第2話 冷静な公爵は整備記録を読む
朝六時を回っても、クイリーは機関室を離れなかった。
夜の停止から復旧した暖房は、いまのところ正常に動いている。
だが、正常という言葉をそのまま信用するほど、彼女は楽観的ではない。
「主機流量、規定値。地下側逆流、消失」
ヴイアンが記録板を読み上げる。
「陶器片は?」
「絶縁箱。温度は室温まで下がりました。発光なし」
「ミルは?」
二人そろって机の下を見た。
氷色の小さな生き物は、丸めた整備布の上で眠っていた。夜中に井戸から現れたとは思えないほど無防備で、半透明の耳だけが、ときどきぴくりと動く。
「暫定保護。餌は不明」
「そこまで記録したの?」
「記録できることは記録します」
「正しいわ」
クイリーは欠伸を噛み殺し、昨夜から積み上げた記録を順番に並べた。
学院暖房の停止時刻。
十二秒周期の逆流波形。
交通院の予備通電開始日。
陶器片を暖房管へ接触させたときの七秒目の発光と、十二秒間だけの復旧。
現象はある。
再現性も一部ある。
だが意味は分からない。
分からないものを、分かったふりで動かすのが一番危険だ。
「交通院から返答は?」
「まだです」
「でしょうね」
ヴイアンが新しい紙束を差し出した。
「代わりに、学院長室から通知です。王命の監察官が到着しました」
「今日?」
「今です」
クイリーは時計を見た。
「早すぎない?」
「北方公爵家の方だそうです」
その名を聞く前に、機関室の外が騒がしくなった。
警備員の声。
学院事務官の慌ただしい足音。
誰かが「公爵閣下」と呼んでいる。
クイリーは眉間を押さえた。
「徹夜明けに公爵対応まで保守業務へ入っていたかしら」
「主任なら対応できます」
「信頼はありがたいけれど、業務分担としては疑問ね」
そう言いながら作業着の襟を直す。
煤の跡までは隠れない。
昨夜、地下管路に潜ったせいで髪もまとまっていなかった。
もっとも、設備が原因不明で止まっているのに、着替えを優先する気はなかった。
機関室の扉が開く。
先頭に入ってきた学院長の後ろに、背の高い男がいた。
濃紺の外套には雪が残り、胸元には北方公爵家の銀章。だが、華美な装飾はない。従者を何人も連れているわけでもなく、書記官らしい男が一人と、護衛が二人だけだった。
「整備主任クイリー」
学院長が紹介する。
「こちらが北方公爵ジオンニ閣下。王命により、氷中航路再調査の監察を担当される」
クイリーは形式どおり礼をした。
「王立技術学院、魔導設備整備主任クイリーです」
「ジオンニだ。早朝にすまない」
静かな声だった。
「まず昨夜の整備記録を見せてほしい」
クイリーは顔を上げた。
挨拶のあとに聞かれると予想していたのは、事故の概要か、学院長からの説明だった。
あるいは、徹夜明けの作業着を見て休むよう命じられるか。
だが彼は、クイリーの服装にも身分にも触れなかった。
「こちらです」
机へ案内する。
ジオンニは椅子を勧められても座らず、記録束を手に取った。
一枚目から読む。
飛ばさない。
停止時刻、測定値、対応者、実施した処置。
ヴイアンが記した十二秒周期の波形表では指を止め、次にクイリーが追記した陶器片接触時の変化を確認する。
「臨時暖房炉を講堂と寮へ回したのは、停止原因を切り分ける前だな」
「はい。主機を無理に再始動させるより、人員を先に寒さから守るべきだと判断しました」
「実験棟の水抜きも同時に?」
「凍結破損を避けるためです」
ジオンニは記録へ視線を落としたまま頷いた。
「妥当だと思う」
そこで初めて、彼はクイリーを見た。
「昨夜、事故を起こさず学院を朝まで持たせてくれたことに礼を言う。ありがとう」
一瞬、返事が遅れた。
公爵から褒められたからではない。
彼が「よくやった」と曖昧に言わなかったからだ。
何を確認し、どの判断に礼を言っているのかが分かる。
「整備主任として必要なことをしただけです」
「必要なことを、必要な時に正しく行うのは簡単ではない」
その言葉にも飾り気がなかった。
ジオンニは次の紙をめくる。
「地下側からの逆流、とある」
「学院地下の旧保守ノードが発信源と見ています」
「氷中航路の?」
「可能性が高いです。予備通電が始まってから毎夜停止しています」
学院長が口を挟んだ。
「しかし、交通院からは運行を伴わない低出力試験であり、学院設備への影響は考えにくいと――」
「考えにくいことと、起きていないことは別です」
クイリーは即答した。
学院長の口元が固まる。
しまったと思ったが、撤回する理由はない。
「実際に干渉が出ています。原因を確定できないまま出力を上げるべきではありません」
ジオンニは怒らなかった。
むしろ一歩だけ机から離れ、全員を見渡した。
「交通院は、冬前に旧航路の一部で試験運行を行いたいと申し入れている」
機関室の空気が変わった。
クイリーは聞いていた。
北方の迂回輸送は限界に近い。燃料も食料も値上がりし、雪が深くなれば地上路そのものが止まる地域がある。
だから再開を急ぐ理由は分かる。
分かることと、安全だと認めることも、やはり別だった。
「反対です」
学院長が咳払いをした。
クイリーは続けた。
「現時点では、ですが」
「理由を聞こう」
ジオンニの声は変わらない。
「学院設備に干渉が出た原因が不明。旧保守ノードの接続状態も不明。予備通電と現象の相関はありますが、因果は未確定です。少なくとも、出力を上げた場合にどこへ負荷が出るか説明できません」
「つまり、危険だと断定する材料も足りない?」
「はい」
「安全だと断定する材料も?」
「ありません」
クイリーはまっすぐ答えた。
「だから動かすべきではありません」
数秒の沈黙。
書記官が気まずそうに視線を落とす。
ジオンニだけは、ほんのわずかに口元を緩めた。
「私も同じ結論だ」
「……でしたら」
「ただし、北方へ『原因不明だから待て』と言うだけでは冬を越せない」
それも事実だった。
「再開を止めるなら、止める根拠がいる。再開できるなら、安全条件がいる。どちらも記録で示さなければならない」
彼は机上の波形表を指で叩いた。
「君は、この異常が旧航路に由来する証拠を集められるか」
クイリーは答える前に考えた。
問い方が違う。
調べろ、ではない。
再開に賛成しろでもない。
自分の反対意見を証明しろと言っている。
「旧保守区画への立入権限が必要です」
「出そう」
「交通院の通電記録も。出力だけでなく、使用系統と切替履歴まで」
「請求する」
「学院外へ接続する旧線を調べるなら、人員も必要です。通常保守と同時には回せません」
「必要人数を出してほしい」
ジオンニの書記官が慌てて筆を走らせる。
クイリーは少し意地悪く、もう一つ加えた。
「調査の結果、試験運行を延期すべきだと判断した場合、その報告を握り潰されない保証も」
学院長が今度こそ青ざめた。
しかしジオンニは、間を置かず答えた。
「王命監察の報告書へ、整備主任の技術意見として原文を添付する。私の結論と異なっても削らない」
「そこまで?」と学院長が漏らした。
ジオンニは学院長へ向き直る。
「異論のある技術者から異論を取り上げて、何を監察するのです」
穏やかな言い方だった。
だからこそ、反論しにくい。
クイリーは初めて、この公爵を少し面白いと思った。
そのとき。
机の下から、キュウ、と声がした。
全員の視線が下へ向く。
ミルが整備布から這い出していた。
学院長が一歩退く。
「な、何だ、それは」
「昨夜、校舎裏の井戸から出てきました」
クイリーが答える。
「井戸から?」
「はい。陶器片を持って」
ジオンニの顔から、初めて余裕が消えた。
「陶器片を見せてもらえるか」
声が低くなっている。
クイリーは絶縁箱を開けた。
白い欠片。
青い釉薬の線。
ジオンニは手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「触れないのですか」
「君たちは絶縁して保管している。理由があるはずだ」
「分からないものを素手で触らないためです」
「なら、私も従おう」
クイリーは少しだけ目を細めた。
立場が上の人間ほど、現場の注意書きを自分には適用しないことがある。
この男は違うらしい。
ジオンニは箱の上から陶器片を観察した。
「古いな」
「年代鑑定はこれからです」
「この青い線は?」
「装飾に見えますが、昨夜、暖房管へ接触させると発光しました。十二秒だけ主機も復旧しています」
ヴイアンが旧図面を広げた。
「主任の指示で、今朝から学院保管分の氷中航路図と照合しています」
ジオンニは図面と陶器片を交互に見る。
「似ている」
「まだ一致とは言えません」
クイリーが言うと、彼は素直に頷いた。
「そうだな。先走った」
公爵が自分の発言をこんなにあっさり修正するとは思わなかった。
ヴイアンも一瞬だけ目を上げた。
ミルが机の脚を回り込み、ジオンニの靴先へ近づく。
「危険性不明です」
ヴイアンが忠告する。
「了解した」
ジオンニはしゃがまず、その場で動きを止めた。
ミルは彼の靴の周りを一周した。
そして突然、耳を伏せた。
キュ……。
昨夜までとは違う、怯えたような声。
同時に、ジオンニの右手がわずかに強張った。
クイリーは見逃さなかった。
「閣下?」
「何でもない」
即答だった。
だが、彼の視線は一瞬だけ床へ落ちていた。
地下を見透かすように。
次の瞬間、機関室の圧力計が震えた。
一度。
十二秒待つ。
もう一度。
「逆流、再発」
ヴイアンが計器へ走る。
クイリーもすぐに切替盤へ向かった。
「時刻記録。主機は触らない。地下側だけ測って」
「了解」
背後で学院長が何か言ったが、聞いている余裕はない。
十二秒。
また針が振れる。
クイリーは振り返った。
ジオンニは立ったまま、誰にも分からないほど小さく息を吐いていた。
顔色が、さっきより白い。
「閣下。体調に問題がありますか」
「職務に支障はない」
「答えになっていません」
学院長がぎょっとした。
ジオンニは数秒、クイリーを見た。
それから観念したように言った。
「少し、眠れていないだけだ」
「何日ですか」
「長い話になる」
「では今は測定対象から外れてください。倒れられると記録条件が増えます」
書記官が目を丸くする。
だがジオンニは怒らなかった。
「合理的だ」
一歩、計器から離れる。
「従おう」
クイリーはそれ以上追及せず、逆流波形へ戻った。
いま必要なのは同情ではない。
現象を分けることだ。
その脇でミルは、ジオンニと床下を交互に見ていた。
まるで二つが同じ場所につながっていると知っているように。
測定が終わるころには、朝の光が地下窓へ細く差し込んでいた。
逆流は三分で消えた。
暖房は停止しなかった。
クイリーは新しい記録紙の一番上に時刻を書いた。
「閣下」
「何だ」
「調査権限の書面、今日中にお願いします」
ジオンニは頷く。
「午前中に出す」
「それと、昨夜からの記録をすべて複写してください。交通院へ渡す分と、学院で封印保管する分を分けます」
「分かった」
彼は少し考えてから付け加えた。
「クイリー主任」
「はい」
「反対する根拠を集めてほしい、と言ったが訂正する」
彼女は顔を上げる。
「再開に都合のいい根拠も、悪い根拠も同じように集めてほしい。結論はそのあとで決める」
クイリーは数秒黙った。
そして、今度は迷わず頷いた。
「その条件なら引き受けます」
「ありがとう」
また、具体的な場面でその言葉を使う人だった。
ジオンニが機関室を出たあと、ヴイアンが記録板を閉じる。
「主任」
「何?」
「公爵閣下への印象は?」
クイリーは机の上の書類を整理しながら答えた。
「話が通じる人」
「高評価ですね」
「整備現場では最高級よ」
足元でミルが、キュウ、と鳴いた。
クイリーは絶縁箱の陶器片を見る。
青い線。
十二秒の逆流。
旧氷中航路。
そして、逆流が起きた瞬間だけ白くなった公爵の顔。
関係があると決めつけるには早い。
だからこそ、次にすることは決まっていた。
「ヴイアン。陶器の専門家を呼ぶわよ」
「心当たりが?」
「一人だけ。扱いづらいけれど、腕は確か」
クイリーは陶器片の記録番号を書き足した。
未知のものは、順番に既知へ変えていけばいい。
その朝から、学院の整備記録には新しい項目が加わった。
――氷中航路旧系統、異常干渉調査。
そしてその最初の監察記録には、北方公爵ジオンニの署名とともに、こう記された。
調査担当者の技術判断を、地位を理由に変更してはならない。




