幕間1 門前町ヨイガサキ ーー 第十話 声を預ける
「姉さんは、私の話もしてた?」
クラーラが尋ねる。
「してたよ」
「何て?」
すぐには答えられなかった。マルケータが妹の話をするとき、声は普段より少しだけ慎重になった。精密術式の試験で首席だったこと。頼まれてもいない街灯の誤差を直したこと。失敗すると誰にも言わず、できるまで繰り返すこと。
「聞きたい?」
「聞いたから」
「欠片がなくても?」
クラーラはエリシュカを見る。
「どうして分けるの?」
「マルケータの声が聞きたいのか、マルケータが話したことを知りたいのか」
少し考えたあと、クラーラが答えた。
「両方」
エリシュカは複写紙を机へ戻した。
「正確すぎて、間違えたとき一人で直そうとするって」
「余計なことまで話してる」
「間違ってる?」
「少し」
「どこが?」
答えはない。包帯に覆われた左手が、紙の上へ置かれている。
「今は、一人で直さなくていいと思う」
クラーラが顔を上げた。
「それも姉さんが言ったの?」
「今のは私」
目が合う。先に逸らしたのはエリシュカだった。河辺の複写へ視線を戻す。その横で、クラーラの肩が触れた。
紙を読むには必要のない近さだったが、どちらも動かなかった。
そのころ、市場裏の工房では、テレザがミラダの肩当てを外そうとしていた。濡れた床の中央には細い排水溝が走り、入口には修理を待つ漁具と探索装備が一緒に積まれている。魚皮の前掛けを着けた職人は、大盾のへこんだ部分を指で叩き、すぐにミラダの右肩へ目を向けた。
「盾だけ置いていけ」
「今日中に直るか」
「盾は直る。肩は交換できん」
「交換する必要はない」
「検査枠の光は、そう言ってなかった」
テレザが答えた。職人は鼻を鳴らし、鎚を取りに奥へ消える。ミラダが壁際の椅子へ座ると、テレザは肩当ての留め具を指した。
「外して」
「盾を直すんじゃなかったのか」
「盾は痛いと言わない」
「私も言ってない」
「だから見せて」
留め具へ手を伸ばした。落石の衝撃で金具が歪み、革へ食い込んでいる。ミラダが自分で外そうとすると、テレザがその手を払った。
「動かしたら余計に曲がる」
「私の肩か」
「留め具」
「どちらの話をしてる」
「肩も」
テレザは金具の隙間へ細い工具を差し込んだ。外すには、ミラダの胸元近くまで顔を寄せる必要がある。半歩だけ、ミラダの身体が後ろへ動いた。
「動かないで」
「近い」
「留め具が?」
「おまえが」
工具を持つ手が止まった。テレザが顔を上げる。
「今さら?」
「今までは落石が降ってた」
「今は降ってないから、気になる?」
「作業を続けろ」
「はい」
返事だけは素直だった。金具が外れる。肩当ての下には、右肩から脇腹へ青い痕が伸びていた。テレザの表情から、わずかに笑いが消える。
「これで負傷なし?」
「動かすには困らない」
「痛いか聞いた」
「答えは同じだ」
「クラーラと違う言葉で、同じ逃げ方をしてる」
薬箱から布を取り出し、冷却薬を塗る。ミラダは黙って受けていた。工房の奥から戻ってきた職人が、その様子を見て足を止める。
職人は歪んだ留め具を見て、鎚を止めた。
「北の分岐のあとにも、同じところを直したな」
「盾を直せ」
「戻らなかったのは、おまえじゃない」
ミラダは答えなかった。テレザも聞かず、包帯の結び目を指一本分だけ緩めた。
「今度は?」
「苦しくない」
「それだけ?」
「何を期待してる」
「別に」
盾の修理を待つあいだ、二人は市場で新しい縄を選んだ。テレザは船で運ばれてきた麻の細縄と、湿地の葦麻を撚った地元の太縄を順に引き、店先の水桶へ端を浸した。乾いているときの強さだけでは、次の夜には役に立たない。
「次は水辺らしい。濡れても切れないものを」
「落ちない方が安い」
「それは売ってないでしょ」
テレザは葦麻の縄を二本選び、荷物へ収めた。支払いの段になると、テレザは半額をミラダへ求めた。
「なぜ私だ」
「盾を橋にしたから」
「縄が切れたのは落石だ」
「その落石を止めた盾の修理費は私が半分出す」
「相殺では」
「別会計」
「同じ探索だろう」
「物は別」
ミラダはしばらく黙り、硬貨を置いた。
「次は領収書を取れ」
「今の、少し隊長みたいだった」
「私は隊長ではない」
「責任者欄には名前を書いてた」
「それとこれとは別だ」
「便利な言葉」
夕刻、四人は管理所へ戻った。封鎖室の白い箱は、置かれた場所から動いていない。だが、箱の下へ敷かれていた記録紙に、細い線が増えていた。灰色の欠片と同じ、耳のように湾曲した線。
イヴァナが記録紙を指した。
「魔力反応はありません。音を保存する空洞も、振動を起こす構造もない」
「でも声は出た」
クラーラが言った。
「結果と構造が一致していません」
「怪異ではよくある」
エリシュカは古文書院から持ち帰った複写紙を並べた。河辺の人影。絵の端にある湾曲した線。二つの形は一致している。
「マルケータが三年前に写した資料です」
「何の資料?」
「分からない」
「また?」
クラーラが横から言った。
「分からないことが増えたなら、調べた意味はあるよ」
四人が見守る前で、イヴァナが箱の封印を解き、クラーラが蓋を開けた。エリシュカは欠片を布ごと持ち上げる。
まずヤマビコの頁へ近づけた。反応はない。カラカサの頁へ替えても、灰色の表面は乾いたままだった。
最後に河辺の頁を開く。欠片へ細い筋が浮かび、頁の端に描かれた線も同じ形に濃くなった。中で、息を吸う音がした。
『エリシュカ』
朝と同じ呼びかけだった。今度は、それだけでは終わらなかった。
『エリシュカ。喉が渇いても――』
声はそこで途切れた。誰もすぐには話さなかった。図譜の頁には、頭に皿を載せた小さな人影がいる。岸辺へ座り、水中から誰かの足首をつかんでいた。
「飲むな、って続くのかな」
エリシュカが言った。
「姉さんは最後まで言ってない」
クラーラが欠片を見る。
「言えなかったのか、言わなかったのかも分からない」
「でも、水に気をつけろという意味には見える」
ミラダが荷物へ視線を移した。
「川の水だけか?」
「持ち込んだ水も含むかもしれない」
テレザが答えた。
「飲まずに進める時間には限りがある」
クラーラは欠片から目を離さなかった。
「私には名前だけで、エリシュカには警告」
「あなたへの呼びかけは、三年も山に残ってた」
エリシュカが答えた。クラーラは何も言わなかった。欠片だけでも、人の名を呼ぶことがある。対応する図譜の頁を近づければ、その先へ預けられた言葉が開くのかもしれない。まだ、一度確かめただけの仮説だった。クラーラが箱の蓋を閉じ、イヴァナが欠片を再び封じた。
翌朝、四人はヨイガサキの市壁を出て、百鬼夜境の門前へ集まった。クラーラの左手には新しい包帯。ミラダの肩当てには交換された留め具。テレザの荷物には二本の葦麻縄と、四人分の密閉した水袋が入っている。四人の立ち会いで白い箱が開かれ、欠片は三重に封印した袋へ移された。イヴァナは袋を手渡さず、門前の机へ置いた。
「返却ではありません。管理所保管物の現地検査です」
イヴァナは袋の三つの封を順に示した。
「持ち出せるのは夜境内だけ。開封は四名が揃い、図譜の対応頁を確認した場合に限ります。封を切れば管理所へ記録され、帰還時には直ちに再提出してください」
「二人なら?」
「開けないでください」
「一人なら?」
「受領責任者を変更します」
エリシュカは質問をやめ、受領欄へ署名した。三重袋を図譜とは別の鞄へ収める。監視官が第二夜標を受け取り、門柱の窪みへ差し込んだ。黒石の裏に刻まれた四つの印から細い光が伸び、四人へ一本ずつつながった。他隊の夜標では、この門は開かない。
「登録構成は変更なし」
監視官が確認する。
「仮隊名も〈ヴェセラー隊〉のままで?」
「名前を変えるだけで銅貨二枚だから」
テレザが答えた。
「まだ言ってるの?」
エリシュカが尋ねる。
「銅貨は昨日から減ってない」
石門が内側へ開くと、霧の山頂と、静かになった黒い岩の穴が現れた。第二夜を越えた直後の場所だった。四人が敷居を越えると、夜標は門柱から外れ、テレザの手へ戻った。
「ちゃんと戻れた」
クラーラが周囲を見る。
「管理所の説明どおり」
「説明を疑ってた?」
「確かめただけ」
山頂の先には、第三夜へ続く門が立っている。右の門柱に門環はある。だが、今は誰も手を伸ばさなかった。テレザが新しい縄を確かめる。
ミラダは直した盾を構えた。クラーラの右手に、小さな光が浮かぶ。エリシュカが図譜を開いた。
「水に気をつければいいんだよね」
「まだ分からない」
クラーラが答える。
「分からないまま進むの?」
「進まないと、もっと分からない」
前にも聞いた言葉だった。
エリシュカは笑い、門へ手をかけた。
扉の向こうで、水が流れていた。




