第一夜 カラカサ ーー 第三話 帰る場所だけがない
戸の音はしたのに、戸はどこにもなかった。
路地は十歩ほど先で濡れた板塀に突き当たり、入口らしき隙間も、人が出入りした跡も見当たらない。
「誰かいるの?」
テレザが声をかけた。
返事はなかった。
代わりに、クラーラの持つカラカサが一本脚を動かした。また同じ周回へ戻ろうとしている。
「待って」
クラーラが柄を引くと、赤い布が震え、一つ目が大きく開いた。
「止めると暴れる」
エリシュカが言う。
「分かってる。でも、また一周するだけでしょ」
「今度は道を見よう」
「今までは何を見てたの?」
「傘」
「あとで話がある」
クラーラはカラカサに引かれ、再び歩き出した。ミラダも大盾を掲げ直し、エリシュカとテレザを雨から守りながらあとへ続く。
道順は変わらない。
右へ曲がり、閉ざされた二軒の店を通り過ぎる。細い水路に沿って左へ折れ、赤い灯りの前を抜けると、先ほどの路地へ入った。
カラカサは突き当たりの数歩前で速度を落とす。その先へは進まず、また別の細道から最初の通りへ戻っていった。
「道を間違えてるんじゃないの?」
テレザが尋ねる。
「迷ってる動きじゃない」
エリシュカは歩きながら図譜を開いた。
腰を曲げた小柄な人影。その手は傘を高く掲げず、柄の上部へ体重を預けている。足元は墨が薄く、片方の脚だけ短く描かれていた。
「曲がる角も、止まる位置も毎回変わらない。道は覚えてる」
「正しい道を歩いて、同じ場所へ戻ってくるのか」
ミラダが言った。
「本人は戻りたいわけじゃなさそうだけどね」
再び路地を出たところで、テレザがしゃがみ込んだ。
「少し止まって」
クラーラも足を止める。すぐにカラカサが震え始めたため、テレザは手早く石畳を指先でなぞった。
カラカサの通る場所だけ、表面が白く削れている。一本脚がついた跡にしては幅が広く、二本の筋が並んでいた。
「傘だけで削れた跡じゃない」
「人も一緒に歩いてたから?」
「左側だけ擦れ方が長い。靴底を引きずってる」
テレザは立ち上がり、カラカサの一本脚へ目を向けた。
跳ねるときには十分な力がある。それでも歩くときだけ、身体を左へ傾けている。
柄の先には小さな鉄の輪がはめられ、片側だけが深く擦り減っていた。
「カラカサの脚が悪いんじゃない」
エリシュカは図譜の人影と見比べる。
「昔の持ち主の歩き方を覚えてる?」
クラーラが尋ねた。
「百年の全部じゃない。最後に一緒に歩いた人の癖だと思う。柄の擦れも、その人が身体を預けてた跡だよ」
「私にも同じ歩き方をしろってこと?」
「試してみて」
「簡単に言うね」
「私には持ち手が回ってこないから」
「代われるなら喜んで譲る」
残念ながら、カラカサはクラーラの手を離そうとしなかった。
クラーラは息をつき、図譜の人物と同じように少し腰を曲げる。左足を短く運び、柄へ身体を預けた。
赤い一つ目が細くなる。
「機嫌がよくなった」
エリシュカが言った。
「それが分かるようになった自分が嫌」
歩調を合わせると、カラカサはクラーラを引かなくなった。むしろ彼女の身体を支えるように傾いている。
一行は先ほどよりもゆっくり進んだ。
クラーラが左足を運ぶたび、カラカサも一本脚を小さく前へ出す。跳ねるというより、杖の先を石畳へつくような動きだった。
「毎日この速さで歩いてたのかな」
テレザが大盾の下から言った。
「何年も繰り返せば、石も削れる」
ミラダは周囲を警戒しながら答える。
道端には、ほかのカラカサたちが並んでいた。大盾から身体を出さない限り襲ってこないが、無数の一つ目が四人の移動を追っている。
テレザは一体のそばを通るとき、その柄を注意深く見た。
「こっちには鉄の輪がない」
「ほかのもだね」
エリシュカも辺りを見回した。
色や大きさは違っても、どの傘にも使い込まれた擦れがない。泥や破れはあるのに、人の手に馴染んだ跡だけが抜け落ちていた。
「赤い一体だけが、道具として使われてた」
「じゃあ、周りにいるのは?」
「どれも、赤い一体の真似をしてるだけかもしれない。少なくとも、帰り道を覚えてるのはあの一体だけ」
やがて、四人は路地の突き当たりへ戻ってきた。
カラカサはいつもの場所で止まった。
クラーラが柄へ体重を預けたまま待つと、板塀の向こうで、先ほどと同じ軋みが響いた。
それでも入口は現れない。
「帰り道なのは間違いない」
エリシュカは図譜を閉じる。
「誰かを探して歩き回ってるんじゃない。持ち主とここまで帰ってきた道を繰り返してる」
「でも、家がない」
クラーラが言った。
「下にあるのかも」
テレザは突き当たりへしゃがみ、石畳を流れる雨水へ目を凝らした。
通りへ降った水は傾斜に沿って排水溝へ集まっていく。ところが、板塀の手前だけ、流れが途中で消えていた。
「古い排水路が埋まってるのかもしれない」
「家の入口じゃなくて?」
エリシュカが尋ねる。
「音が家の戸とは限らない。水路の蓋が動いてる可能性もある」
テレザは荷物から細い金属棒を取り出した。罠の隙間や地面の空洞を探るための道具だった。
水が消える場所へ先端を差し込む。
金属棒は板塀へ当たり、硬い音を立てた。
角度を変え、石畳の継ぎ目へ差し込む。一本目には何もない。二本目も同じだった。
背後で、赤い布が震え始める。
「テレザ、急いで」
クラーラが柄を握り直した。
カラカサは一本脚で石畳を叩き、来た道へ身体を傾けている。クラーラが踏ん張るたび、固まった指がさらに柄へ食い込んだ。
「あと一か所」
テレザが金属棒を深く押し込む。
やはり隙間はなかった。
次の瞬間、カラカサが強く跳ねた。
クラーラの身体が引かれ、テレザの手から金属棒が落ちる。ミラダが二人の間へ盾を差し込んだが、カラカサの進行を止めることはできなかった。
「また一周する気だ」
エリシュカが言う。
「止めたら周りも動く」
雨の中に並ぶ一つ目が、すでにこちらを向いていた。
四人は調査を中断し、同じ角、同じ水路、同じ赤い灯りの前をもう一度歩かされた。
路地へ戻る頃には、クラーラの握った手が小刻みに震えていた。
「指は?」
ミラダが尋ねる。
「感覚が鈍い。次も一周したら、ちゃんと持てるか分からない」
テレザは落とした金属棒を拾い、水が消える場所を見直した。
「排水路じゃない。水が通るなら、あれくらい細い棒は入る」
最初の仮説は外れた。
しかも、試せる回数は多くなかった。
クラーラが右手を上げ、指先に小さな光を作る。
「今度は、触らずに測る」
白い光球が雨の中を進み、板塀の前で止まった。さらに二つを等間隔に浮かべると、中央の光だけが不自然に揺れる。
「ここだけ、返ってくる魔力が遅い」
「どういうこと?」
テレザが聞く。
「光は塀の前にあるように見える。でも、実際にはもっと奥にある」
「見えてる場所と、光がある場所が違う?」
「たぶん。少なくとも、見た目どおりの距離じゃない」
「なら、壁じゃない可能性はある」
ミラダが突き当たりを見た。
水路ではなかった。
だが、水が消える場所と、光の距離がずれる場所は重なっている。カラカサも必ずそこで足を止めていた。
「どうやって入る」
ミラダが尋ねた。
「壊す?」
「本当の壁じゃないなら意味がない。向こうに家があるなら、家まで壊すかもしれない」
エリシュカは赤いカラカサへ目を向けた。
道順も、歩き方も、立ち止まる場所も合っている。それでもカラカサは、音の先へ進もうとしない。
「カラカサは毎回ここで止まる」
エリシュカは見えないはずの入口を見た。
「ここから先へ進んでいたのは、持ち主の方だ」
クラーラも板塀を見る。
「見えない道へ歩けってこと?」
「ほかに試せることが思いつかない」
「安全だと思う?」
「安全だとは思わない」
「正直だな」
ミラダが言った。
テレザは荷物から縄を取り出し、クラーラの腰へ回した。結び目を二度確かめてから、反対側をミラダへ渡す。
ミラダは縄を腕へ巻きつけ、足を開いて構えた。
「壁なら止める。道ならついていく」
「前にも私を引っ張って、傘が暴れたけど」
「今度は傘じゃなく、お前を引く」
「それなら安心」
クラーラは一度だけ深く息を吸った。
左足を短く運び、柄へ身体を預ける。図譜の人物と同じ歩調で、突き当たりへ近づいていった。
あの軋みが、もう一度響く。
いつもの場所で、カラカサが止まった。
クラーラは止まらない。
赤い布の下から、何もないはずの板塀へ足を踏み出す。
「クラーラ」
エリシュカが呼んだ。
「分かってる」
傘の先が塀へ触れた。
雨粒の景色が揺れる。
板塀は水面のように波打ち、その奥へ細い道が現れた。クラーラの身体が境目を越え、赤い傘とともに向こう側へ消えていく。
縄が張るより早く、ミラダは大盾を掲げたままあとを追った。テレザとエリシュカもその下へ入り、三人で境目を越える。
隠された道の先には、小さな家があった。
黒い屋根と白い壁。閉じた格子戸の脇には背の低い腰掛けがあり、その隣に細長い木箱が置かれている。
傘立てだった。
中には三本の古い傘が収まり、一か所だけ空いていた。
カラカサはクラーラを引かない。頭上で布を広げたまま、空いた場所へ一つ目を向けている。
「ここに戻りたかったの?」
クラーラが尋ねた。
一つ目がゆっくりと閉じる。
固まっていた指が動くようになった。
クラーラは柄を離し、両手でカラカサを持ち上げた。一本脚を折り畳み、傘立ての空いた場所へ収める。
赤い布が小さく震え、それきり静かになった。
雨音が消えた。
軒先から落ちていた雫が途切れ、水たまりは石畳へ吸い込まれていく。灰色の雲が薄れ、朝の光が町へ差し込んだ。
家々を覆っていた黒い靄も、雨とともに消えていく。屋根も壁も古いままだが、朽ちた廃墟ではない。長いあいだ人に使われてきた町の古さが、ようやく見えるようになった。
通りにいたカラカサたちは一斉に布を閉じた。
その輪郭が雨水のように崩れ、石畳へ溶けていく。あとに残ったのは、傘立てへ収まった赤い一体だけだった。
「終わった?」
テレザが大盾の下から出る。
エリシュカは空を見上げた。
「雨は止まった。少なくとも、もう襲われないと思う」
「今度は根拠が分かりやすいな」
ミラダが槍を背負い直した。
クラーラは傘立ての前に立ち、赤いカラカサを見ている。
「持ち主は帰ってこなかったんだね」
「少なくとも、この傘が待っていた間には」
探していたのではない。
帰宅を、終えられなかっただけだ。
クラーラは傘立てから動かなかった。
「布も骨も、何度も取り替えたんだよね」
「百年使ったなら、きっと」
エリシュカも赤い傘を見る。
「全部替わっても、同じ傘だったのかな」
クラーラは少し考えた。
「帰る場所は覚えてた」
答えは、それだけだった。
エリシュカは図譜を開く。
カラカサの頁が変わっていた。
一つ目と舌をむき出しにして跳ねていた怪異は、腰の曲がった人物へ寄り添う赤い傘として描かれている。その後ろには小さな家と、一か所だけ空いた傘立てがあった。
墨が薄く読めなかった原文の一部も、今は黒く浮かび上がっている。その下には、以前からマルケータが書き残していた仮訳があった。
これまでは根拠の分からない推測にしか見えなかった一文が、現れた原文とぴたりと重なる。
『百年、雨の日も帰路を共にす』
頁の余白には、さらに別の文字が現れていた。
古い墨ではない。つい先ほど書かれたように、黒く濡れている。
その筆跡を見た瞬間、クラーラが息を止めた。
『第一夜。ここまでは、私と同じ』
クラーラの姉、マルケータの字だった。
右上がりの文字と、最後の線を途中で切る癖。エリシュカにも見覚えがある。
クラーラは図譜を受け取り、何度も文字を確かめた。
「姉さんが書いた」
「筆跡は同じに見える」
「見える、じゃない。姉さんの字だよ」
「いつ書かれたかは分からない」
エリシュカが頁の端へ触れても、濡れているように見える墨は指につかなかった。
三年前の文字なのか、今どこかで書かれたものなのか。それさえ分からない。
少なくとも、マルケータが第一夜を通った痕跡は、ここに残っていた。
クラーラは図譜を閉じ、エリシュカへ返す。
「進もう」
「少し休まなくていいの?」
「三年待った」
朝の光が宿場町の奥まで届く。
家並みの先で、閉ざされていた黒い門がゆっくりと開いた。向こう側から、第一夜とは違う冷たい風が吹き込んでくる。
エリシュカは図譜を外套へしまった。
第一夜は開いた。
百ある夜の、まだ一つ目だった。




