第一夜 カラカサ ーー 第二話 持ち手を離さない
そのどれもが、テレザだけを見なかった。
雨の通りに並んだカラカサたちは、エリシュカ、クラーラ、ミラダの三人を見比べている。
少し前まで四人の中で最も濡れていたテレザは、怪異に覆われた部分だけが乾いていた。そのせいなのか、傘の群れは彼女へ興味を失ったらしい。
「下がるぞ」
ミラダが大盾を構え、石畳へ落とした槍を拾う。
最も近い赤いカラカサが一本脚で跳ねた。それを合図にしたように、後ろの傘も水たまりを蹴り始める。
「私だけ来ない」
テレザが言った。
「寂しい?」
「今は全然」
「右の軒下へ走れ!」
ミラダが盾を押し出し、先頭の一体を弾き飛ばした。
クラーラの指先から横風が走る。広げた布へまともに風を受け、数体のカラカサが折り重なるように石畳へ転がった。
その隙にテレザが右手の建物へ駆ける。格子戸は閉ざされていたものの、軒は深く、雨を避けるには十分だった。
「こっち。四人入れる」
エリシュカとクラーラが続き、最後にミラダが軒下へ飛び込む。盾へぶつかった一体が勢い余って転がってきたため、エリシュカは反射的に身構えた。
ところが、カラカサは襲ってこない。
一本脚で起き上がると、軒の手前で止まった。後ろから来た群れも次々に速度を落とし、雨の中へ並んでいく。
先頭の一体が軒下へ脚を入れかけたが、すぐに引っ込めた。
「入れないのか?」
ミラダが盾を下ろさずに尋ねる。
「見えない壁はない」
クラーラが指先へ小さな光を作り、軒の外と内を往復させた。光球は何にも遮られず、雨の中を漂っている。
「入れないんじゃなくて、入ってこないのかも」
エリシュカが一歩前へ出ると、クラーラに外套の襟を引かれた。
「何をする気?」
「軒の外へ出る」
「試す対象を自分に限定しないで」
「一番早いよ」
「失敗したときも一番早く死ぬ」
襟を放してもらえないので、エリシュカは元の位置へ戻った。
代わりにテレザが荷物を探り、繕い物に使う古布を取り出す。乾いていることを確かめてから、丸めて石畳へ投げた。
カラカサたちは動かない。
雨を吸い、布の色が濃くなり始める。
一番近い赤い傘がそちらへ向き直った。続いてもう一体が跳ね、濡れた布の上へ身体を広げる。
他の個体も集まり、布を隠すように重なっていった。
「食べてる?」
テレザが尋ねる。
布を裂く音も、噛むような動きもない。
「そうは見えない」
ミラダが答えた。
次にクラーラが小瓶から水を浮かべ、球の形に整えて雨の中へ送り出す。
いくつかの一つ目が動きを追ったものの、跳びつく個体はいない。水球が石畳へ落ちても反応は変わらなかった。
「水だけじゃ駄目」
クラーラが言う。
「濡れたものだけを覆ってる」
エリシュカは布の上へ集まったカラカサと、その姿を見比べた。
一本脚。長い柄。円形に広がる布。
用途を知らなくても、していることは分かる。
「食べようとしてるんじゃない」
ミラダが振り返った。
「なら何をしてる」
「雨に当たらないようにしてる」
三人の視線がテレザへ集まる。
頭巾と金髪は、今も乾いたままだ。
「私を?」
「たぶん」
「もう少し息のできる方法で守ってほしかった」
「道具に加減を求めるのは難しいかもね」
「人を殺したら、守れたことにならない」
クラーラが言った。
雨の中では、濡れた布を覆ったカラカサが満足そうに目を細めている。
「性質が分かったなら、通れるか?」
ミラダが尋ねた。
「濡れなければ襲われないはず」
「全員で盾の下へ入るのは無理だぞ」
「一体を使う」
エリシュカが言うと、三人の顔がこちらを向いた。
「どう使う?」
「傘として」
ミラダは雨の中に並ぶ怪異を見た。
「その傘にテレザが殺されかけたばかりだぞ」
「差されるのと、差すのは違うかもしれない」
「違わなかったら?」
クラーラに問われ、エリシュカは少し考える。
「すぐ助けて」
「最初から助けが必要な方法を提案しないで」
「でも試す価値はある」
エリシュカは図譜を開き直した。
カラカサの頁には、名前と姿以外ほとんど情報がない。ただ、裏側へ貼りつけられた別紙に、後世の研究者による短い注釈が残っていた。
『百年、大切に用いられた器物には、精の宿ることあり』
その下に、分類らしき言葉が添えられている。
「付喪神」
エリシュカが読み上げた。
「それも名前?」
テレザが図譜を覗く。
「種類に近いと思う。長く使われた道具に精霊が宿ったもの」
「捨てられた道具じゃないの?」
「違う。大切に使われた道具」
ミラダが赤いカラカサを見る。
「百年も同じ傘を使うのか?」
「修理しながらなら」
「布を張り替えて、骨も直す?」
「そうなるね」
「全部取り替えたら、同じ傘なのか?」
エリシュカは答えかけて、口を閉じた。
「今考えると長くなる」
「珍しい判断だな」
クラーラが言う。
「これが付喪神なら、昔の役目を続けてるってこと?」
「たぶん。雨に濡れたものを見たら、覆わずにいられない」
「持ち主がいなくても?」
「百年続けたことを、急にはやめられないのかも」
クラーラは雨の中にいる赤い一体を見た。
「私が試す」
「私が言い出したんだけど」
「図譜を持ってる人が覆われたら困る」
「渡せばいいよ」
「あなたは近くで見たくなると、周りの声を聞かない」
「聞いてる」
「聞いた上で無視する」
反論しづらかった。
クラーラは自分の左肩へ小瓶の水を流した。外套の一部が濃く染まると、軒先にいた赤いカラカサが目を見開く。
一本脚で跳ね、クラーラへ近づいてきた。
ミラダがすぐ横で槍を構える。
「危ないと思ったら引き戻す」
「布は傷つけないで」
エリシュカが頼んだ。
「クラーラとどっちが大事なんだ」
「質問の形がずるい」
カラカサは軒の前まで来ると、赤い布を大きく広げた。
クラーラが手を伸ばし、長い柄をつかむ。
一つ目が細められた。
暴れる様子はなく、カラカサは濡れた左肩を覆うように、クラーラの頭上へ移動する。
「使える」
テレザが感心したように言った。
クラーラは軒の外へ一歩進む。赤い布が雨を受け止め、髪にも肩にも一滴も落ちてこない。
周囲にいたカラカサたちは、興味を失ったように目を逸らした。
「普通の傘だ」
ミラダが言う。
「目と脚がなければね」
エリシュカも外へ出ようとして、クラーラに止められた。
「まだ」
「少し近くで見たいだけ」
「少しが長い」
クラーラは柄を持ったまま軒下へ戻ろうとした。
戻れなかった。
右足は後ろへ下がったのに、柄を握る左腕だけが通りの奥へ引かれている。
「何?」
手を開こうとしても、指が離れない。
革手袋と木の柄が接着しているわけではない。反対の手で指を剝がそうとしても、握った形のまま固まっていた。
カラカサが一本脚を石畳へ下ろす。
ぱしゃり。
通りの奥へ一歩進み、クラーラの身体も引かれた。
「止めろ!」
ミラダが背後からクラーラの腰を抱える。テレザも外套をつかみ、二人で軒下へ引き戻そうとした。
それでもカラカサは倒れない。細い一本脚だけで二人分の力に耐えている。
一つ目が大きく開き、赤い布が震えた。周囲のカラカサたちも一斉にこちらを向く。
「いったん手を放して」
エリシュカが言った。
「放れない!」
「ミラダとテレザが」
二人がクラーラから離れると、赤い布の震えは収まった。カラカサは再び一歩進み、クラーラを雨の中へ引いていく。
「歩調を合わせて」
「どこへ行くか分からない」
「止めると暴れる。進むと静かになる」
「それを先に確かめるのがあなたの仕事じゃないの?」
「今、確かめた」
「あとで話がある」
クラーラはカラカサに引かれ、通りを歩き始めた。
ミラダは残る三人を大盾の下へ入れ、そのままクラーラのあとを追う。盾からはみ出さなければ、道の両側に並ぶカラカサも動かなかった。
赤い傘は速くない。むしろ、奇妙なほどゆっくりだった。
一本脚をわずかに引きずり、クラーラが歩調を落とすのを待つように進んでいく。最初の角を右へ曲がり、閉ざされた店を二軒通り過ぎると、細い水路に沿って左へ折れた。
その先で、道幅が急に狭くなった。
両側から張り出した軒と木箱のせいで、大盾を横へ広げられない。ミラダは盾を縦に立て、三人を一列に並ばせる。
「肩を出すな」
「出してない」
エリシュカが答えた直後、崩れかけた木箱へ外套が引っかかった。
身体が半歩だけ盾の外へ出る。
冷たい雨が右肩へ落ちた。
道端に伏せていた紺色のカラカサが、目を開く。
「エリシュカ!」
一本脚が水たまりを蹴った。
エリシュカが身を引こうとしても、外套の裾が木箱に絡んで動けない。ミラダは盾を回そうとしたが、狭い道では壁へつかえる。
テレザが荷物から別の古布を引き抜いた。
盾の縁から雨へ出し、ひと振りで濡らす。
「こっち」
布を反対側の軒下へ投げた。
紺色のカラカサは空中で向きを変え、濡れた布へ覆いかぶさる。
「今」
ミラダが木箱を蹴り壊し、エリシュカを盾の内側へ引き戻した。
後ろにいた二体も濡れた布へ集まり、互いの上へ重なるように布を広げている。
「本当に濡れたものが優先なんだ」
エリシュカが肩の雨粒を払った。
「感心してないで歩いて」
テレザが言った。
「布は?」
エリシュカが、カラカサに覆われた古布を振り返る。
「あとで安全なら拾う」
「安全じゃなかったら?」
「布より私たちの方が高い」
ミラダが盾を狭い道から抜き、再び頭上へ掲げる。
「次は外套を引っかけるな」
「わざとじゃない」
「わざとなら置いていく」
雨の町に人影はなく、扉も窓もすべて閉じている。
それでもカラカサは道を知っていた。
分かれ道で迷うことも、周囲を確かめることもない。決まった角を曲がり、赤い灯りの前を抜け、細い路地へ入っていく。
路地は十歩ほど先で、濡れた板塀に突き当たっていた。
カラカサはその数歩前で足を止める。
しばらく待っても何も起きない。やがて向きを変えると、別の細道を通り、最初の赤い灯りの前へ戻った。
「一周してる」
クラーラが柄を握ったまま言った。
「迷ってるようには見えない」
エリシュカは石畳へ目を凝らした。
カラカサが進む場所だけ、表面がわずかに白く削れている。一本脚がついた跡にしては幅が広く、長い年月をかけて何かが歩いた道のようだった。
二度目も同じ角を曲がり、同じ路地へ入る。
突き当たりの数歩前で、カラカサが止まった。
柄がわずかに傾いている。
クラーラを支えるというより、彼女の身体へ寄りかかっていた。
「柄を見せて」
エリシュカが大盾の下から身を乗り出す。
「今?」
「今しか見られない」
「盾から出るな」
ミラダに外套をつかまれたため、エリシュカは首だけを伸ばした。
木製の柄には、指の跡とは違う長い擦れがある。持ち手の上部だけが滑らかに削れ、片側へ偏っていた。
テレザも目を細める。
「誰かが体重をかけてた」
「傘に?」
「杖みたいに使ってたんじゃないかな。ずっと同じ側へ寄りかかってる」
カラカサはしばらく止まったあと、再び同じ周回へ戻ろうとした。
そのとき、板塀の向こうから何かが軋んだ。
誰かが入口を開けたような音だった。
エリシュカは大盾の下で図譜を開く。
カラカサの絵ばかりを見ていたが、その背後には薄い人影が描かれている。腰を曲げ、傘の柄へ身体を預けた、小柄な人物だった。
カラカサと線が重なっているため、ただの墨の汚れにも見える。
頁の下には、クラーラの姉が残した短い書き込みがあった。
右上がりの文字は、マルケータのものだ。
『同じ角を、三度』
そのすぐ下には、
『止まる位置も同じ』
とある。
それだけだった。
「姉さんも一周したの?」
クラーラが尋ねる。
「少なくとも三回。同じ場所で止まることにも気づいてた」
「意味は?」
「書いてない」
マルケータもここまで来た。
だが、この道が何なのか、カラカサが何を繰り返しているのかは残されていない。
エリシュカが顔を上げたとき、カラカサが再び足を止めた。
二度目の周回でも足を止めた、路地の突き当たりの手前だった。
板塀の向こうで、また何かが軋んだ。




