第1話 井戸から来た整備依頼
王立技術学院の暖房魔導機関は、七日続けて、夜の十一時四十七分に止まった。
最初の夜、当直員は古い配管の凍結を疑った。
二日目には燃料用魔石が交換された。
三日目には制御盤が分解され、四日目には安全弁まで新品になった。
それでも、十一時四十七分になると、学院じゅうの暖気が音もなく消えた。
「だから、そこは触らないで」
七日目の夜。地下機関室で、クイリーは工具箱を抱えた見習い整備士の手を止めた。
「でも主任、主弁は正常です。だったら予備側を――」
「正常だから触らないの。正常な部品を疑って交換し始めたら、故障を直すんじゃなくて、故障の痕跡を自分で消すことになるわ」
見習いが慌てて手を引く。
クイリーはしゃがみ込み、床すれすれを走る銀色の暖房管に指先を当てた。冷たい。だが凍結しているわけではない。流量計は停止を示しているのに、圧力計の針だけが、ごく小さく震えていた。
カチ、カチ、カチ。
規則正しい。
「ヴイアン。記録」
「取っています」
背後で即答したのは、学院の航路技師ヴイアンだった。彼は厚い記録板を片手に、圧力計と携帯魔力計を交互に見ている。
「十一時四十七分零秒、主機停止。燃料供給正常。排気正常。主弁、予備弁とも閉塞なし。魔力供給線――」
そこで彼の声が止まった。
「どうしたの」
「学院系統の入力は落ちていません。ただし、逆方向から微弱な波が入っています」
クイリーは立ち上がった。
「逆方向?」
「はい。暖房機関からではなく、地下側からです」
学院の地下には、現在使われていない設備が多い。
創立時の蒸気管、旧式の魔力蓄積槽、閉鎖済みの実習坑道。そして、さらに古い時代に氷中航路の保守へ使われていたという設備の残骸。
だが、それらは半世紀近く前に切り離されている。
「もう一度」
クイリーが言うと、ヴイアンは計器の測定範囲を狭めた。
「一つずつ確認します。学院側供給、正常。主機、正常。暖房配管、正常。逆流だけが異常です」
「周期は?」
「……十二秒」
十二秒ごとに、圧力計の針が震える。
それは故障というより、誰かが遠くから管を叩いているようだった。
クイリーは機関室の壁を見た。
石壁の向こうにあるのは、封鎖された旧区画だ。
「主任?」
「機械が壊れて止まっているんじゃない」
彼女は自分の考えを確かめるように、ゆっくり言った。
「止められている」
そのとき、天井近くの警報鈴が一度だけ鳴った。
チン。
誰も触れていない。
見習い整備士が青ざめた。
「今の、何ですか」
「分からない。でも、分からないなら調べるだけよ」
クイリーは工具箱を閉じた。
「今夜は主機をこれ以上いじらない。臨時暖房炉を講堂と寮へ回して。東寮から順に室温を確認。凍結しやすい実験棟は水抜き。ヴイアンは逆流波形を全部保存して」
「了解です」
命令を受けた整備員たちが散っていく。
人が動き始めると、機関室の空気は少しだけ軽くなった。
クイリーは、最後まで震えている圧力計を見つめた。
学院の暖房が止まるようになったのは、交通院が封鎖中の氷中航路へ予備通電を始めた一週間前と、ちょうど重なる。
運行を伴わない弱い通電だと聞いている。
それだけで学院まで影響が出るはずはない。
――はず、なのだけれど。
「主任」
ヴイアンが記録板から顔を上げた。
「交通院へ照会を出しますか」
「出して。予備通電の開始時刻、出力、使用した系統。それと、旧保守線へ接続した形跡がないか」
「返答が遅れる可能性があります」
「なら、返事を待たずにこっちでも調べる」
クイリーはそう答えてから、ふと耳を澄ませた。
機関室の外で、何かが鳴いた気がした。
猫より高く、鳥より低い、不思議な声だった。
「今、聞こえた?」
「何がです?」
ヴイアンには聞こえていないらしい。
クイリーは扉を開けた。
地下廊下には誰もいない。
もう一度。
キュウ、と遠くで鳴く。
音は階段の上からだった。
「少し見てくる」
「一人で?」
「学院の中よ」
「七日連続で原因不明の停止が起きている学院です」
もっともな指摘だった。
「では一階まで一緒に」
「はい」
二人は地下を出た。
夜の学院は昼とは別の建物のように静かだった。石造りの廊下を非常灯だけが青白く照らし、窓の外では雪が横殴りに降っている。
キュウ。
今度はヴイアンも足を止めた。
「聞こえました」
「中庭?」
「いえ、裏手です」
校舎裏。
クイリーは眉を寄せた。
そこには旧資材庫と、使われなくなった古井戸しかない。
井戸は危険だから近づくなと、学生にも職員にも繰り返し通達されている。蓋は鉄鎖で固定されているはずだ。
二人が裏口を開けると、凍るような風が吹き込んだ。
「ヴイアン、灯り」
携帯灯が点く。
積もった雪の上に、小さな足跡があった。
四本足。
猫より小さい。
足跡は、真っすぐ井戸へ続いている。
「外から来た跡がありません」
ヴイアンが言った。
「井戸から出てきたみたいね」
鉄鎖は外れていなかった。
だが、円形の蓋がほんの指一本分だけ持ち上がっている。
その隙間から、青白い光が漏れていた。
「主任、下がってください」
「あなたも下がって」
「では同時に」
「それならいいわ」
二人が一歩退いた瞬間、蓋の隙間から何かが飛び出した。
雪の上を転がり、二回転して止まる。
「……何、これ」
それは、掌に乗りそうなほど小さな生き物だった。
丸い身体には氷を薄く削ったような毛が生え、耳らしき突起は半透明。黒い瞳だけが妙に大きい。四本の脚で立とうとして、滑って腹ばいになる。
キュウ。
情けない声だった。
クイリーが近づくと、ヴイアンが袖をつかんだ。
「未知の生物です」
「見れば分かるわ」
「危険性が不明です」
「それも分かる」
「では」
「でも、あれを見て」
生き物は口に何かをくわえていた。
白い陶器の欠片だった。
青い釉薬で細い線が描かれている。皿か椀の縁らしい。
小さな生き物は雪の上をよたよた進み、クイリーの靴先まで来た。
そして陶器片を置く。
「私に?」
キュウ。
返事のつもりなのかもしれない。
クイリーは手袋を外し、欠片を拾った。
予想に反して、温かかった。
「井戸の中から出てきた陶器が?」
ヴイアンも気づいたらしい。
「ええ。外気温は氷点下十二度。なのにこれは――」
言い終える前に、生き物がくるりと向きを変えた。
校舎へ走る。
「待って!」
追いかけると、それは裏口を抜け、廊下を走り、迷いなく地下階段へ降りていった。
まるで行き先を知っている。
地下機関室の扉まで戻ると、生き物はそこで止まり、前脚で扉を掻いた。
キュウ、キュウ。
「暖房機関に用があるの?」
馬鹿げた問いだと思いながら、クイリーは扉を開けた。
停止した主機。
震える圧力計。
十二秒周期の逆流波形。
生き物は機関室へ入らず、クイリーの手元を見上げている。
陶器片。
クイリーは視線を落とした。
「……これを使えってこと?」
「主任。未知の素材を機関へ直接接触させるのは推奨できません」
「私も推奨しない」
そう言いながら、彼女は携帯魔力計を陶器片へ近づけた。
針が振れた。
十二秒後。
もう一度、振れた。
圧力計と同じだった。
「ヴイアン」
「一致しています」
彼の声が変わった。
クイリーは絶縁布で陶器片の端をつまみ、露出した面だけを暖房管へ慎重に近づけた。
十センチ。
五センチ。
二センチ。
触れた。
その瞬間。
停止していた主機が、低く唸った。
ゴウン――。
流量計の針が跳ね上がる。
圧力が戻る。
暖房管の中を、温水が一斉に走り始めた。
「動いた……」
ヴイアンが呟く。
クイリーは息を止めたまま計器を見た。
一秒。
二秒。
三秒。
七秒目で、陶器片の青い線が淡く光った。
十秒。
そして十二秒目。
光が消えた。
主機も再び停止した。
静寂が戻る。
それでも、もう十分だった。
機械は壊れていない。
地下から来る何かが、学院の暖房へ干渉している。
そして、井戸から出てきたこの生き物と陶器片は、その何かにつながっている。
クイリーは陶器片を灯りへ透かした。
青い線はただの模様ではない。
細い線が枝分かれし、ところどころに小さな円がある。
どこかで見た形だった。
「ヴイアン。旧氷中航路の図面を出せる?」
「学院保管分なら」
「夜が明けたら全部照合する。陶器の年代も調べる。この子の正体も」
足元で、小さな生き物が座り込んだ。
キュウ。
「それから、名前がないと記録に困るわね」
「未知生物一号では?」
「長い」
生き物はもう一度、ミル、と聞こえるような短い声を上げた。
クイリーは首を傾げた。
「ミル?」
透明な耳がぴんと立つ。
「反応しました」
「じゃあ暫定でミル」
ヴイアンは真面目な顔で記録板へ書き込んだ。
「未知生物、暫定呼称ミル」
クイリーは思わず笑いかけたが、その直後、壁の向こうから低い振動が響いた。
ドン。
十二秒。
ドン。
今度は計器だけではない。
床そのものが震えている。
ミルが毛を逆立て、井戸のある方角へ顔を向けた。
そして、さっきまでの頼りない声とは違う声で鳴いた。
短く、鋭く。
警告するように。
クイリーは陶器片を握り直した。
暖房設備の故障ではない。
学院の地下で、もっと古く、もっと大きな何かが、助けを求めている。
その夜、彼女はまだ知らなかった。
この小さな整備依頼が、十年間閉ざされていた氷中航路と、一人の公爵が耐え続けてきた夜を、同時に開くことになるとは。




