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氷中航路の整備士令嬢は、夜の公爵と朝を待つ  作者: 乾為天女


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第5話 夜だけ壊れる人

 その日の夜、学院地下の機関室には、いつもより多くの時計が並んでいた。


 壁掛け時計が一つ。

 携帯用の精密時計が二つ。

 魔力計の記録針と連動した時刻印字器が一台。


 クイリーは最後の時計を机の端へ置き、全部の秒針が揃っていることを確認した。


 「十一時四十七分の前後三十分。学院暖房、旧保守ノード、地下側魔力流、室温、床振動。全部同時に取るわ」


 「記録紙、交換済みです」


 ヴイアンが答えた。


 「予備計器は?」

 「主計器の右。差が出た場合は両方保存します」

 「いいわ」


 昼間、学院の正門を埋めた人波は、夜になってようやく薄くなった。

 それでも遠くでは記者たちの灯りが残っている。


 新書『氷中航路の真実』が巻き起こした騒ぎは、学院の外で続いていた。


 だが今夜、クイリーが確認したいのは本ではない。


 機械だった。

 そして、もう一人。


 「閣下」


 彼女は機関室の入口に立つ男を見た。


 ジオンニは昼間と同じ濃紺の上着を着ていたが、外套だけは外している。書記官も護衛も廊下で待機させ、自分だけで中へ入ってきた。


 「予定より三分早いですね」


 「遅れるよりはいい」


 「体調は?」


 「職務に支障はない」


 「前にも同じ答えでした」


 一瞬、機関室が静かになった。


 ヴイアンが記録板から顔を上げる。


 ジオンニは少し考え、それから訂正した。


 「昼間は問題なかった。夕方から肩の奥に冷えを感じる。痛みは、まだない」


 「睡眠時間」

 「昨夜は二時間ほど」

 「連続で?」

 「一時間半と、三十分」

 「それは二時間眠ったとは言いません」


 クイリーは机の横の椅子を指した。


 「座ってください」


 「測定に必要か」

 「倒れられるより条件が減ります」


 「合理的だ」


 ジオンニは素直に座った。


 以前なら、公爵へこんな指示を出せば周囲の誰かが止めただろう。

 だが今夜は学院長もいない。

 ヴイアンは必要なことしか言わない。


 クイリーは細い革帯のついた脈拍計を机へ置いた。


 「腕を」


 ジオンニが袖口を緩める。


 手首へ革帯を巻くと、銀針が規則正しく震え始めた。


 「平常時七十二」


 ヴイアンが記録する。


 「呼吸、毎分十五。皮膚温は?」


 クイリーは接触式の温度板を手の甲へ当てた。


 「三十四・八。左右差なし」


 「まるで機関車だな」


 ジオンニが言った。


 「機関車なら分解できます」


 「私は?」


 「分解しません」


 クイリーは即答した。


 「助かる」


 その返事に、ほんの少しだけ笑いが混じった。


 十一時三十八分。


 学院暖房は正常。

 地下側の逆流もない。


 ミルは機関室の隅で丸くなっていた。

 昼間は机の下へ潜り込んで眠っていたのに、日が落ちてから落ち着きがない。


 耳を立てる。

 床へ鼻を近づける。

 また耳を伏せる。


 「ミルも変化あり」


 クイリーが言う。


 ヴイアンの筆が走った。


 「十一時三十九分。歩行増加。床面への反応」


 「閣下は?」


 「肩の冷えが強くなった」


 「場所は」


 「右肩から背中」


 「痛みは?」


 「まだない」


 十一時四十二分。


 ジオンニの脈拍が七十八に上がった。


 学院暖房は正常。


 十一時四十四分。


 床振動計の針が、ごく小さく動いた。


 ヴイアンが目盛りを読み上げる。


 「通常値より〇・三上昇」


 「記録継続」


 クイリーはジオンニを見る。


 顔色が少し白い。

 だが呼吸は乱れていない。


 「痛み」


 「始まった」


 「場所」


 「胸の奥。骨ではなく……もっと下だ」


 「強さを五段階で」


 ジオンニは一拍置いた。


 「二」


 「我慢できるかではなく、感じる強さです」


 「二だ」


 「分かりました」


 慰めない。

 大丈夫とも言わない。


 クイリーには、大丈夫かどうか判断できるだけの情報がまだない。


 十一時四十六分。


 ミルが突然立ち上がった。


 キュッ。


 短い声。


 次いで、機関室の床下から低い音が響いた。


 ゴ……。


 遠くで巨大な板を撓ませたような音。


 ジオンニの指が椅子の縁をつかんだ。


 「閣下」


 「続けろ」


 「痛み」


 「三」


 脈拍八十六。


 十一時四十七分。


 暖房機関が止まった。


 同時に、ジオンニの体が折れた。


 「閣下!」


 クイリーは肩へ手を伸ばしかけ、途中で止める。


 「触れます」


 返事はなかった。


 呼吸だけが鋭く漏れる。


 「触れます」


 今度は、ジオンニが小さく頷いた。


 クイリーは背を支え、椅子から落ちないよう体勢を固定した。


 「ヴイアン、暖房は触らない」


 「了解。地下側逆流、開始。周期十二秒」


 「閣下、聞こえますか」


 「聞こえる」


 「痛み」


 「四」


 「場所」


 ジオンニは目を閉じた。


 「場所ではない」


 「では、何です」


 「下で……氷が軋んでいる」


 クイリーは一瞬だけ黙った。


 「音が聞こえる?」


 「耳ではない」


 十二秒。


 床振動計が跳ねた。


 同時に、ジオンニの肩が強く震える。


 「冷たい」


 「室温は十八度。変化なし」


 「分かっている」


 彼は歯を食いしばった。


 「でも、冷たい。水の中に手を入れたような……いや、違う。胸の中へ氷を押し込まれる」


 十二秒。


 今度は脈拍計の針が大きく振れた。


 「九十八」


 ヴイアンが言う。


 「地下側波形、二回目。振幅上昇」


 ジオンニが息を呑む。


 「痛み」


 「五」


 クイリーは即座に言った。


 「測定を中止します」


 「待て」


 「五段階の五でしょう」


 「毎夜ある」


 「だから続けていい理由にはなりません」


 「記録が必要だ」


 その声だけは、痛みの中でも落ち着いていた。


 クイリーは彼を見る。


 無理をして強がっているようには見えなかった。

 むしろ、耐えることに慣れすぎている。


 それが一番よくない。


 「あと一波だけです」


 クイリーは言った。


 「意識低下、呼吸異常、脈拍百二十超えのどれかが出たら即時終了。異論は認めません」


 「分かった」


 「ヴイアン」


 「条件、記録しました」


 十二秒。


 旧保守ノードから三度目の逆流波。


 床振動計。

 魔力計。

 脈拍計。


 三本の針が、ほとんど同じ瞬間に跳ねた。


 ジオンニの体も同時に強張る。


 「終了」


 クイリーは迷わなかった。


 「地下側測定だけ継続。閣下は別室へ移します」


 「歩ける」


 「知りません。立って確認します」


 彼女は腕を貸した。


 ジオンニは立ち上がったが、一歩目で膝がわずかに揺れた。


 「歩けていません」


 「厳しいな」


 「転倒記録を増やしたくありません」


 「それは困る」


 機関室の隣にある整備員休憩室へ移る。


 暖房は止まっているため、ヴイアンが昼間のうちに用意した小型の独立暖房炉だけが赤く光っていた。


 クイリーはジオンニを長椅子へ座らせた。


 「温かい飲み物は?」


 「問題ない」


 「質問の答えになっていません。飲めますか」


 「飲める」


 湯を注ぐ。


 陶器ではなく、学院備品の金属杯を使った。

 いまは古い器に余計な条件を加えたくない。


 ジオンニは両手で杯を包んだ。


 それでも指先は冷えていた。


 「いつからですか」


 クイリーが聞く。


 「何が」


 「これです。夜になると、地下の状態を自分の体で感じること」


 ジオンニはしばらく答えなかった。


 廊下の向こうでは、ヴイアンが計器を動かす音がする。


 「昔から、多少はあった」


 「多少」


 「地下で大きな変動があれば、眠りが浅くなる。冷えを感じる。夢の中で氷が割れる音を聞く」


 「今みたいな痛みは?」


 「十年前の事故以降、強くなった」


 クイリーの指が止まる。


 「毎夜?」


 「ほぼ」


 「十年間?」


 「程度には波がある」


 「質問を変えます。痛みや冷気で眠れない夜が、十年前から継続している?」


 「そうだ」


 さらりと言った。


 今日の交通院との協議予定を話すときと同じ声だった。


 クイリーは腹が立った。


 誰に、とはすぐに決められない。


 十年も放置した周囲か。

 それを当然としてきた本人か。

 人の体へこんな負荷を押しつける仕組みそのものか。


 「医師は」


 「診ている」


 「原因は?」


 「身体には異常なし、だそうだ」


 「なら身体以外を調べるべきでしょう」


 ジオンニが顔を上げた。


 「学院地下の波形と、自分の感覚が重なっていることは?」


 「疑ってはいた」


 「測ったことは?」


 「ない」


 「なぜ」


 問いかけたあと、クイリーは少しだけ後悔した。


 責めたいわけではない。


 だがジオンニは気を悪くしなかった。


 「私の家では、夜の異変を受け取ることを役目だと教える」


 「役目なら測定禁止になるんですか」


 「ならない」


 「では測ります」


 クイリーは記録紙へ書き込んだ。


 発作開始、十一時四十四分。

 最大痛覚、五。

 学院設備停止、十一時四十七分。

 地下側逆流と身体反応の同時性あり。

 完全一致は未確認。次回、記録波形の重ね合わせが必要。


 「今夜の結論は、ここまで」


 「結論になったのか」


 「なりました。あなたの症状は『疲れている』『眠れていない』では終わらせません。時間と変化を測れる現象です」


 ジオンニは手元の杯を見た。


 「治ると思うか」


 クイリーは答えなかった。


 治る。

 大丈夫。


 そんな言葉なら、誰でも言える。


 「分かりません」


 はっきり言った。


 「原因もまだ確定していません。でも、現象は記録できました。明日、ヴイアンと波形を照合します。機械側と一致するなら、身体だけを診ても意味がない」


 「……そうか」


 「それに、あなた自身も記録を省略しないでください」


 「毎夜?」


 「毎夜です。開始時刻、痛む場所、強さ、冷気、聞こえるもの。眠れた時間も」


 「公爵へ宿題を出す整備主任は珍しいだろうな」


 「未提出なら催促します」


 ジオンニは、今度こそ明確に笑った。


 ひどく疲れた顔だった。

 けれど、その笑みだけは昼間より柔らかい。


 「ありがとう、クイリー」


 「まだ何も直していません」


 「直したことへの礼ではない」


 彼は金属杯を机へ置いた。


 「これまで、この話をすると休めと言われるか、気の毒だと言われるか、家の役目なら仕方がないと言われた」


 そこで言葉を切る。


 「君は最初に時計を並べた」


 「測定ですから」


 「分かっている」


 ジオンニは静かに息を吐いた。


 「病人扱いされなかったのは、初めてだ」


 クイリーは返事に困った。


 病人扱いしなかったわけではない。

 痛みが五なら測定を止めたし、転倒しそうなら腕も貸した。


 ただ、痛んでいることと、判断できないことは同じではない。


 「あなたが何者でも、測れるものは測ります」


 ようやくそう答えた。


 「公爵でも?」


 「公爵でも」


 「夜になると壊れる人間でも?」


 その言葉だけ、自嘲が少し混じった。


 クイリーは眉を寄せる。


 「壊れているかどうかは、原因を調べてから決めます」


 ジオンニが目を瞬いた。


 「勝手に故障判定を出さないでください」


 数秒の沈黙のあと、彼は笑った。


 「了解した、整備主任」


 休憩室の扉が開く。


 ヴイアンが記録紙を束ねて入ってきた。


 「地下側の測定、終わりました」


 「どうだった?」


 「確認したいことがあります」


 彼は二枚の記録紙を机へ置いた。


 一枚は旧保守ノードの魔力波形。

 もう一枚は、ジオンニの脈拍と身体反応を時刻ごとに記したもの。


 「今夜は目視だけにします。重ね合わせは明朝、誤差を補正してから」


 ヴイアンらしい答えだった。


 クイリーも頷く。


 「それでいい。一つずつ確かめる」


 窓のない地下室では、外の夜がどれほど深いか分からない。


 それでも机の上には、今までなかった記録が残った。


 夜ごと一人の人間を襲ってきた冷気と痛みが、初めて時刻と数値を持った。


 クイリーは二枚の紙を重ねず、並べて置いた。


 まだ同じだとは言わない。


 明日、確かめるために。

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