第二夜 ヤマビコ ーー 第六話 ここにいる
尾根へ近づくにつれ、呼びかける声は少なくなっていった。消えたわけではない。遠い谷や、幾重にも重なった山の向こうへ移っている。
『待って』
『どこにいるの』
声の主たちは、もうこの山にはいないのかもしれない。それでも声だけは古びず、返事のない相手を呼び続けていた。エリシュカが先を歩き、クラーラの足音が背後で途切れないことだけを確かめる。
やがて道が尾根へ出る。霧はまだ濃いものの、左右の谷を見下ろせる程度には視界が開けていた。前方には岩山が続き、その頂に細長い黒い影が立っている。ミラダとテレザの姿はない。
「山頂まで行ったと思う?」
「ミラダなら高い場所を目指す。テレザも一緒なら、道具を使って合図を残すはず」
「今のところ、声しかない」
谷を見渡しながら、エリシュカは耳を澄ませた。声は多い。だが、知っている二人の声は混じっていなかった。名前を呼べば、山がその声を覚える。大声を出せば、眠っている呼びかけまで再び起こしかねない。
「呼ばずに探す方法は?」
「光なら、山は真似できない」
クラーラの右手から白い光が上がり、霧の上で大きな輪になった。
「見えていたら、六つまでに返して」
四つ目で、尾根の反対側から声が届く。
「見えてる!」
テレザの声だった。七つ目には、別の谷から同じ言葉が返った。
『見えてる!』
「最初の方が本物」
エリシュカが言う間に、光の輪は山頂を指す矢印へ変わった。
「今は何に見える?」
五つ目で左手の斜面から答えが届く。
「矢印。少し曲がってる」
七つ目に、背後の山が問いだけを返した。
『今は何に見える?』
クラーラは矢印を消し、細長い橋を浮かべる。
「これは?」
三つ目で答えが来た。
「橋」
七つ目には別の斜面から、ひとつ前の答えが響いた。
『矢印。少し曲がってる』
エリシュカは「橋」と答えた方角を指した。
「今のが本物」
「今回は橋だから」
クラーラが光の橋を左へ傾ける。
「そっちじゃない。反対」
右へ動かすと、すぐに声が返った。
「そこで止めて」
六つまでに届く声は、変わり続ける光へ答えた。七つ目の声は、問いか、すでに聞いた答えしか返さない。
「場所が分かった」
尾根の右側へ、エリシュカは身体を向けた。
「このまま光を出していて」
「手が震えてるって言ったのは誰?」
「だから一つだけ」
「細かい」
光の橋を空へ残し、二人は尾根を進んだ。何度か道が分かれたものの、六つまでに返るテレザの声を使えば、山の反響へ惑わされずに済んだ。やがて、岩壁の向こうから大盾の上端が見えた。中央は落石を受けて内側へへこみ、縁の革帯が一本切れている。深い亀裂の反対側では、テレザの腰にちぎれた縄の端だけが残り、片膝から裾まで泥に染まっていた。ミラダも右肩をわずかに下げている。
「遅い」
テレザが顔を上げた。
「道が遠回りだった」
「こっちは盾が道を塞いだ」
ミラダがへこんだ盾を見た。
「盾がなければ、二人とも岩の下だった」
「それは認める」
「なら、道を塞いだことも認めろ」
四人の間には、跳び越えるには少し広い割れ目があった。底は霧に隠れ、深さが分からない。大盾を外し、ミラダは亀裂へ横向きに渡した。両端が辛うじて岩へかかる。
「先に渡れ」
最初に盾へ乗ったのはテレザだった。軋む金属を気にする様子もなく、エリシュカたちの側へ渡ってくる。反対側に残ったミラダが盾の位置を確かめた。
テレザが渡り終えると、ミラダは短く助走をつけて亀裂を跳び越えた。着地した身体が大きく傾き、テレザが腕をつかんで谷際で止める。
「盾を使わなかったの?」
「最後に回収する者が必要だ」
亀裂に残った盾を、クラーラが右手の魔法で引き寄せた。へこんだ金属面が岩を擦り、四人の側へ戻ってくる。
四人分の足音が一つの道へ揃った。分断は短い時間にすぎなかった。それでも前後に仲間の気配があるだけで、山道が少し広くなったように感じられた。
「どうやって見つけた?」
山頂へ向かいながら、ミラダが尋ねた。
「六つまでに返る声と、変わり続ける光」
「光を出したのは私」
クラーラが言った。
「分かってる」
前方で、ミラダが片手を上げた。
「静かに」
山頂から声がした。
『クラーラ』
マルケータの声だった。
今度は遠い斜面ではない。岩山の頂に立つ、黒い影の方から聞こえる。四人は足音を抑え、ゆっくり近づいた。頂上は浅い窪地になっている。
中央には無数の穴を開けた黒い岩が立ち、風が通るたび吐息のような音を立てていた。その前に、岩と見分けのつかない灰色の獣がうずくまっている。霧の中へ浮かぶ大きな耳は、図譜の姿と同じだった。
獣が口を開く。
『クラーラ』
マルケータの声が、その喉から出た。クラーラが近づこうとすると、ミラダの腕が前へ伸びた。
「待て」
「襲う様子はない」
「最初に動かない怪異は、もう見た」
図譜を開き、エリシュカは絵と実物を見比べた。大きな耳。膨らんだ喉。開いた口から、山へ広がる細い線。
絵の線は、音を表しているのだろう。獣の腹がゆっくり膨らむ。
『戻ってきて』
知らない男の声。
『どこにいるの』
女の声が重なった。
『待って』
『誰かいないの』
黒い岩の穴からも、古い呼びかけが漏れていた。どれも返事を求める言葉ばかりだった。
「声を覚えてるの?」
ミラダが尋ねた。
「ここから出してる」
獣の喉を見ながら、エリシュカが答えた。
「山のあちこちで返していたものが、ここへ集まってるのかもしれない」
クラーラは黒い岩を見上げた。
穴へ耳を近づけようとしたテレザの外套を、ミラダがつかんだ。
「近づきすぎるな」
「聞くだけ」
「記述のない入り方をされるかもしれない」
獣が再び口を開いた。
『クラーラ』
ほかの古い声は、一度山へ渡ると遠ざかっていく。マルケータの呼びかけだけは、同じ場所から繰り返されていた。図譜の余白には、まだ二行しかない。
『七つ数えて返る』
『同じ声。同じ息』
答えは書かれていなかった。
「繰り返し残ってるのは、呼びかけだけだ」
頁を見たまま、エリシュカは言った。
「返事をもらっていない声だけかもしれない」
「確かめる?」
テレザがミラダを見た。
「どうやって」
「名前を呼ぶ。すぐには答えないで」
「なぜ私だ」
「近いから」
数歩離れ、テレザはミラダへ向き直った。
「ミラダ」
ミラダは答えず、六つまで待った。七つ目に、獣の口からテレザの声が出る。
『ミラダ』
黒い岩の穴からも、同じ呼びかけが遅れて漏れた。
『ミラダ』
テレザが頷く。
「今度はすぐ答えて」
「いる」
返事は六つを待たずに届いた。その声も七つ目に一度だけ山から返る。
『いる』
呼びかけと返事が遠い谷を渡り、やがて消えた。テレザの声は、もうミラダの名を呼ばなかった。
「呼びかけのあとに返事が続けば、同じ名は繰り返されない」
「一回で決めるの?」
クラーラが尋ねた。
「少なくとも、待ってる間に二度呼ばれた。答えを理解したわけじゃなくても、呼びかけと返事を一組として運び終えるのかもしれない」
「まだ仮説」
「でも試せる」
灰色の獣が、マルケータの声でまた呼んだ。
『クラーラ』
姉は三年前、この山でクラーラの名を呼んだ。そのとき、クラーラはここにいなかった。返事を得られなかった声だけが残るのなら、三年間、同じ名を呼び続けていたことになる。クラーラは獣の前へ出た。
「ここにいる」
その言葉が霧の中へ広がった。六つまでのあいだ、マルケータの声は戻らない。七つ目に灰色の獣が口を開き、クラーラ自身の声を一度だけ返した。
『ここにいる』
それきり、三年残った呼び声は止まった。
黒い岩の向こうで石が擦れ、霧の中から門へ続く石段が現れた。扉の隙間から冷たい空気と、図譜の次頁に描かれた川のような水音が流れてくる。
遠い谷には、四人では答えられない呼びかけがまだ残っていた。それでも道を惑わせることはなく、山の奥へ遠ざかっていく。灰色の獣は石段の脇へ移り、エリシュカは図譜に記された名を口にした。
「ヤマビコ」
大きな耳が動く。
『ヤマビコ』
怪異は自分の名を一度だけ返した。そのまま黒い岩の陰へ歩いていく。岩と同じ色の身体は、霧の中ですぐに見えなくなった。図譜の頁に、新しい原文が浮かび上がった。
『声を返せど、答えを持たず』
余白には、マルケータの筆跡が現れている。
『第二夜。あなたの名を呼んだ』
文字へ、クラーラは指を置いた。
「姉さんは、私が来ると思ってたのかな」
答えは図譜にない。ここで都合のいい推測を返せば、ヤマビコと同じだった。
「分からない」
そう答えると、クラーラがこちらを見る。
「正直」
「分からないなら、それしか答えられない」
「エリシュカでも?」
「私だから」
「それは怪しい」
黒い岩の陰で、小さな音がした。最初に振り返ったのはテレザだった。獣が消えた場所から、灰色の欠片が一つ転がり出ている。親指ほどの大きさで、薄く湾曲していた。獣の耳を、そのまま石へ変えたような形だった。
「触らないで」
ミラダが言った。欠片の前へしゃがんでいたエリシュカは、伸ばしかけた手を止める。
「触ってない。見てるだけ」
「その距離は触る前の距離だ」
図譜を近づけると、灰色の表面に細い筋が浮かび上がった。文字ではない。見慣れた魔法陣とも違う。だが、頁の余白に現れた線とよく似ていた。
隣へクラーラが膝をつく。
「姉さんが残したもの?」
「分からない」
「ヤマビコの一部?」
「それも分からない」
「二人とも、分からないものへの距離が近い」
厚い布を取り出し、テレザが欠片へかぶせた。
「離れて」
布越しに持ち上げた瞬間、七つ数える間もなく、欠片の中で声がした。
『クラーラ』
マルケータの声だった。山から聞こえたものと同じ高さ、同じ息。名前の最後だけ、わずかに音が下がっている。だが声は山へ渡らず、欠片の内側だけで鳴って沈黙した。
「もう一度」
伸ばされた手から、テレザは欠片を遠ざける。
「街で調べてから」
「ここでも調べられる」
「左手」
エリシュカが言った。クラーラは口を閉じた。
「縄も切れた」
布に包んだ欠片を確かめながら、テレザが続ける。
「杭も二本曲がった。保存食は一日分減った」
「盾も直す」
落石でへこんだ表面を、ミラダが指でなぞった。右の門柱には、帰還を選ぶための鉄の輪が下がっていた。そのまま扉を開けば第三夜。門環を引けば、街へ帰る。
「戻る」
ミラダが言った。クラーラだけが、扉の向こうから聞こえる水音を見ている。
「まだ進める」
「手、縄、盾、食料」
エリシュカが順に挙げた。
「それから姉さんの声が出る欠片」
テレザが付け加える。
「戻ったあと、ここへ直接来られる」
ミラダは門環へ手をかけた。
「夜標を失くさなければ」
「失くさない」
テレザが答えた。
「縄は切れたけど」
「それは失くしたんじゃない」
鉄の輪が手前へ引かれると、門柱の内側で重いものが落ちた。扉の向こうから聞こえていた水音が消え、代わりに街の鐘が鳴る。ミラダが扉を開くと、向こうにはヨイガサキの市壁外に建つ夜境管理所と、入口を囲む二重の鉄柵が見えた。敷居の脇から、薄い黒石の板が滑り出る。表には大きな耳を持つ獣、裏には四つの小さな印。第二夜を越えた四人にだけ反応する夜標だった。テレザが夜標を拾い、灰色の欠片とは別の布へ包んだ。
「間違えないで」
エリシュカが言った。
「声が出る方と、門が開く方」
「間違えたら?」
「門が姉さんの声で開く」
クラーラが荷物を見た。
「それは少し困る」
姉の声を宿した欠片を抱え、四人は帰還の門へ踏み出した。




