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氷中航路の整備士令嬢は、夜の公爵と朝を待つ  作者: 乾為天女


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第4話 王都を揺らす一冊

 翌朝、王立技術学院の正門前には、雪より先に人が積もっていた。


 「入構証のない方は、門から先へ入れません!」


 守衛の声が、ざわめきに飲み込まれる。


 記者。

 野次馬。

 十年前の事故で家族を亡くした遺族。

 氷中航路の再開に反対する市民団体。

 逆に、北方への物流を一刻も早く戻せと訴える商人たち。


 まだ朝の八時だというのに、学院正門は小さな集会場のようになっていた。


 「……昨日までは静かだったのに」


 クイリーは二階の窓から外を見下ろした。


 隣でヴイアンが新聞の号外を広げる。


 「原因はこれです」


 紙面の中央には、大きな見出しが躍っていた。


 ――十年前の氷中航路事故は予見されていた。

 ――交通院は警告記録を黙殺したのか。


 そして、見出しの下には一冊の本の絵。


 『氷中航路の真実』。


 王都で近年広まり始めた、小型で安価な時事叢書――新書として、今朝一斉に発売されたらしい。


 「発売から二時間で号外?」

 「新聞社には事前に献本されていたのでしょう」

 「準備がいいわね」

 「売る側としては」


 ヴイアンは感情を挟まず答えた。


 クイリーは号外を机へ置いた。


 「内容は?」

 「一冊確保しています」


 さすがだった。


 彼が差し出した本は、装丁こそ簡素だが、表紙には崩落した氷中航路の古い写真版が使われていた。


 副題は――『封じられた警告と七十三名の死』。


 クイリーの指が止まる。


 七十三名。


 十年前の事故で公式に確認された死者数だった。


 「誰が書いたの」

 「著者名はセドリック・ハーン。事故関係者遺族とだけ紹介されています」

 「聞いたことがない」

 「私もです」


 ページを開く。


 文章は扇情的だった。


 交通院が事故を知りながら列車を走らせた。

 現場技師は何度も停止を求めた。

 だが上層部は冬季増便を優先した。


 断定が多い。


 クイリーは眉を寄せた。


 「これだけなら、読む価値はあるけど証拠にはならない」

 「後半を」


 ヴイアンが頁を示す。


 そこには、複写したらしい整備記録が掲載されていた。


 日時。

 区画番号。

 氷圧値。

 警告符号。

 担当者の署名。


 クイリーの呼吸が一拍だけ止まった。


 「……この様式」

 「学院文書庫に残る旧航路保守票と同じです」


 ヴイアンは比較用の複写を横へ置いた。


 罫線の幅。

 欄外の照合印。

 旧字体の区画符号。

 廃止された二重署名欄。


 細部まで一致している。


 「偽造するなら、相当古い資料を見ている」

 「あるいは、本物そのものです」


 クイリーは掲載頁を指で追った。


 事故三日前。

 北方第三区画。

 氷圧変動、基準値を超過。


 次頁。


 事故前日。

 中央管制への再測定要請。


 さらに次。


 事故当日早朝。

 運行停止を推奨。


 紙面上では、そこに赤い囲みまで付けられていた。


 「もし本物なら」


 クイリーは言葉を切った。


 「事故は、起きるまで何も分からなかったわけじゃない」

 「はい」


 だからといって、いま結論は出せない。


 掲載された写しが本物でも、前後が抜かれているかもしれない。

 数値だけ変更されている可能性もある。

 署名を写して、本文だけ作ったかもしれない。


 現場では、正しい数字一つが、嘘の報告書全体を本物らしく見せることもある。


 「原本と照合するまで、判断しない」

 「同意します」


 そのとき、廊下から足音が近づいた。


 扉が開き、学院事務官が青い顔で立っていた。


 「主任。正門前で遺族の方々が面会を求めています。それと、記者が四社。北方交易組合からも代表が――」

 「私は設備担当よ」

 「分かっています。ですが、記事に『王立技術学院が現在、事故記録の再調査を行っている』と」


 「誰が漏らしたの?」


 事務官は答えられなかった。


 クイリーは額を押さえる。


 昨日、七客の移管台帳を見つけたばかりだ。

 調査権限を得たのも昨日。


 それがもう外へ出ている。


 「学院長は?」

 「王宮から呼び出しが」

 「公爵閣下は?」

 「交通院との緊急協議へ」


 最悪の組み合わせだった。


 設備を調べたい人間だけが、学院へ残されている。


 「記者会見はしない。遺族の面会は人数を区切って会議室へ。学院が現在確認できている事実だけ文書にする」

 「誰が説明を?」

 「だから私は設備担当――」


 「それなら、私がやります」


 知らない女の声が、開いた扉の向こうからした。


 栗色の髪を高くまとめた女性が、雪のついた外套を事務官へ渡しながら入ってくる。


 鮮やかな笑顔。

 けれど目だけは、部屋にある本、号外、記録紙を一瞬で数えていた。


 「サマンサ・レイル。王都出版組合との折衝役をしています。ジオンニ公爵から、学院の対外対応を手伝うよう頼まれました」


 クイリーは彼女を見る。


 「出版組合の人が、出版物で起きた騒ぎを片づけに?」

 「正確には、出版社の人間と話ができる人です。片づけるかどうかは、騒ぎの中身を見てから決めます」


 サマンサは机上の『氷中航路の真実』を指した。


 「読まれました?」

 「途中まで」

 「感想は?」

 「技術資料としては未検証」


 数秒、サマンサは黙った。


 それから楽しそうに笑った。


 「いいですね。私もそう答えます」

 「何を?」

 「正門前の記者に」


 クイリーは思わず彼女を見直した。


 「否定しないの?」

 「否定する材料がないでしょう?」

 「肯定する材料もない」

 「だから、そのまま言います。『掲載資料は現在検証中であり、学院は真偽をまだ判断していない』。これなら嘘ではありません」


 「でも、それでは騒ぎは収まらないわ」

 「収めなくていいんです」


 サマンサはさらりと言った。


 「騒ぎと混乱は別です。騒ぎは人の関心。混乱は、何を信じればいいか分からない状態です。いま必要なのは前者を消すことではなく、後者を減らすこと」


 ヴイアンがわずかに頷いた。


 「検証基準を公開する、ということですか」

 「そうです。確認できたこと、確認できていないこと、次に何を調べるか。そこだけ揃えて話せばいい」


 サマンサは新書を手に取った。


 「それに、この本は妙です」


 「どこが?」


 「売り方が上手すぎる」


 クイリーには判断できない分野だった。


 「新書は安価で、新聞より長く、専門書より早く読める。政治や事件を広く知らせるには向いています。でも、これは発売初日から王都の主要書店すべてに積まれている。新聞四社へ事前献本。印刷部数も通常の初版よりかなり多い」


 「内容に注目が集まると分かっていた?」

 「それだけなら出版社の読みです。でも、著者が無名の遺族なら、ここまで一気に仕掛けるのは珍しい」


 サマンサは表紙を閉じた。


 「誰かが、この本をセンセーションにしたかった」


 その言葉と同時に、正門の方角から大きな歓声が聞こえた。


 次いで、怒鳴り声。


 事務官が窓へ走る。


 「再開反対派と交易組合が言い争っています!」


 サマンサの表情が変わった。


 「行きます」

 「一人で?」とクイリー。

 「こういう場は人数を増やすと、相手も増えます」


 彼女は出ていきかけて、振り返った。


 「クイリーさん。一つお願いがあります」

 「何?」

 「この本の中で、本物かもしれないと思う頁に印をつけてください。逆に、技術的におかしい頁にも」

 「何に使うの」

 「出版社へ確認する順番を決めます。本全部を疑うより、疑う理由を分けたほうが早い」


 クイリーは少しだけ口元を緩めた。


 「あなた、交渉役というより整備士みたいね」

 「壊れた人間関係は、部品番号が振ってないので面倒ですけどね」


 そう言って、サマンサは廊下へ消えた。


 正門前の騒ぎは、昼までに完全には消えなかった。


 ただし、殴り合いにもならなかった。


 サマンサは学院の門を開けず、その場に小さな卓を出させた。

 記者へは、確認済み事実を三点だけ渡した。


 一、学院で旧航路由来とみられる異常が観測されている。

 二、新書掲載資料について真偽の照合を始めた。

 三、検証完了前に事故原因や再開可否について断定しない。


 遺族へは別の説明時間を設けた。

 交易組合には、再開を妨害するための調査ではなく、安全条件を確定するための調査だと伝えた。


 どちらにも都合のいい約束はしなかった。


 その代わり、質問を一つずつ記録した。


 「うまい」


 二階の窓から様子を見ていたヴイアンが言った。


 「珍しく感想ね」

 「事実です。質問者を分類して、同じ回答を繰り返しています。矛盾が出にくい」

 「そこを見るのね」


 クイリーは新書の検証へ戻った。


 掲載資料は全部で十一点。


 まず様式。

 次に用語。

 そして数値。


 一枚目。

 事故三日前の保守票。


 旧学院文書庫に同一形式がある。

 担当区画番号も実在。

 署名欄の筆跡は確認不能。


 二枚目。

 事故前日の氷圧測定表。


 「ヴイアン。ここ」


 クイリーが指す。


 欄外に、小さな三角印があった。


 「旧式の再測定符号です」

 「いつまで使われていた?」

 「事故の十二年前まで。以後は二重丸へ変更されています」


 「なのに事故前日の記録にある」

 「不自然です」


 クイリーは頁へ細い紙片を挟んだ。


 「ただし、これだけで偽物とは言えない。古い用紙を使い続けた現場があったかもしれない」

 「確認します」


 三枚目。


 中央管制への送信票。


 クイリーはそこを見た瞬間、手を止めた。


 「これ……」


 送信票の右下。

 紙面の端に、ほとんど切れている印字がある。


 十二桁の設備識別符号。


 「学院地下の旧保守ノードで見た形式と同じ」


 ヴイアンも身を寄せた。


 「はい。ただし識別番号は違います」

 「違って当然。区画が違うもの」


 それでも、符号体系は同じだった。


 十年前の事故当日まで、この旧式保守網が使われていた可能性がある。


 七客の器が廃止されたのは二十年前。


 では、その後も何かだけは残っていたのか。


 「この頁は、かなり本物に近い」


 クイリーが言った。


 ヴイアンは慎重に答える。


 「少なくとも、作成者は旧保守網の内部様式を知っています」


 「それだけじゃない」


 クイリーは昨日の台帳を引き寄せた。


 七客の移管先。


 一号、学院。

 二号、公爵家。

 三号、王立測候台。


 新書の掲載表には、事故前日の気象値として王立測候台の記録番号が引用されていた。


 「三号」


 「はい」


 「この本、七客の行き先と同じ場所の記録を使ってる」


 偶然かもしれない。


 だが、偶然として捨てるには近すぎる。


 午後、交通院との協議を終えたジオンニが学院へ戻ってきた。


 外套を脱ぐ間もなく、クイリーたちの作業室へ来る。


 「状況は?」


 「学院はまだ壊されていません」とクイリー。


 ジオンニがわずかに目を細める。


 「それは何よりだ」


 「サマンサのおかげです」


 「彼女は?」


 「いま出版社へ行っています。新書の原稿経路と、掲載資料の出所を確認すると」


 ジオンニは小さく頷いた。


 「戻ったら礼を言おう」


 それから机上の新書を見る。


 「読んだか」


 「はい。一部の記録は、本物か、本物を見た人間が作ったものだと思います」


 クイリーは三枚目の送信票を示した。


 「この設備識別符号。学院地下と同じ旧式体系です。公開資料には残っていないはず」


 「交通院には?」


 「残っている可能性はあります」


 ジオンニはしばらく黙った。


 「今日の協議で、交通院はこの本を全面的な偽書だと主張していた」


 「もう?」


 「発売から数時間でな」


 クイリーとヴイアンが同時に顔を上げた。


 ジオンニは続ける。


 「掲載された記録は捏造で、事故原因は当時の予測不能な氷層崩壊だった。再開準備とは無関係だ、と」


 クイリーは新書へ視線を戻した。


 「早すぎる」


 「私もそう思う」


 本当に全部が偽物なら、原本照合には時間がかかる。


 それを、交通院はもう断言した。


 では、この本のどこまでを知っていたのか。


 夕方、サマンサが戻った。


 朝と同じ笑顔だったが、目の奥には明らかな熱があった。


 「面白いことが分かりました」


 机へ手袋を置く。


 「この新書、原稿の持ち込みは三か月前。でも、掲載資料の一部だけが、印刷直前の十日前に差し替えられています」


 「誰が?」


 「そこを今、追っています」


 「出版社は出所を確認しなかったの?」


 「確認した人はいる。でも、その確認記録まで妙に整いすぎてる」


 サマンサはクイリーが印をつけた頁を開いた。


 「それで、こちらは?」


 「十一点中、三点は技術的に不自然。四点は判断不能。残り四点は、少なくとも内部資料を知らなければ作りにくい」


 「全部が嘘じゃない」


 「ええ」


 「全部が本当でもない可能性がある」


 「高いと思う」


 サマンサは嬉しそうには見えなかった。


 それでも、直感が当たったときの人間特有の鋭さが声に出ていた。


 「一番厄介な作り方です」


 彼女は言った。


 「本物の資料に、少しだけ偽物を混ぜる。偽物が見つかった瞬間、本物までまとめて信用を失う」


 クイリーは返事をしなかった。


 まだ証明はできない。


 だが、その可能性は記録しておく価値がある。


 ヴイアンが調査板へ新しい項目を書き加えた。


 ――新書掲載資料。真偽混在の可能性。


 その下に、次の確認先。


 王立測候台。


 三客目の器が移された場所。

 そして、新書が引用した事故前日の気象・氷圧記録を保管している場所。


 クイリーは窓の外を見た。


 正門前の人波は、朝より減っている。

 それでも記者たちの灯りが、雪の中にいくつも残っていた。


 一冊の小さな本が、十年間閉じられていた事故を王都の真ん中へ引きずり出した。


 騒ぎは、もう消せない。


 ならば必要なのは、消すことではない。


 どこまでが事実で、どこからが誰かの都合なのか。


 一つずつ、確かめることだ。


 「明日、測候台へ照会を出す」


 クイリーが言った。


 「三客目と、この記録の両方を確認する」


 ジオンニが頷く。


 「必要な権限は私から出す」


 サマンサは新書を閉じた。


 「私は、誰がこの本をこんなに売りたかったのかを調べます」


 ヴイアンは調査板を見た。


 「では、作業を分けます」


 四人の視線が、それぞれ別の資料へ向かう。


 外ではまだ、号外売りの声が聞こえていた。


 ――氷中航路事故、再び王都を揺るがす。


 センセーションは、真実ではない。


 けれど、真実を掘り出すための騒音にはなり得る。


 クイリーはそう考えながら、次の照合票を一枚、机の中央へ置いた。

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