第二夜 ヤマビコ ーー 第四話 七つ数えて返る
次の門をくぐると、四人分しかないはずの足音が、霧の奥にもあった。エリシュカが立ち止まる。少し遅れて、もう一組の足音も止まった。
「増えた?」
背後を振り返り、テレザが尋ねた。
「何が」
「人数」
大盾を構えたまま、ミラダは白く霞んだ道へ目を凝らした。
「見える範囲には四人だ」
「見えない範囲の話をしてる」
背後で境の門が閉じた。振り返ったときには、雨上がりの町も門も消え、切り立った岩壁だけが残っていた。濃い霧が山全体を満たし、十歩先の木々は輪郭しか見えない。その奥で、もう一組の足音が四人を待っていた。
クラーラは、カラカサの柄を握り続けた左手を一度開き、すぐに閉じた。掌にはまだ赤い痕が残っている。
「動く?」
隣から、エリシュカが覗き込む。
「動く」
「痛い?」
「聞かれなければ忘れてた」
「じゃあ、聞かない方がよかった?」
「もう遅い」
二人の前へ、ミラダが出た。山道はすぐ先で三つに分かれている。中央は尾根へ向かって登り、左右の道は霧の中へ緩やかに下っていた。分岐の中央には、苔むした石柱が立っている。表面に文字らしい溝が刻まれていたが、半分は欠け、残りもエリシュカには読めなかった。
「図譜は?」
石柱を調べる背中へ、クラーラが声をかけた。
「山の頁を探してる」
「百鬼夜境へ入る前に、索引を作っておくものじゃない?」
「中身が勝手に変わる本に、まともな索引は作れないよ」
テレザが左の道へ小石を投げた。石は霧の中へ消え、硬いものへぶつかる乾いた音を立てた。しばらくして、同じ音が中央の道から返ってくる。今度は右の道へ投げる。
湿った土へ沈む鈍い音。返ってきたのは、四人の背後だった。
「投げた場所と合ってない」
「音を道案内には使えないな」
ミラダが大盾の縁で石柱を軽く叩いた。甲高い音が山へ走る。しばらく待っていると、同じ音が左の谷から返ってきた。
「何かいるか?」
白い光がクラーラの指先から三つに分かれ、それぞれの道の先へ進んでいった。目を閉じ、魔力の動きを探る。
「近くには何もいない」
「遠くには?」
「見えない」
三本の道へ向けて、ミラダが声を張った。
「誰かいるか」
四人は黙って待った。テレザが小さな声で数える。一、二、三、四、五、六、七。
『誰かいるか』
ミラダ自身の声が、右手の森から返ってきた。低さも、息の量も、語尾の切り方も同じだった。木々の間に人影はない。
「私、あんな声か?」
「本人より少し不機嫌に聞こえた」
テレザが答えた。
「同じだろ」
「本人が一番分からないものだから」
クラーラが指を鳴らした。同じ間を置いて、今度は中央の道から乾いた音が返ってくる。白い光球を中央の道へ飛ばし、霧に隠れたところで破裂させた。返ってくるまでの間は、指を鳴らしたときと変わらない。続いて足元でも小さく破裂させたが、やはり同じだった。
「音を出した場所が違うのに、返るまでの時間は変わらない」
エリシュカは三本の道を見比べた。
「反響なら、遠くで鳴らした方が遅くなるはず」
「山の形が全部同じなら?」
「足元の音まで同じにはならないよ」
「誰かが、決まった間を置いて返してる」
「一人か?」
ミラダが尋ねた。
「それは分からない」
「分からないまま進むのか」
クラーラは中央の道を見た。
「進まないと、もっと分からない」
しばらく道を見比べたあと、大盾の先が中央を示した。
「上へ行く。下りは戻れなくなる可能性が高い」
「高い場所なら、周囲が見えるかもしれない」
エリシュカも同意した。石柱の根元へ、テレザが細い縄を結んだ。残りを腰の金具へ通し、強く引いて結び目を確かめる。
「これなら、道が見えなくなっても戻れる」
縄へ目を落とし、クラーラが言った。
「最初から言って」
「エリシュカと話してたから」
「止めてくれてよかったのに」
テレザはもう一度結び目を引いた。
「どっちが勝つか見てた」
「勝負してない」
「そうだったんだ」
四人は中央の道へ進んだ。歩くたび、テレザの腰を通った縄が背後へ伸びていく。膝の高さまで霧が山道を覆っていた。石段は不揃いで、ところどころ木の根が表面を押し上げている。先頭はミラダ。その後ろをテレザ、エリシュカ、クラーラが続いた。
しばらく誰も声を出さなかった。何かを言えば、同じ間を置いて山から返される。聞こえるのは靴底が土を踏む音と、枝から落ちる雫だけだった。その足音さえ、ときおり別の斜面から遅れてついてくる。やがて、前を歩くテレザが右手を上げた。
石段が途中で崩れ、木の根だけが斜面から突き出している。地面を手で押し、表面の土を払う。短い杭を一本打ち込むと、小さく頷いた。
「こっち。足場がある」
崩れた石段を避け、脇の岩場へ足をかける。ミラダが先に上がり、大盾を地面へ置いた。続いてテレザとエリシュカを引き上げ、最後にクラーラの腕をつかむ。四人が上へ出たころ、右手の森から声がした。
『こっち。足場がある』
本物のテレザは三人の前にいた。声が聞こえた方角には、足を置ける道すらない。
「返ってくる方向に意味はない」
クラーラが言った。
「あるいは、間違った方向へ誘ってる」
森の奥を見ながら、エリシュカが答えた。
「それなら、言葉の意味を分かってることになる」
「真似してるだけかもしれない」
「まだ決められないね」
図譜を取り出し、頁をめくった。獣。山。声。
大きな耳。
「あった」
色褪せた紙には、山の斜面へうずくまる小さな獣が描かれていた。身体よりも大きな耳。岩に似た灰色の毛。開いた口から、細い線がいくつも山へ広がっている。
絵の上には、推定された読みが記されていた。
「ヤマビコ」
「カラカサよりは生き物らしい」
図譜を覗き込んだミラダへ、エリシュカは首を傾ける。
「絵ではね」
原文の多くは薄れていた。読めるのは一行だけだった。
『山に呼べば、山より応ず』
「役に立つ?」
テレザが尋ねた。
「呼べば返事をする」
「もう知ってる」
「原文と観察が一致した」
「知らないことを教えてほしい」
横から、クラーラが図譜へ顔を寄せた。頁の余白には、マルケータの筆跡がある。
『七つ数えて返る』
その下に、もう一行。
『同じ声。同じ息』
文字の上で、クラーラの指が止まった。
「姉さんもここを通った」
「少なくとも、この二行を書いたときには」
「姉さんの声も聞いた?」
「書いてない」
「残ってないの?」
「声が残るものなのかも、まだ分からない」
テレザは指先で自分の掌を六度叩き、七度目の前で止めた。
「声を使うなら、六つまでに返す」
「七つ目からは?」
クラーラが尋ねた。
「山の声。返事としては聞かない」
「考えるのに七つ以上かかったら?」
「短く答える」
ミラダが言った。
「それなら、あなたは得意だね」
「今のは返さなくていい」
クラーラは何かを言いかけ、やめた。図譜をしまい、四人は再び山頂へ向かった。テレザが口元へ指を立て、次に前方を指す。ミラダが頷いた。
エリシュカも理解したが、クラーラだけが首を傾げている。指で歩く真似をしてから、テレザはもう一度山頂を示した。
「進むってこと?」
エリシュカが口にした。テレザが睨む。意味を理解したクラーラが、エリシュカの外套を軽く引いた。しばらくして、背後の山道から声が返ってくる。
『進むってこと?』
ミラダが口元へ指を立てた。全員が黙る。返された声は一度だけ山を渡り、そのまま遠ざかっていった。静けさが戻る。
その中で、知らない女の声がした。少なくとも、エリシュカには聞き覚えがなかった。だが、クラーラはその場へ縫い止められたように動かなくなった。谷の向こうから、女の声が呼んだ。
『クラーラ』
低く、穏やかな声だった。名前の最後だけ、わずかに音が下がる。クラーラの唇が動く。声にはならなかった。
姉さん、と言ったのだとエリシュカには分かった。長い沈黙が山へ落ちる。やがて、同じ声がもう一度呼んだ。
『クラーラ』
クラーラは谷へ向かって、一歩踏み出した。




