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3/10

第一夜 カラカサ ーー 第三話 帰る場所だけがない

戸の音はしたのに、戸はどこにもなかった。


路地は十歩ほど先で濡れた板塀に突き当たり、入口らしき隙間も、人が出入りした跡も見当たらない。


「誰かいるの?」


テレザが声をかけた。


返事はなかった。


代わりに、クラーラの持つカラカサが一本脚を動かした。また同じ周回へ戻ろうとしている。


「待って」


クラーラが柄を引くと、赤い布が震え、一つ目が大きく開いた。


「止めると暴れる」


エリシュカが言う。


「分かってる。でも、また一周するだけでしょ」


「今度は道を見よう」


「今までは何を見てたの?」


「傘」


「あとで話がある」


クラーラはカラカサに引かれ、再び歩き出した。ミラダも大盾を掲げ直し、エリシュカとテレザを雨から守りながらあとへ続く。


道順は変わらない。


右へ曲がり、閉ざされた二軒の店を通り過ぎる。細い水路に沿って左へ折れ、赤い灯りの前を抜けると、先ほどの路地へ入った。


カラカサは突き当たりの数歩前で速度を落とす。その先へは進まず、また別の細道から最初の通りへ戻っていった。


「道を間違えてるんじゃないの?」


テレザが尋ねる。


「迷ってる動きじゃない」


エリシュカは歩きながら図譜を開いた。


腰を曲げた小柄な人影。その手は傘を高く掲げず、柄の上部へ体重を預けている。足元は墨が薄く、片方の脚だけ短く描かれていた。


「曲がる角も、止まる位置も毎回変わらない。道は覚えてる」


「正しい道を歩いて、同じ場所へ戻ってくるのか」


ミラダが言った。


「本人は戻りたいわけじゃなさそうだけどね」


再び路地を出たところで、テレザがしゃがみ込んだ。


「少し止まって」


クラーラも足を止める。すぐにカラカサが震え始めたため、テレザは手早く石畳を指先でなぞった。


カラカサの通る場所だけ、表面が白く削れている。一本脚がついた跡にしては幅が広く、二本の筋が並んでいた。


「傘だけで削れた跡じゃない」


「人も一緒に歩いてたから?」


「左側だけ擦れ方が長い。靴底を引きずってる」


テレザは立ち上がり、カラカサの一本脚へ目を向けた。


跳ねるときには十分な力がある。それでも歩くときだけ、身体を左へ傾けている。


柄の先には小さな鉄の輪がはめられ、片側だけが深く擦り減っていた。


「カラカサの脚が悪いんじゃない」


エリシュカは図譜の人影と見比べる。


「昔の持ち主の歩き方を覚えてる?」


クラーラが尋ねた。


「百年の全部じゃない。最後に一緒に歩いた人の癖だと思う。柄の擦れも、その人が身体を預けてた跡だよ」


「私にも同じ歩き方をしろってこと?」


「試してみて」


「簡単に言うね」


「私には持ち手が回ってこないから」


「代われるなら喜んで譲る」


残念ながら、カラカサはクラーラの手を離そうとしなかった。


クラーラは息をつき、図譜の人物と同じように少し腰を曲げる。左足を短く運び、柄へ身体を預けた。


赤い一つ目が細くなる。


「機嫌がよくなった」


エリシュカが言った。


「それが分かるようになった自分が嫌」


歩調を合わせると、カラカサはクラーラを引かなくなった。むしろ彼女の身体を支えるように傾いている。


一行は先ほどよりもゆっくり進んだ。


クラーラが左足を運ぶたび、カラカサも一本脚を小さく前へ出す。跳ねるというより、杖の先を石畳へつくような動きだった。


「毎日この速さで歩いてたのかな」


テレザが大盾の下から言った。


「何年も繰り返せば、石も削れる」


ミラダは周囲を警戒しながら答える。


道端には、ほかのカラカサたちが並んでいた。大盾から身体を出さない限り襲ってこないが、無数の一つ目が四人の移動を追っている。


テレザは一体のそばを通るとき、その柄を注意深く見た。


「こっちには鉄の輪がない」


「ほかのもだね」


エリシュカも辺りを見回した。


色や大きさは違っても、どの傘にも使い込まれた擦れがない。泥や破れはあるのに、人の手に馴染んだ跡だけが抜け落ちていた。


「赤い一体だけが、道具として使われてた」


「じゃあ、周りにいるのは?」


「どれも、赤い一体の真似をしてるだけかもしれない。少なくとも、帰り道を覚えてるのはあの一体だけ」


やがて、四人は路地の突き当たりへ戻ってきた。


カラカサはいつもの場所で止まった。


クラーラが柄へ体重を預けたまま待つと、板塀の向こうで、先ほどと同じ軋みが響いた。


それでも入口は現れない。


「帰り道なのは間違いない」


エリシュカは図譜を閉じる。


「誰かを探して歩き回ってるんじゃない。持ち主とここまで帰ってきた道を繰り返してる」


「でも、家がない」


クラーラが言った。


「下にあるのかも」


テレザは突き当たりへしゃがみ、石畳を流れる雨水へ目を凝らした。


通りへ降った水は傾斜に沿って排水溝へ集まっていく。ところが、板塀の手前だけ、流れが途中で消えていた。


「古い排水路が埋まってるのかもしれない」


「家の入口じゃなくて?」


エリシュカが尋ねる。


「音が家の戸とは限らない。水路の蓋が動いてる可能性もある」


テレザは荷物から細い金属棒を取り出した。罠の隙間や地面の空洞を探るための道具だった。


水が消える場所へ先端を差し込む。


金属棒は板塀へ当たり、硬い音を立てた。


角度を変え、石畳の継ぎ目へ差し込む。一本目には何もない。二本目も同じだった。


背後で、赤い布が震え始める。


「テレザ、急いで」


クラーラが柄を握り直した。


カラカサは一本脚で石畳を叩き、来た道へ身体を傾けている。クラーラが踏ん張るたび、固まった指がさらに柄へ食い込んだ。


「あと一か所」


テレザが金属棒を深く押し込む。


やはり隙間はなかった。


次の瞬間、カラカサが強く跳ねた。


クラーラの身体が引かれ、テレザの手から金属棒が落ちる。ミラダが二人の間へ盾を差し込んだが、カラカサの進行を止めることはできなかった。


「また一周する気だ」


エリシュカが言う。


「止めたら周りも動く」


雨の中に並ぶ一つ目が、すでにこちらを向いていた。


四人は調査を中断し、同じ角、同じ水路、同じ赤い灯りの前をもう一度歩かされた。


路地へ戻る頃には、クラーラの握った手が小刻みに震えていた。


「指は?」


ミラダが尋ねる。


「感覚が鈍い。次も一周したら、ちゃんと持てるか分からない」


テレザは落とした金属棒を拾い、水が消える場所を見直した。


「排水路じゃない。水が通るなら、あれくらい細い棒は入る」


最初の仮説は外れた。


しかも、試せる回数は多くなかった。


クラーラが右手を上げ、指先に小さな光を作る。


「今度は、触らずに測る」


白い光球が雨の中を進み、板塀の前で止まった。さらに二つを等間隔に浮かべると、中央の光だけが不自然に揺れる。


「ここだけ、返ってくる魔力が遅い」


「どういうこと?」


テレザが聞く。


「光は塀の前にあるように見える。でも、実際にはもっと奥にある」


「見えてる場所と、光がある場所が違う?」


「たぶん。少なくとも、見た目どおりの距離じゃない」


「なら、壁じゃない可能性はある」


ミラダが突き当たりを見た。


水路ではなかった。


だが、水が消える場所と、光の距離がずれる場所は重なっている。カラカサも必ずそこで足を止めていた。


「どうやって入る」


ミラダが尋ねた。


「壊す?」


「本当の壁じゃないなら意味がない。向こうに家があるなら、家まで壊すかもしれない」


エリシュカは赤いカラカサへ目を向けた。


道順も、歩き方も、立ち止まる場所も合っている。それでもカラカサは、音の先へ進もうとしない。


「カラカサは毎回ここで止まる」


エリシュカは見えないはずの入口を見た。


「ここから先へ進んでいたのは、持ち主の方だ」


クラーラも板塀を見る。


「見えない道へ歩けってこと?」


「ほかに試せることが思いつかない」


「安全だと思う?」


「安全だとは思わない」


「正直だな」


ミラダが言った。


テレザは荷物から縄を取り出し、クラーラの腰へ回した。結び目を二度確かめてから、反対側をミラダへ渡す。


ミラダは縄を腕へ巻きつけ、足を開いて構えた。


「壁なら止める。道ならついていく」


「前にも私を引っ張って、傘が暴れたけど」


「今度は傘じゃなく、お前を引く」


「それなら安心」


クラーラは一度だけ深く息を吸った。


左足を短く運び、柄へ身体を預ける。図譜の人物と同じ歩調で、突き当たりへ近づいていった。


あの軋みが、もう一度響く。


いつもの場所で、カラカサが止まった。


クラーラは止まらない。


赤い布の下から、何もないはずの板塀へ足を踏み出す。


「クラーラ」


エリシュカが呼んだ。


「分かってる」


傘の先が塀へ触れた。


雨粒の景色が揺れる。


板塀は水面のように波打ち、その奥へ細い道が現れた。クラーラの身体が境目を越え、赤い傘とともに向こう側へ消えていく。


縄が張るより早く、ミラダは大盾を掲げたままあとを追った。テレザとエリシュカもその下へ入り、三人で境目を越える。


隠された道の先には、小さな家があった。


黒い屋根と白い壁。閉じた格子戸の脇には背の低い腰掛けがあり、その隣に細長い木箱が置かれている。


傘立てだった。


中には三本の古い傘が収まり、一か所だけ空いていた。


カラカサはクラーラを引かない。頭上で布を広げたまま、空いた場所へ一つ目を向けている。


「ここに戻りたかったの?」


クラーラが尋ねた。


一つ目がゆっくりと閉じる。


固まっていた指が動くようになった。


クラーラは柄を離し、両手でカラカサを持ち上げた。一本脚を折り畳み、傘立ての空いた場所へ収める。


赤い布が小さく震え、それきり静かになった。


雨音が消えた。


軒先から落ちていた雫が途切れ、水たまりは石畳へ吸い込まれていく。灰色の雲が薄れ、朝の光が町へ差し込んだ。


家々を覆っていた黒い靄も、雨とともに消えていく。屋根も壁も古いままだが、朽ちた廃墟ではない。長いあいだ人に使われてきた町の古さが、ようやく見えるようになった。


通りにいたカラカサたちは一斉に布を閉じた。


その輪郭が雨水のように崩れ、石畳へ溶けていく。あとに残ったのは、傘立てへ収まった赤い一体だけだった。


「終わった?」


テレザが大盾の下から出る。


エリシュカは空を見上げた。


「雨は止まった。少なくとも、もう襲われないと思う」


「今度は根拠が分かりやすいな」


ミラダが槍を背負い直した。


クラーラは傘立ての前に立ち、赤いカラカサを見ている。


「持ち主は帰ってこなかったんだね」


「少なくとも、この傘が待っていた間には」


探していたのではない。


帰宅を、終えられなかっただけだ。


クラーラは傘立てから動かなかった。


「布も骨も、何度も取り替えたんだよね」


「百年使ったなら、きっと」


エリシュカも赤い傘を見る。


「全部替わっても、同じ傘だったのかな」


クラーラは少し考えた。


「帰る場所は覚えてた」


答えは、それだけだった。


エリシュカは図譜を開く。


カラカサの頁が変わっていた。


一つ目と舌をむき出しにして跳ねていた怪異は、腰の曲がった人物へ寄り添う赤い傘として描かれている。その後ろには小さな家と、一か所だけ空いた傘立てがあった。


墨が薄く読めなかった原文の一部も、今は黒く浮かび上がっている。その下には、以前からマルケータが書き残していた仮訳があった。


これまでは根拠の分からない推測にしか見えなかった一文が、現れた原文とぴたりと重なる。


『百年、雨の日も帰路を共にす』


頁の余白には、さらに別の文字が現れていた。


古い墨ではない。つい先ほど書かれたように、黒く濡れている。


その筆跡を見た瞬間、クラーラが息を止めた。


『第一夜。ここまでは、私と同じ』


クラーラの姉、マルケータの字だった。


右上がりの文字と、最後の線を途中で切る癖。エリシュカにも見覚えがある。


クラーラは図譜を受け取り、何度も文字を確かめた。


「姉さんが書いた」


「筆跡は同じに見える」


「見える、じゃない。姉さんの字だよ」


「いつ書かれたかは分からない」


エリシュカが頁の端へ触れても、濡れているように見える墨は指につかなかった。


三年前の文字なのか、今どこかで書かれたものなのか。それさえ分からない。


少なくとも、マルケータが第一夜を通った痕跡は、ここに残っていた。


クラーラは図譜を閉じ、エリシュカへ返す。


「進もう」


「少し休まなくていいの?」


「三年待った」


朝の光が宿場町の奥まで届く。


家並みの先で、閉ざされていた黒い門がゆっくりと開いた。向こう側から、第一夜とは違う冷たい風が吹き込んでくる。


エリシュカは図譜を外套へしまった。


第一夜は開いた。


百ある夜の、まだ一つ目だった。

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