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氷中航路の整備士令嬢は、夜の公爵と朝を待つ  作者: 乾為天女


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第8話 温かいスープで目覚める器

 壁の向こうに何かがある。


 そう確信してから、クイリーが最初にしたのは、叩くことではなかった。


 「ヴイアン。救援の人に、壁際へ寄らないよう伝えて」

 「はい」

 「ジオンニ様は座ったまま」

 「私はもう歩ける」

 「歩けるのと、歩いていいのは別です」


 言い切ると、ジオンニは反論せず、壁際の石台へ腰を下ろした。


 夜明けとともに痛みが薄れたとはいえ、顔色はまだ白い。六時間近く地下で発作に耐えていた人間を、発光した壁へ近づける理由はない。


 クイリーは点検槌の柄で、壁面を軽く叩いた。


 こん。


 隣。


 こん。


 さらに隣。


 こつ。


 「空洞があります」


 ヴイアンがすぐに気づいた。


 「右下、幅は四十……いえ、五十センチくらい」

 「同じ見立て」


 ミルが待ちきれないように、青白く光る壁を前脚で引っかく。


 「分かったから削らないで。あなたの爪よりこっちの工具の方が速い」


 ミルが不満そうに鳴いた。


 救援に来た学院整備員から探査板と小型切断器を受け取る。


 壁面を調べると、氷の下に薄い金属板が埋まっていた。錆びはほとんどない。旧航路で使われていた耐寒合金だ。


 「扉だったみたいですね」


 ヴイアンが言う。


 「壁じゃなくて、壁龕の蓋」

 「制御が死んで開かなくなって、その上から氷が育った」


 クイリーは縁へ切断器を当てた。


 「なら、壊すのは氷だけ。金属は残す」


 一度に大きく割れば、中身まで傷つける。


 薄く削り、探査板で厚みを測り、また削る。


 急がない。


 分からないものほど、急がない。


 しばらくして、最後の氷膜がぱきりと割れた。


 金属蓋の中央に、小さな丸い窪みが現れる。


 それは円形保守台の窪みと同じ意匠だった。


 「クイリー」


 ジオンニが低く呼ぶ。


 「見えてます」


 窪みの縁には、欠けた青い線が走っている。


 陶器片と同じ色。


 クイリーは工具鞄を開けた。


 ミルが初めて井戸から現れた夜に持ってきたあの欠片は、布に包んだまま保管してある。


 取り出して近づける。


 かちり。


 欠片が吸いつくように、金属蓋の窪みへはまった。


 青い線が一周する。


 低い作動音。


 蓋が数センチだけ手前へ浮いた。


 ミルが高い声を上げる。


 「まだ」


 クイリーは手で制した。


 蓋の隙間へ探査板を差し込む。


 内部温度、正常。

 魔力漏れ、なし。

 圧力差、ほぼなし。


 「開けます」


 両手で蓋を引く。


 奥には、浅い棚が一段だけあった。


 その中央に、布で包まれた丸いものが置かれている。


 布は触れただけで崩れた。


 現れたのは、陶器の器だった。


 乳白色の地に、青銀の線。

 深さのあるスープボウル。


 ただし、縁の一部が大きく欠けている。


 クイリーは手の中の欠片を見る。


 「……合う」


 ジョドの鑑定どおりだった。


 欠片は、この器から割れたものだ。


 ミルが器の前へ座った。


 今までで一番静かだった。


 鳴きもしない。


 ただ、じっと見ている。


 「持ち出す前に記録します」


 ヴイアンが記録板を構える。


 「位置、深度、壁龕の状態、封印機構。順番に」

 「お願い」


 クイリーも棚の奥を確認した。


 器以外には、金属札が一枚。


 表面に古い文字が刻まれている。


 『第一保守点 朝餐器』


 「朝餐器?」


 ジオンニが立ち上がりかける。


 「座って」

 「文字だけ見せてくれ」


 クイリーは金属札を持って近づいた。


 ジオンニが目を細める。


 「公爵家の古文書で見たことがある。朝餐、という言葉自体は普通だが、この表記は航路儀礼の記録に出る」

 「儀礼?」

 「詳しい内容は失われている。夜明け前後に保守員と契約者が同席した、とだけ」


 クイリーは器を見る。


 「食器を使う保守作業」

 「妙だな」

 「機械に食事は要らない」


 ミルが、ぴ、と鳴いた。


 「あなたには要る?」


 ミルは首を傾げた。


 答えになっていない。


     ◇


 地上へ戻ったのは、朝の九時を過ぎてからだった。


 学院の修復工房では、ジョドが待ち構えていた。


 「置いて。そこ。いや、待って、布を二枚。机は動かさないで」


 普段の柔らかな物腰が消えている。


 古陶器を前にすると、彼は別人のように細かい。


 「欠片は?」

 「これ」


 クイリーが渡すと、ジョドは器の欠損部へ当てた。


 ぴたりと合う。


 「同じ器だ」


 彼の声が少し震えた。


 「釉薬の流れも、焼成時の歪みも一致する。百年以上離れていたはずなのに、ようやく戻った」


 「直せる?」


 「直す」


 即答だった。


 それから一拍遅れて、ジョドはクイリーを見る。


 「ただし、一人では無理だ。接合剤を作るのに低温炉を一定で回したい。機器を借りられる?」

 「もちろん」

 「細い固定具も欲しい」

 「整備工房から持ってくる」

 「ありがとう」


 理想を大切にする人間ほど、全部を自分で抱え込むとは限らない。


 ジョドは必要なものを必要な相手へ頼み、作業を一つずつ積み上げていった。


 クイリーは低温炉の出力を調整し、ヴイアンが接合作業の時間を記録する。


 ジオンニは医務室へ送ろうとしたが、本人が「二時間だけ休んだら戻る」と譲らなかった。


 「戻る必要はないです」


 「調査責任者だ」

 「病人でもあります」

 「昨夜は病人扱いしなかったのでは?」

 「昨夜の話と睡眠不足は別です」


 ジオンニはわずかに笑った。


 「二時間半」


 「三時間」


 「分かった」


 意外なほど素直に折れた。


 その背中を見送ってから、ジョドが小さく言った。


 「仲がいいね」


 「作業に集中して」


 「はい」


 返事だけは素直だった。


     ◇


 昼前。


 一客目は、再び一つの器になった。


 接合痕は薄く残る。


 ジョドはそれを消さなかった。


 「新品に見せる必要はない」


 彼は器を両手で持ち、光へ透かした。


 「割れた事実まで消したら、これは修復じゃなくて偽装になる」


 「同意します」


 クイリーは即答した。


 十年前の記録を追っている今、その言葉は妙に重かった。


 修復した器を、学院地下から持ち上げた小型台座の上へ置く。


 青銀の線は何も変わらない。


 「まず、条件を潰します」


 クイリーは実験記録用紙へ項目を書いた。


 空。

 冷水。

 常温水。

 温水。

 塩水。

 油。


 ヴイアンが横から覗き込む。


 「食品も試す?」

 「金属札が朝餐器。器の形はスープボウル。なら、液体だけじゃなく内容物も条件かもしれない」


 最初は空のまま。


 反応なし。


 冷水を注ぐ。


 反応なし。


 常温水。


 変化なし。


 温水。


 青銀の線が、ごくわずかに明るくなった。


 「今、光った」


 ヴイアンが言う。


 「温度を記録」


 「四十二度」


 クイリーはもう一度、少し高い温度の湯を試す。


 五十度。


 線は先ほどより明るい。


 「温度が条件の一つ」


 「でも、起動まではしてない」


 ジョドが言う。


 「そうね」


 クイリーは器の内側を見る。


 百年以上前のスープボウル。

 朝餐器。


 温かい液体。


 「……スープを入れよう」


 工房が静かになった。


 ヴイアンが瞬きをする。


 「本当に?」

 「ここまで条件が揃ってる。試さない理由がない」

 「何のスープ?」


 クイリーは少し考えた。


 「なるべく単純なもの。油脂と塩分が少し入っていて、固形物は少ない方が観察しやすい」


 「料理を実験試料の言い方で説明する人、初めて見た」


 ジョドが笑った。


 「食堂へ行ってくる」


 その役を買って出たのはヴイアンだった。


 「一つずつ確実に試すなら、厨房で作り方も聞いてきます」


 十分後、彼は小鍋を持って戻った。


 薄い鶏の出汁に、塩と少量の根菜だけを使った朝用のスープ。


 温度、五十四度。


 クイリーが器へ注ぐ。


 白い湯気が立った。


 一秒。


 二秒。


 三秒。


 青銀の線が、光った。


 今度は微光ではない。


 「下がって」


 クイリーが言った。


 器の縁から幾筋もの青い光が流れ、乳白色だった釉薬の中へ細い線が浮き上がっていく。


 線は枝分かれした。


 円。

 曲線。

 交差点。


 ジョドが息を呑む。


 「模様が……動いてる」


 「模様じゃない」


 クイリーは机上の旧航路図を引き寄せた。


 器の表面と見比べる。


 「航路図」


 七つの主要区画。

 接続保守線。

 圧力逃がし坑。


 器の表面に浮かんだ線は、現存するどの図面より細かかった。


 そして、その一角だけが赤紫に脈打っている。


 十二秒ごと。


 どくん。


 どくん。


 「学院北側……旧第一保守区画」


 ヴイアンが位置を読む。


 「昨日の逆流起点に近い」


 「近い、じゃない」


 クイリーは定規を当てた。


 「一致してる」


 昨日まで推定しかできなかった異常地点が、器の上では一点として示されている。


 ミルが工房の入口から駆け込んできた。


 誰かに止められたらしく、首に「立入禁止」と書かれた紙片を引っかけている。


 「どうやって入ってきたの」


 ミルは答えず、机へ飛び乗った。


 温かいスープの入った器を覗き込む。


 青い耳がぴんと立つ。


 そして、鳴いた。


 「ピィ」


 その瞬間だった。


 クイリーの耳に、鳴き声とは別のものが届いた。


 音ではない。


 意味。


 言葉になる直前の感覚が、器の青い線を伝って頭の奥へ触れる。


 ――ひとつ。


 クイリーは息を止めた。


 「今……」


 ヴイアンも固まっている。


 「聞こえた?」


 「聞こえた、というか……分かった」


 ジョドは首を振る。


 「僕には鳴き声だけ」


 ミルがもう一度鳴く。


 「ピィ、ピィ」


 今度は、はっきりした。


 ――ひとつ。


 ――ここ。


 クイリーは器へ手を触れないまま、顔を近づける。


 「一客目だから?」


 ミルが尻尾を振った。


 そして急に、工房の棚を見回した。


 何かを探すように。


 「何?」


 「ピィ」


 ――ない。


 青い小動物は器の周囲を一周する。


 もう一度。


 もう一度。


 そのたびに、不足を数えるような焦りが伝わってくる。


 やがてミルは、クイリーを真っすぐ見上げた。


 「ピィィ」


 今度の意味は、三人にも分かった。


 ――六つ、足りない。


 工房が静まり返った。


 クイリーは、壁に貼られた移管台帳の写しへ目を向ける。


 七客一組。


 一客目は、ここにある。


 残りは六客。


 公爵家倉庫。

 王立測候台。

 民間収蔵家。

 北方接続駅。

 事故慰霊館。

 そして、所在欄が途中で書き換えられている最後の一客。


 「これを全部集める必要がある」


 ヴイアンが言った。


 「たぶん」


 クイリーは器の航路図を見る。


 赤紫に脈打つ一点。


 それ以外の六区画は、薄暗いままだ。


 「でも、先に確認することがある」


 「何を?」


 「この器が示しているのが、現在の状態なのか、昔の記録なのか」


 整備主任としては、そこを飛ばせない。


 「それから、なぜ温かいスープで起きるのか。なぜミルの声が意味として届くのか。七客を揃えたら何が起こるのか」


 ジョドが苦笑する。


 「山ほどあるね」


 「故障調査なんて、だいたいそういうものです」


 そのとき、工房の扉が開いた。


 三時間きっちり眠ったらしいジオンニが立っている。


 昨日より顔色は戻っていた。


 「何が起きた?」


 クイリーは器を指した。


 「温かいスープで、古い食器が航路図になりました」


 ジオンニは数秒、黙った。


 「三時間眠っている間に?」


 「はい」


 「次からは起こしてくれ」


 「休めと言ったのは私です」


 「それでも言ってみただけだ」


 彼が器へ近づく。


 ミルは逃げなかった。


 むしろジオンニを見て、一度だけ低く鳴いた。


 青銀の線が揺れる。


 ジオンニの表情が変わった。


 「……聞こえる」


 「何が?」


 彼は器の奥を見つめた。


 「寒い、と」


 クイリーの視線が、赤紫に脈打つ一点へ落ちる。


 十二秒。


 また脈打つ。


 器は目覚めた。


 けれど、直ったわけではない。


 むしろ初めて、どこが壊れているのかを伝え始めたのだ。


 クイリーは記録用紙の一番上へ、新しい見出しを書いた。


 『七客共鳴器 第一客 起動試験』


 その下へ、迷わず続ける。


 『残り六客の所在確認を優先』

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