絞れば延ばせる。ただし病院、給水設備、共同暖房所を優先すると、一般家庭と工房が先に止まる」


 「迂回路は?」


 「もう使ってる。最大まで」


 別の紙が出る。


 馬車輸送。

 山岳路。

 南回りの河川輸送。


 どれも増便済みだった。


 「雪が深くなれば山岳路は落ちる。河川は凍る。今の輸送量を維持できるのは、よくて三週間」


 ケンジは一度息をついた。


 「私は航路を再開したい」


 以前と同じ言葉だった。


 けれど今日は、その言葉の重さが違った。


 「危険だから止めよう、だけでは北方は冬を越せない」


 クイリーは資料を見た。


 二十四日。

 二十七日。

 二十九・八日。


 ただの数字ではない。


 暖房が止まる家の数だ。

 閉鎖される工房の数だ。

 冬の病棟で使える熱源の残りだ。


 「じゃあ走らせるんですか」


 「今の状態では反対する」


 ケンジは即答した。


 「走らせて崩落したら、復旧に何年かかるか分からない。最悪、北方への地下水脈まで変わる」


 「なら」


 「再開する条件を、こっちから出そう」


 クイリーは顔を上げた。


 ケンジは机に新しい紙を置いた。


 まだ白紙に近い。


 上部にだけ題名がある。


 『氷中航路 条件付き段階再開基準案』


 「止めるための報告書じゃない」


 ケンジは言った。


 「安全に動かすために、何が足りないかを全部書く」


 ヴイアンが紙へ身を寄せる。


 「氷圧上限」


 「必要です」


 「共鳴点の最低稼働数」


 「必要」


 「警告が出た場合の撤退条件」


 「必須」


 クイリーも口を開いた。


 「夜の住人側から警告を受け取れること」


 一瞬、全員が黙った。


 ケンジが頷く。


 「入れよう」


 「交通院が認めますか」


 「認めさせる」


 彼の目に、初めて少し熱が見えた。


 「私は数字を出す。ヴイアンは手順を詰める。あなたは設備条件を決める。公爵は監察官として提出する」


 ジオンニが確認する。


 「期限は」


 「十二日では足りない」


 ケンジは言った。


 「だが三十日もない」


 窓の外で、風が鳴った。


 「冬まで残り三十日だと思ってください」


     ◇


 その日から、学院の壁に二つの表が貼られた。


 一つは、七客の回収状況。


 一客目、学院地下。

 二客目、公爵家。

 三客目、王立測候台。

 四客目、民間収蔵家。

 五客目、北方接続駅。


 残り二客。


 もう一つは、再開条件案だった。


 一、七区画の氷圧監視が同時に成立すること。

 二、警告波形を人間側で解読できること。

 三、負荷が一地点へ集中しないこと。

 四、緊急停止後の圧力逃がし手順が存在すること。

 五、試験前に退避経路を確保すること。


 「三番」


 クイリーが指で叩く。


 「これが一番大きい」


 ジオンニは彼女の隣に立っていた。


 「私に集中している負荷か」


 「はい」


 「解除方法はまだ分からない」


 「だから、分からないまま走らせない条件にします」


 クイリーは書き足した。


 『六、契約者個人を安全装置として使用しないこと。』


 ジオンニがその一文を見た。


 「ずいぶん具体的だな」


 「具体的にしないと抜け道を作られます」


 「私だけを対象にしているようにも見える」


 「今は実質そうです」


 クイリーはペンを置いた。


 「でも、あなた一人のための条件じゃありません」


 「分かっている」


 「本当に?」


 「技術基準として残すつもりなんだろう」


 「そうです」


 クイリーは少しだけ息を吐いた。


 彼はもう、自分だけ耐えればよいとは言わなかった。


 昨夜の約束を覚えているらしい。


 「ところで」


 クイリーは彼の顔を見た。


 「昨夜、寝ました?」


 「一時間半」


 「短い」


 「今までより長い」


 「比較対象がおかしいです」


 「君に守られる側へ入れと言われたので、仮眠命令には従った」


 クイリーは言葉に詰まった。


 「……誰の命令ですか」


 「学院医務室とヴイアン」


 「なら、もっと従ってください」


 「善処する」


 「それ、守る気が薄い人の言葉です」


 ジオンニが少し笑った。


 その顔を見て、クイリーは胸の奥が軽くなるのを感じた。


 昨日、自分は言った。


 あなたが壊れたら、私が困る。


 今朝になっても、取り消したいとは思わない。


 むしろ困る。


 十二日後に航路が動くかもしれない。

 その前に七客を揃えなければならない。

 地下では夜の住人が帰れずにいる。


 時間が足りない。


 だからこそ、ジオンニがまた自分を消耗品として扱うことだけは許したくなかった。


     ◇


 夕方。


 ヴイアンが古い移管台帳を抱えて、監察室へ入ってきた。


 「主任。六客目の行方、たぶん追えます」


 クイリーは椅子から立った。


 「どこ?」


 「元の移管先は事故区間の保守詰所です」


 「そこは十年前に壊れてる」


 「はい。だから、その後の回収品台帳を探しました」


 ヴイアンが別の紙を開く。


 事故現場回収品。

 遺留物。

 保守用品。

 個人所持品。


 その中に、一行だけあった。


 『青線文深鉢 一点。損傷軽微。事故慰霊資料として移管』


 クイリーは行の最後を読む。


 「事故慰霊館」


 「現物確認はまだです」


 ヴイアンが言った。


 「ただ、形状記録は一致します」


 ケンジが台帳を覗き込む。


 「事故区間の保守詰所にあったなら」


 「事故前夜の保守線を受けていた可能性がある」


 クイリーが続けた。


 部屋が静かになった。


 十年前。


 事故の前夜。


 交通院は、警告がなかったと言っている。


 新書には、警告があったと書かれていた。

 だが、その新書には偽造資料も混じっている。


 必要なのは、誰かの証言ではない。


 その夜、その場所につながっていた器自身の記録だ。


 「明日、行きます」


 クイリーは言った。


 ジオンニが頷く。


 「遺族側への説明は私がする」


 「強制借用はしません」


 「もちろんだ」


 ケンジも言う。


 「慰霊館なら、返却条件を先に決めた方がいい。証拠だからと取り上げたら、協力は得られない」


 「サマンサにも来てもらいます」


 ヴイアンが最後に、壁の表へ線を引いた。


 残り二客。


 その下へ、新しい一行が書き加えられる。


 六客目――事故慰霊館、現物確認待ち。


 クイリーは隣の再開条件表を見た。


 そして、その横に置かれた日付表を見る。


 試験運行まで、あと十二日。


 北方の平均燃料備蓄、二十九・八日。


 七客、残り二つ。


 数字は、急げと言っている。


 けれど、急ぐことと雑に進めることは同じではない。


 「一つずつ」


 クイリーが呟く。


 ヴイアンが聞き取って、頷いた。


 「確実に」


 窓の外では、霜が溶けないまま夜へ変わり始めていた。


 冬まで残り三十日。


 十二日後に列車を走らせるという者たちへ、彼らはそれより先に、走らせてよい条件を突きつけなければならない。

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