第二夜 ヤマビコ ーー 第五話 声のある方へ
二歩目を踏み出す前に、外套の袖が後ろへ引かれた。袖をつかんでいたのはエリシュカだった。
「その先、道がない」
クラーラの足元には、濡れた岩が一枚張り出しているだけだ。その先は急斜面になり、白い霧の下へ消えていた。
「声はあそこから聞こえた」
谷を見たまま、クラーラが答えた。
「テレザの声も、道のない森から返ってきたよ」
「あれとは違う」
「どう違うの?」
返事はすぐには来なかった。谷の奥は白く閉ざされ、木の梢さえ見えない。マルケータの声も、今は途絶えている。
「姉さんの声だった」
「それは疑ってない」
エリシュカは袖から手を離した。
「でも、声がした場所に本人がいるとは限らない」
「分かってる」
「分かってる人の進み方じゃなかった」
二人の横から、ミラダが谷を覗き込んだ。
「降りられるか?」
近くの木へ縄を回し、テレザが斜面の縁まで進んだ。腰を落とし、短い棒で岩の下を探る。湿った土が崩れ、小石が霧へ吸い込まれた。落下音は聞こえない。
「ここからは無理」
縄を回収しながら、テレザが戻ってくる。クラーラは谷の左右を見比べた。
「別の道を探す。姉さんが声を残した場所なら、何かある」
「声が残ると決まったわけじゃないよ」
図譜の頁を押さえながら、エリシュカが言った。
「ヤマビコが、どこかで聞いた声を返しているだけかもしれない」
「三年前に聞いた声を?」
「だから調べる。でも、谷へ飛び込むのは調査じゃない」
ようやくクラーラが谷から目を離した。
「姉さんなら、そう言った?」
「マルケータなら、先に自分で降りようとしたと思う」
「なら、止めないで」
「そのたびに私が止めた」
クラーラの表情が、わずかに揺れた。
「姉妹で似るところ、そこなんだね」
「似てない」
「まだ似てる」
後ろで、ミラダが大盾を肩へ戻した。
「山頂へ向かう。谷へ下りる道があるなら、上から探した方が早い」
「ここで待っても、声しか来ない」
テレザも山頂へ身体を向けた。もう一度だけ谷を見てから、クラーラが頷く。
「分かった」
四人は歩き始めた。しばらくすると、先ほどの言葉が山のあちこちから戻ってくる。
『ここからは無理』
テレザの声が谷の底から響いた。
『似てない』
右手の斜面からは、クラーラの声。
『山頂へ向かう』
最後に、ミラダの低い声が背後の山道を渡った。どれも一度だけだった。発した順番とも、聞こえてくる方角とも関係なく、決まった間を置いて山のどこかから戻ってくる。マルケータの声だけは聞こえなかった。
歩きながら、クラーラは何度も谷を振り返った。そのたび、隣を歩くエリシュカは何も言わなかった。石段は次第に狭くなっていく。右には岩壁が立ち、左は霧に沈んだ斜面だった。先頭の大盾が道幅の半分を塞ぎ、四人は一列で進むしかない。腰の縄を引き、テレザが張り具合を確かめた。
「帰り道は残ってる」
「前へ進む道は?」
先頭から、ミラダが尋ねた。
「今のところ一本」
「選ばなくていいのは助かる」
「崩れたら、それもなくなる」
大盾の脇から、ミラダが振り返る。
「言わなくていいことまで言うな」
「あとで、言わなかったって怒るから」
山道は大きな岩を回り込み、三方を崖に囲まれた狭い岩棚へ出た。正面には谷が広がっているはずだが、白い霧が壁のように立ちはだかっている。風が吹いても、ほとんど動かなかった。谷へ小さな光球が飛んだ。白い奥へ隠れたあとも、クラーラは目を閉じたまま魔力のつながりを追っている。
「霧が光を遮ってる。谷の奥には飛ばせるけど、こちらからは見えない」
「音の方向も、距離も当てにならない」
岩棚を見回しながら、エリシュカが言った。
「声を追っても、同じ場所へ着くとは限らないね」
クラーラの周囲へ、新しい光球が三つ浮かんだ。
「一度に違う音を出す」
「何を調べる」
大盾を立てながら、ミラダが尋ねた。
「一つ目は短く。二つ目は長く。最後は二回。返ってくる場所を比べれば、音を返すものが一体かどうか分かる」
「一体じゃなかったら?」
エリシュカが尋ねる。
「それも分かる」
「山そのものだったら?」
「それも」
返事が速い。カラカサの柄へ手を伸ばしたときと、同じ目をしていた。直接怪異へ触れていないぶん、本人は慎重なつもりなのだろう。
「大きな音にする必要はある?」
「小さいと、返ってきたときに重なる」
「今、ほかの音はないよ」
「測るなら、はっきりさせる」
荷物から布を取り出し、テレザが耳を覆った。
「クラーラの小さいは、だいたい小さくない」
「今回は小さい」
「前にもそう言ってた」
大盾の持ち手が軋んだ。
「その話はあとにしろ」
ミラダの抗議に、テレザは布の位置を直した。
「そのうち山が言う」
三人を見回し、クラーラは右手を上げた。
「始めるよ」
ミラダが大盾を地面へ立てる。
「全員、後ろへ」
「音を出すだけだよ」
「前も傘だった」
反論できず、クラーラも盾の陰へ入った。三つの光球が、同時に白く瞬く。谷の奥で短い音が破裂し、山頂からは低く長い音が響いた。背後の道では、二つの音が続けて鳴る。山が静まった。
やがて、右の斜面から短い音が返ってきた。続いて谷の底から長い音。最後の二つは頭上で響いた。
「三か所」
顔を上げたクラーラへ、ミラダが尋ねる。
「三体いるのか?」
「まだ分からない」
その直後、別の斜面から短い音が返った。長い音が左の谷から響き、二つの破裂音が遠い尾根で鳴る。最初の音が、さらに別の斜面から返された。同じ三種類の音が、山のあちこちで重なり始める。
「連鎖してる」
クラーラの表情が変わった。
「返された音を、別の何かがまた拾ってる」
「止められる?」
大盾を構えながら、ミラダが聞いた。
「魔法はもう消してる」
「でも、音は消えてない」
足元の岩棚が震えた。三種類の破裂音に混じって、人の声が聞こえてくる。
『戻ってきて』
知らない男の声だった。
『どこにいるの』
続いて、女の声。
『待って』
遠い谷から、幼い声が呼ぶ。大きな音が、それまで届かなかった山中の何かまで起こしたのかもしれない。古い声は一度で終わらなかった。呼びかけを受け取った何かが、さらに山の奥へ同じ声を渡していく。
『エレナ』
『父さん』
『誰かいないの』
『置いていかないで』
何年も、あるいは何十年も前の声が、白い山の中で次々と目を覚ました。図譜を開いたエリシュカは、一つ一つの言葉へ耳を澄ませた。
「全部、誰かを呼んでる」
「何?」
振り返ったクラーラへ、頁を見せる。
「残っている古い声。返事じゃない。全部、呼びかけだよ」
再び岩棚が揺れた。頭上で石の砕ける音がする。
「伏せろ!」
ミラダが大盾を四人の上へ掲げた。岩壁から石が降り注ぐ。最初の一つが盾へぶつかり、重い音を立てた。その音まで、山のどこかで繰り返される。腰の縄をつかみ、テレザが叫んだ。
「戻る!」
四人は来た道へ走った。落石を盾で受けながらミラダが先頭を進み、テレザがすぐ後ろにつく。図譜を外套へ押し込み、エリシュカはクラーラの手首をつかんだ。細い道へ入った瞬間、大きな岩が頭上から落ちてきた。ミラダが盾を斜めに上げる。
岩は表面を滑り、道の外へ落ちた。その衝撃で岩壁が崩れ、四人の間へ土砂が流れ込む。前へ倒れたテレザの腕を、ミラダが片手でつかんだ。後ろにいた二人は、押し戻されるように引き離される。
「テレザ!」
土煙の向こうから、ミラダの声がした。
「いる!」
テレザの返事が続く。次の落石が道を打つ。腰から伸びていた縄が鋭い岩に挟まり、音を立てて切れた。崩れた石と土が、二組の間を完全に塞ぐ。
「ミラダ!」
エリシュカが呼んだ。決めたとおり、二人は六つまで待った。土砂の向こうから返事はない。
七つ目に、右の谷からエリシュカ自身の声が返ってきた。
『ミラダ!』
正面の土砂は沈黙したままだった。クラーラが隙間へ光球を送り込んだが、途中で岩に阻まれ、それ以上先へ進めない。エリシュカは崩れた石へ手を当てた。
「塞がれる直前には、二人とも声が出てた。でも、今も無事とは限らない」
「だから急ぐ」
光球を消し、クラーラが立ち上がった。背後でまた石が落ちる。その場に留まれず、二人は崩れた道とは反対側へ進んだ。岩壁に沿った細い足場が、谷の方へ続いている。先へ出ようとしたクラーラの前へ、エリシュカが回った。
「今度は私が前」
「戦えないでしょ」
「あなたは左手が使えない」
「使える」
「さっきより震えてる」
左手へ、クラーラの視線が落ちた。指先はわずかに揺れている。一度に三つの光球を制御したあと、落石の中でも魔法を使ったせいだ。
「見るところ、そこ?」
「図譜だけ見てると思ってた?」
返事をせず、クラーラは道を譲った。二人は岩壁へ身体を寄せ、一歩ずつ先へ進む。谷からは、目を覚ました声が絶えず聞こえていた。
『誰か』
『待って』
『どこにいるの』
過去の呼びかけが、返事のないまま山を巡っている。細い足場の一部が崩れていた。先に割れ目を渡り、エリシュカが向こう側から手を伸ばす。
「クラーラ、こっち」
その手を取り、クラーラも足場を越えた。すぐ先で、道が二つに分かれている。左は尾根へ向かって登り、右はマルケータの声がした谷へ下っていた。しばらくして、右の道から声が返る。
『クラーラ、こっち』
先ほどエリシュカが発した言葉だった。姉の声がした谷へ誘う答えのようにも聞こえる。だが、ヤマビコが二人の状況を見て答えたわけではない。過去の言葉が、今のクラーラにとって都合のいい意味を持っただけだった。
エリシュカはどちらの道も指ささず、クラーラへ尋ねた。
「今の私なら、何て言うと思う?」
クラーラは二つの道を見比べた。右へ進めば、姉の声に近づけるかもしれない。左の先には尾根がある。合流場所を探すなら、ミラダも同じ方を選ぶはずだった。
「左」
尾根へ続く道を、クラーラが指した。
「ミラダなら、高い場所を目指す。四人で合流するために」
「正解」
二人は尾根へ向かった。返されたエリシュカの声は、一度だけ谷へ消えていく。クラーラは振り返らなかった。




