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幕間1 門前町ヨイガサキ ーー  第九話 呼ばれた名前


「今、私の名前を呼んだ」


封鎖室の中央で、エリシュカは白い箱を見た。返事はない。蓋には三つの封印が残り、欠片へ近づいた者もいない。聞き間違いではなかったことは、周囲の顔を見れば分かる。イヴァナが封鎖台の脇へ置かれた記録紙を確認した。


「一度だけです」


「前はクラーラを呼びました」


「持ち帰ったあとは?」


「一度だけ」


イヴァナが記録へ書き込む。クラーラは箱ではなく、エリシュカを見ていた。


「どうしてあなたを?」


「私に聞かれても」


「姉さんと、何か決めてた?」


「呼ばれたら石になる約束はしてないよ」


「そういう話じゃない」


分かっている。だが、分からないことへ急いで答えれば、ヤマビコと同じになる。エリシュカは箱へ半歩近づいた。


「開けてもいい?」


「四人の立ち会いはあります」


イヴァナが箱へ手を伸ばす。


「ただし、触れるのは一人ずつ。異常があれば、すぐ離れてください」


「離れなかった場合は?」


テレザが尋ねた。


「ミラダさんに離してもらいます」


「分かりやすい」


イヴァナが箱の三枚の封印を解き、クラーラが蓋を持ち上げた。灰色の欠片は、布の上に置かれたままだった。大きな耳を持つ獣の一部にも、ただの薄い石にも見える。最初に近づいたのはエリシュカだった。


図譜は開かず、箱から離れた机へ置いてある。


「名前を呼ばれたなら、答えてみてください」


イヴァナが言った。


「ここにいる」


クラーラが顔を上げる。


「私のときと同じ」


「ほかに返事を知らないから」


しばらく待った。声は返らない。灰色の表面に浮かんでいた細い筋も消えたままだった。エリシュカが指を近づける。


「触る前の距離」


ミラダが言った。


「覚えてたんだ」


「止めるために覚えた」


布越しに欠片へ触れる。冷たさも、熱もない。ただ、薄い石の感触だけが布の下にあった。


「何もない」


「それが普通です」


イヴァナが答えた。


「石としては」


次にクラーラが触れた。包帯の巻かれた左手ではなく、右手の指先を使う。


「姉さん」


呼びかけても、欠片は黙っていた。


「名前では反応しない」


「声でもない」


エリシュカは手を離した。


「少なくとも、今は」


クラーラが蓋を閉じ、イヴァナが新しい三枚の封印を施した。


「これ以上は非破壊検査の範囲で調べます。魔力、熱、音、振動。結果は夕刻までに」


「私も残る」


クラーラが言った。


「治療が終わっていません」


「もう包帯は巻かれてる」


後ろから垂れた端を、治療師が持ち上げた。


「結ばれていません」


クラーラが黙る。


「夕方まで箱は開けません」


イヴァナが続けた。


「異常があれば、登録された連絡先へ知らせます」


「私たちはここにいる」


「管理所へ四人分の寝台を置く規則はありません」


「椅子は四つあった」


テレザが言った。


「寝台ではありません」


ミラダが大盾を持ち上げる。へこんだ表面が、床の魔導灯を歪めて映した。


「装備を直す。夕方に戻る」


クラーラは箱を見たまま動かない。エリシュカが図譜を胸へ抱え直した。


「古文書院へ行こう」


「どうして」


「マルケータが、似た線をどこかに描いていた気がする」


「どこに?」


「それを探す」


ようやくクラーラの視線が箱から離れた。


「覚えてないの?」


「覚えていたら、もう頁を開いてる」


「図譜の人なのに」


「全部覚えていたら、本はいらないよ」


封鎖室を出る前に、クラーラが振り返った。白い箱は、再び三つの封印に閉じられていた。


「声が出たら、先に私を呼んで」


イヴァナが頷く。


「箱より先に?」


「箱は呼ばなくてもそこにいる」


管理所を出たところで、四人は魚骨の出汁と、魚醤を塗った米の焼ける匂いに捕まった。黒瓦の軒下に出た屋台では、大鍋の中で小粒の豆と根菜が煮え、その隣の鉄板には岬米を押し固めた飯が並んでいる。一段高い棚には、輸入麦へ米粉と豆粉を混ぜた小ぶりな黒パンも置かれていた。


百鬼夜境にはなかった匂いだった。


「先に食べる」


テレザが言った。


「補給が先じゃないのか」


ミラダが尋ねた。


「私たちの補給」


反対する者はいなかった。屋台の前に並ぶと、店主が鍋を覗き込みながら声を上げた。


「門前汁、四人分!」


全員が同時に振り返った。店主が柄杓を止める。


「……四人分で合ってるよな?」


「合ってます」


エリシュカが答えた。


「呼ばれたから」


「今は返事していい」


テレザが言った。四つの門前汁と、焼き押し飯、混ぜ黒パンを載せた籠を受け取り、石壁沿いの長椅子へ並んだ。ミラダが大盾を立てると、隣の席まで半分隠れた。


「五人目みたい」


エリシュカが言った。


「こいつは食べない」


「修理費は食べる」


テレザが答える。クラーラは左手を包帯に包んだまま、右手だけで黒パンを割ろうとしていた。固い皮へ指をかける。パンは割れず、皿だけが机の上を滑った。


エリシュカがパンを取り、二つに割って片方を戻した。


「自分でできる」


「そのままだと、パンより先に皿が落ちるよ」


クラーラは一度だけエリシュカを見て、パンを受け取った。


「子どもじゃない」


「知ってる。子どもなら、もっと素直に受け取るよ」


向かいでは、テレザが代金を数えていた。


「パンを割る料金は?」


「取らないよ」


「今後も?」


「何回割らせるつもり?」


クラーラがパンをスープへ浸した。


「二日分」


「治るまで全部?」


「左手は使えないから」


「パンは術式で割らないで」


隣で、ミラダが器を空にした。三人が見る。


「早くない?」


エリシュカが尋ねた。


「食べた」


「味は?」


「温かかった」


「それは温度」


テレザが自分の焼き押し飯を半分差し出した。


「もう少し食べて」


「足りている」


「その速さで食べた人の『足りている』は信用しない」


ミラダは何か言い返そうとしたが、結局、押し飯を受け取った。通りでは荷車が進み、黒瓦の向こうから鍛冶場の槌音が響いていた。どの音も、鳴った場所から聞こえる。少しのあいだ、四人は何も話さなかった。沈黙しても、誰かの古い声が割り込んでくることはない。


テレザが最後の一口を食べ、立ち上がった。


「じゃあ、仕事」


「もう少し休んでもいいんじゃない?」


エリシュカが言う。


「それを、椅子の下に毛布を置いてる人が言う?」


「まだ見てないでしょ」


「何を?」


クラーラが尋ねた。エリシュカは器を置いた。四人はヨイガサキの門前通りで二手に分かれた。石造りの基壇から木造の二階が張り出し、黒瓦の深い軒が濡れた石畳を覆っている。軒下には消えた魔法灯籠と干魚が並び、前合わせの短衣へ防水前掛けを重ねた魚売りが、高底木靴を鳴らして通り過ぎた。ミラダとテレザは市場裏の工房へ、エリシュカとクラーラは坂の上にある古文書院へ向かった。


石畳の坂を上りながら、クラーラが尋ねる。


「毛布って何?」


「古文書院にある」


「どこに?」


「必要な場所」


「研究室?」


「質問が具体的になってる」


「否定しないから」


古文書院は、大陸式の石造書庫、高床の木造閲覧棟、その奥にある黒瓦の収蔵棟を、渡り廊下で無理につないで作られていた。後から足された階段が廊下のあちこちへ伸び、初めて来た者は目的の部屋へ行くより、元の入口へ戻る方が難しい。迷わず歩くエリシュカのあとを、クラーラがついていった。


「山より複雑」


「ここは声を返さないから大丈夫」


「道も変わらない?」


「たまに棚が増える」


「それは人が動かしてるだけでしょ」


「原因が分かるのは安心だね」


三階の廊下へ出ると、紙束を抱えた男性が正面から歩いてきた。エリシュカを見るなり足を止める。


「生きてたんですか」


「今のところ」


「第一保管室の整理記録、期限を二日過ぎてます」


「百鬼夜境にいたから」


「提出欄には書けません」


「帰還理由には書けるよ」


男性はクラーラへ視線を移した。焦げ跡の残る手袋と、掌の包帯を見る。


「そちらも文書院の方ですか」


「違います」


「市の導光設備を調整してる精密術師」


エリシュカが代わりに答えた。


「光が消えないようにする仕事」


「雑にまとめないで」


男性は二人を見比べ、紙束を抱え直した。


「整理記録は明日までです」


「明日は夜境」


「では今日までです」


去っていく背中を見送り、クラーラが尋ねる。


「評価されてる?」


「期限を覚えられてる程度には」


研究室は、廊下の突き当たりにあった。扉を開けると、本と複写紙の匂いが流れ出す。壁には古い図像の写し。棚には折れた木簡、陶片、読めない文字を刻んだ石。


机の上は紙で埋まり、椅子の下から毛布の端が見えていた。クラーラはそこへ目を落とす。


「これ?」


「いつもじゃないよ」


「毛布がある」


「いつも持って帰る方が不自然でしょ」


「ここで寝るのが自然みたいに言わないで」


エリシュカは机の紙を左右へ寄せ、図譜を置く場所を作った。


「マルケータの複写は、たぶんあの箱」


棚の最上段に薄い木箱がある。クラーラが右手を上げる。白い光の糸が箱へ伸びたが、途中で揺れて消えた。


「使わないで」


「弱い術式」


「右手まで痛くなったら、今度は何で術式を使うの?」


クラーラは踏み台を引き寄せた。


「あなたが取って」


「最初からそう言って」


踏み台へ乗り、エリシュカは木箱を下ろした。降りようとしたとき、紙の束を踏みかける。クラーラの手が腰へ添えられた。


「下を見て」


「見てる」


「紙じゃなくて床」


「床には文字がないから」


「落ちたら読む人が減る」


箱を抱えたまま踏み台を下りる。腰から手が離れたあとも、触れられていた場所だけが少し残った。木箱には、マルケータとエリシュカが交わした複写資料が収められていた。異国の鳥。


頭のない騎士。舟の上へ立つ三人の女。本文だけでは意味の分からない絵に、二人の異なる筆跡が並んでいる。


『翼は四枚』


『本文では二枚』


『本文が間違っている』


『やっと同意した』


クラーラが頁をめくる。


「姉さん、よくここに来たの?」


「よく来たよ」


答えたあと、クラーラの指がわずかに遅くなる。


「どのくらい?」


「私が追い返すまで」


「追い返してたんだ」


「帰らないから」


椅子の下の毛布へ、クラーラの視線が動いた。


「あなたが言う?」


「だから分かる」


マルケータは古い言葉を読む人だった。エリシュカが絵の中にあるものを拾い、マルケータがその時代の文法や音へ戻す。同じ頁を見ても、二人が最初に読む場所は違った。違うからこそ、一人では拾えないものまで読めた。


クラーラが一枚の複写を持ち上げる。河辺に立つ、小さな人影。図譜の次の頁とよく似ていた。絵の端には、細く湾曲した線が描かれている。


灰色の欠片に浮かんだものと同じ形だった。


「これ」


エリシュカが紙を受け取った。裏にはマルケータの筆跡がある。


『白箱へ移す。声は変わらず』


その下には、もう一行あった。


『河辺の頁を閉じると、三度とも沈黙』


さらに下へ、エリシュカ自身の文字が続く。


『因果不明。要再検討』


クラーラが紙から顔を上げた。


「器を替えても、声は同じだった」


「そう読めるね」


「河辺の頁を閉じると黙った」


「でも、頁が原因か、同じときに別の条件が消えたのかは分からない」


エリシュカは朝の封鎖室を思い返した。触れた者にも、呼びかけた声にも、欠片は反応しなかった。


「少なくとも、最後に触れた人や、呼びかけた人へ反応するわけではなさそう」


「なら、頁?」


「次に試す仮説としては」


「今からするんだね」


「今からする」



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