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氷中航路の整備士令嬢は、夜の公爵と朝を待つ  作者: 乾為天女


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2/19

第2話 冷静な公爵は整備記録を読む

 朝六時を回っても、クイリーは機関室を離れなかった。


 夜の停止から復旧した暖房は、いまのところ正常に動いている。

 だが、正常という言葉をそのまま信用するほど、彼女は楽観的ではない。


 「主機流量、規定値。地下側逆流、消失」


 ヴイアンが記録板を読み上げる。


 「陶器片は?」

 「絶縁箱。温度は室温まで下がりました。発光なし」

 「ミルは?」


 二人そろって机の下を見た。


 氷色の小さな生き物は、丸めた整備布の上で眠っていた。夜中に井戸から現れたとは思えないほど無防備で、半透明の耳だけが、ときどきぴくりと動く。


 「暫定保護。餌は不明」

 「そこまで記録したの?」

 「記録できることは記録します」

 「正しいわ」


 クイリーは欠伸を噛み殺し、昨夜から積み上げた記録を順番に並べた。


 学院暖房の停止時刻。

 十二秒周期の逆流波形。

 交通院の予備通電開始日。

 陶器片を暖房管へ接触させたときの七秒目の発光と、十二秒間だけの復旧。


 現象はある。

 再現性も一部ある。

 だが意味は分からない。


 分からないものを、分かったふりで動かすのが一番危険だ。


 「交通院から返答は?」

 「まだです」

 「でしょうね」


 ヴイアンが新しい紙束を差し出した。


 「代わりに、学院長室から通知です。王命の監察官が到着しました」

 「今日?」

 「今です」


 クイリーは時計を見た。


 「早すぎない?」

 「北方公爵家の方だそうです」


 その名を聞く前に、機関室の外が騒がしくなった。


 警備員の声。

 学院事務官の慌ただしい足音。

 誰かが「公爵閣下」と呼んでいる。


 クイリーは眉間を押さえた。


 「徹夜明けに公爵対応まで保守業務へ入っていたかしら」

 「主任なら対応できます」

 「信頼はありがたいけれど、業務分担としては疑問ね」


 そう言いながら作業着の襟を直す。


 煤の跡までは隠れない。

 昨夜、地下管路に潜ったせいで髪もまとまっていなかった。


 もっとも、設備が原因不明で止まっているのに、着替えを優先する気はなかった。


 機関室の扉が開く。


 先頭に入ってきた学院長の後ろに、背の高い男がいた。


 濃紺の外套には雪が残り、胸元には北方公爵家の銀章。だが、華美な装飾はない。従者を何人も連れているわけでもなく、書記官らしい男が一人と、護衛が二人だけだった。


 「整備主任クイリー」


 学院長が紹介する。


 「こちらが北方公爵ジオンニ閣下。王命により、氷中航路再調査の監察を担当される」


 クイリーは形式どおり礼をした。


 「王立技術学院、魔導設備整備主任クイリーです」

 「ジオンニだ。早朝にすまない」


 静かな声だった。


 「まず昨夜の整備記録を見せてほしい」


 クイリーは顔を上げた。


 挨拶のあとに聞かれると予想していたのは、事故の概要か、学院長からの説明だった。

 あるいは、徹夜明けの作業着を見て休むよう命じられるか。


 だが彼は、クイリーの服装にも身分にも触れなかった。


 「こちらです」


 机へ案内する。


 ジオンニは椅子を勧められても座らず、記録束を手に取った。


 一枚目から読む。


 飛ばさない。


 停止時刻、測定値、対応者、実施した処置。

 ヴイアンが記した十二秒周期の波形表では指を止め、次にクイリーが追記した陶器片接触時の変化を確認する。


 「臨時暖房炉を講堂と寮へ回したのは、停止原因を切り分ける前だな」

 「はい。主機を無理に再始動させるより、人員を先に寒さから守るべきだと判断しました」

 「実験棟の水抜きも同時に?」

 「凍結破損を避けるためです」


 ジオンニは記録へ視線を落としたまま頷いた。


 「妥当だと思う」


 そこで初めて、彼はクイリーを見た。


 「昨夜、事故を起こさず学院を朝まで持たせてくれたことに礼を言う。ありがとう」


 一瞬、返事が遅れた。


 公爵から褒められたからではない。


 彼が「よくやった」と曖昧に言わなかったからだ。

 何を確認し、どの判断に礼を言っているのかが分かる。


 「整備主任として必要なことをしただけです」

 「必要なことを、必要な時に正しく行うのは簡単ではない」


 その言葉にも飾り気がなかった。


 ジオンニは次の紙をめくる。


 「地下側からの逆流、とある」

 「学院地下の旧保守ノードが発信源と見ています」

 「氷中航路の?」

 「可能性が高いです。予備通電が始まってから毎夜停止しています」


 学院長が口を挟んだ。


 「しかし、交通院からは運行を伴わない低出力試験であり、学院設備への影響は考えにくいと――」

 「考えにくいことと、起きていないことは別です」


 クイリーは即答した。


 学院長の口元が固まる。


 しまったと思ったが、撤回する理由はない。


 「実際に干渉が出ています。原因を確定できないまま出力を上げるべきではありません」


 ジオンニは怒らなかった。

 むしろ一歩だけ机から離れ、全員を見渡した。


 「交通院は、冬前に旧航路の一部で試験運行を行いたいと申し入れている」


 機関室の空気が変わった。


 クイリーは聞いていた。

 北方の迂回輸送は限界に近い。燃料も食料も値上がりし、雪が深くなれば地上路そのものが止まる地域がある。


 だから再開を急ぐ理由は分かる。


 分かることと、安全だと認めることも、やはり別だった。


 「反対です」


 学院長が咳払いをした。


 クイリーは続けた。


 「現時点では、ですが」

 「理由を聞こう」


 ジオンニの声は変わらない。


 「学院設備に干渉が出た原因が不明。旧保守ノードの接続状態も不明。予備通電と現象の相関はありますが、因果は未確定です。少なくとも、出力を上げた場合にどこへ負荷が出るか説明できません」

 「つまり、危険だと断定する材料も足りない?」

 「はい」

 「安全だと断定する材料も?」

 「ありません」


 クイリーはまっすぐ答えた。


 「だから動かすべきではありません」


 数秒の沈黙。


 書記官が気まずそうに視線を落とす。


 ジオンニだけは、ほんのわずかに口元を緩めた。


 「私も同じ結論だ」

 「……でしたら」

 「ただし、北方へ『原因不明だから待て』と言うだけでは冬を越せない」


 それも事実だった。


 「再開を止めるなら、止める根拠がいる。再開できるなら、安全条件がいる。どちらも記録で示さなければならない」


 彼は机上の波形表を指で叩いた。


 「君は、この異常が旧航路に由来する証拠を集められるか」


 クイリーは答える前に考えた。


 問い方が違う。


 調べろ、ではない。

 再開に賛成しろでもない。


 自分の反対意見を証明しろと言っている。


 「旧保守区画への立入権限が必要です」

 「出そう」

 「交通院の通電記録も。出力だけでなく、使用系統と切替履歴まで」

 「請求する」

 「学院外へ接続する旧線を調べるなら、人員も必要です。通常保守と同時には回せません」

 「必要人数を出してほしい」


 ジオンニの書記官が慌てて筆を走らせる。


 クイリーは少し意地悪く、もう一つ加えた。


 「調査の結果、試験運行を延期すべきだと判断した場合、その報告を握り潰されない保証も」


 学院長が今度こそ青ざめた。


 しかしジオンニは、間を置かず答えた。


 「王命監察の報告書へ、整備主任の技術意見として原文を添付する。私の結論と異なっても削らない」


 「そこまで?」と学院長が漏らした。


 ジオンニは学院長へ向き直る。


 「異論のある技術者から異論を取り上げて、何を監察するのです」


 穏やかな言い方だった。


 だからこそ、反論しにくい。


 クイリーは初めて、この公爵を少し面白いと思った。


 そのとき。


 机の下から、キュウ、と声がした。


 全員の視線が下へ向く。


 ミルが整備布から這い出していた。


 学院長が一歩退く。


 「な、何だ、それは」

 「昨夜、校舎裏の井戸から出てきました」


 クイリーが答える。


 「井戸から?」

 「はい。陶器片を持って」


 ジオンニの顔から、初めて余裕が消えた。


 「陶器片を見せてもらえるか」


 声が低くなっている。


 クイリーは絶縁箱を開けた。


 白い欠片。

 青い釉薬の線。


 ジオンニは手を伸ばしかけ、途中で止めた。


 「触れないのですか」

 「君たちは絶縁して保管している。理由があるはずだ」

 「分からないものを素手で触らないためです」

 「なら、私も従おう」


 クイリーは少しだけ目を細めた。


 立場が上の人間ほど、現場の注意書きを自分には適用しないことがある。

 この男は違うらしい。


 ジオンニは箱の上から陶器片を観察した。


 「古いな」

 「年代鑑定はこれからです」

 「この青い線は?」

 「装飾に見えますが、昨夜、暖房管へ接触させると発光しました。十二秒だけ主機も復旧しています」


 ヴイアンが旧図面を広げた。


 「主任の指示で、今朝から学院保管分の氷中航路図と照合しています」


 ジオンニは図面と陶器片を交互に見る。


 「似ている」

 「まだ一致とは言えません」


 クイリーが言うと、彼は素直に頷いた。


 「そうだな。先走った」


 公爵が自分の発言をこんなにあっさり修正するとは思わなかった。


 ヴイアンも一瞬だけ目を上げた。


 ミルが机の脚を回り込み、ジオンニの靴先へ近づく。


 「危険性不明です」


 ヴイアンが忠告する。


 「了解した」


 ジオンニはしゃがまず、その場で動きを止めた。


 ミルは彼の靴の周りを一周した。


 そして突然、耳を伏せた。


 キュ……。


 昨夜までとは違う、怯えたような声。


 同時に、ジオンニの右手がわずかに強張った。


 クイリーは見逃さなかった。


 「閣下?」

 「何でもない」


 即答だった。


 だが、彼の視線は一瞬だけ床へ落ちていた。


 地下を見透かすように。


 次の瞬間、機関室の圧力計が震えた。


 一度。


 十二秒待つ。


 もう一度。


 「逆流、再発」


 ヴイアンが計器へ走る。


 クイリーもすぐに切替盤へ向かった。


 「時刻記録。主機は触らない。地下側だけ測って」

 「了解」


 背後で学院長が何か言ったが、聞いている余裕はない。


 十二秒。


 また針が振れる。


 クイリーは振り返った。


 ジオンニは立ったまま、誰にも分からないほど小さく息を吐いていた。


 顔色が、さっきより白い。


 「閣下。体調に問題がありますか」

 「職務に支障はない」

 「答えになっていません」


 学院長がぎょっとした。


 ジオンニは数秒、クイリーを見た。


 それから観念したように言った。


 「少し、眠れていないだけだ」


 「何日ですか」

 「長い話になる」

 「では今は測定対象から外れてください。倒れられると記録条件が増えます」


 書記官が目を丸くする。


 だがジオンニは怒らなかった。


 「合理的だ」


 一歩、計器から離れる。


 「従おう」


 クイリーはそれ以上追及せず、逆流波形へ戻った。


 いま必要なのは同情ではない。

 現象を分けることだ。


 その脇でミルは、ジオンニと床下を交互に見ていた。


 まるで二つが同じ場所につながっていると知っているように。


 測定が終わるころには、朝の光が地下窓へ細く差し込んでいた。


 逆流は三分で消えた。

 暖房は停止しなかった。


 クイリーは新しい記録紙の一番上に時刻を書いた。


 「閣下」

 「何だ」

 「調査権限の書面、今日中にお願いします」


 ジオンニは頷く。


 「午前中に出す」


 「それと、昨夜からの記録をすべて複写してください。交通院へ渡す分と、学院で封印保管する分を分けます」

 「分かった」


 彼は少し考えてから付け加えた。


 「クイリー主任」

 「はい」

 「反対する根拠を集めてほしい、と言ったが訂正する」


 彼女は顔を上げる。


 「再開に都合のいい根拠も、悪い根拠も同じように集めてほしい。結論はそのあとで決める」


 クイリーは数秒黙った。


 そして、今度は迷わず頷いた。


 「その条件なら引き受けます」


 「ありがとう」


 また、具体的な場面でその言葉を使う人だった。


 ジオンニが機関室を出たあと、ヴイアンが記録板を閉じる。


 「主任」

 「何?」

 「公爵閣下への印象は?」


 クイリーは机の上の書類を整理しながら答えた。


 「話が通じる人」

 「高評価ですね」

 「整備現場では最高級よ」


 足元でミルが、キュウ、と鳴いた。


 クイリーは絶縁箱の陶器片を見る。


 青い線。

 十二秒の逆流。

 旧氷中航路。

 そして、逆流が起きた瞬間だけ白くなった公爵の顔。


 関係があると決めつけるには早い。


 だからこそ、次にすることは決まっていた。


 「ヴイアン。陶器の専門家を呼ぶわよ」

 「心当たりが?」

 「一人だけ。扱いづらいけれど、腕は確か」


 クイリーは陶器片の記録番号を書き足した。


 未知のものは、順番に既知へ変えていけばいい。


 その朝から、学院の整備記録には新しい項目が加わった。


 ――氷中航路旧系統、異常干渉調査。


 そしてその最初の監察記録には、北方公爵ジオンニの署名とともに、こう記された。


 調査担当者の技術判断を、地位を理由に変更してはならない。

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