第一夜 カラカサ ーー 第一話 雨の中の一つ目傘
門をくぐると、雨の中で傘と目が合った。
正確には、赤い傘の真ん中に開いた、大きな一つ目と。
それは通りの奥に立ち、一本しかない脚で器用に身体を支えていた。細い骨に張られた布を雨粒が叩いているのに、目だけは瞬きもせず、じっとエリシュカたちへ向けられている。
「何、あれ」
金髪のテレザが頭巾を引き上げた。細く編んだ髪は、門をくぐってまだ十歩も歩いていないのに、もう頬へ張りついている。
「知らない」
エリシュカは答えた。
「なんで嬉しそうなんだ」
大盾を持つミラダが先頭へ出て、槍を構える。赤い傘はその場から動かなかった。
「初めて見るものだから」
「初めて見るものは、だいたい危ない」
焦げ跡の残る手袋をしたクラーラが、指を動かす。
「危なくなかったら、誰かが先に調べてるよ」
「姉さんも同じことを言った」
クラーラの視線は一つ目を越え、誰もいない通りの奥へ向いていた。
三年前、その姉はこの門を通り、百鬼夜境から帰らなかった。
残されたのは、探索へ持ち込んだはずの図譜だけだ。
エリシュカはその本を外套の内側から取り出した。
「動く前に調べる」
「もう見てるぞ」
ミラダが言うと、赤い傘の一つ目がゆっくりと細められた。
石造りの門の向こうには、雨に沈んだ町が広がっている。黒い屋根は両端が薄く反り、建物の正面には白い紙を張った格子戸が並んでいた。軒先から吊るされた赤い灯りだけが、風もないのにかすかに揺れている。
大陸のどの町にも似ていない。
エリシュカにとって、それはだいたい良い知らせだった。ただし、一つ目の傘がこちらを見ていなければ、さらに良かった。
「盾の下へ入れ」
ミラダは怪異を警戒したまま、大盾を斜めに掲げた。四人がその下へ身を寄せると、どうにか雨を避けられる。ただし、盾を支えるミラダの左肩だけは外へ出ていた。
「私は濡れてる」
「盾が三人用なんだ」
テレザが答える。
「作ったやつに言ってくれ」
四人で組んだ最初の探索で、真っ先に判明したのは盾の定員だった。エリシュカは記録しておくべきか一瞬迷ったが、さすがにやめる。
「図譜は?」
クラーラが尋ねた。
「今探してる」
「雨に濡らさないで」
「分かってる」
「前に自分の調査帳を濡らしたでしょ」
「あれは雨じゃなくて、お茶」
「紙にとっては同じ」
エリシュカはミラダの盾へ背中を預け、図譜の頁をめくった。
その図譜は、クラーラの姉、マルケータが肌身離さず持っていたはずのものだ。本人だけが百鬼夜境から消え、なぜか本は町の自室へ戻っていた。
誰が持ち帰ったのか。どうして探索者組合へ提出されず、机の引き出しに収まっていたのか。三年経った今も答えはない。
図譜には、見慣れない獣や人影、道具らしきものが並んでいる。絵のそばには古い文字が添えられ、その外側を後世の研究者による注釈が埋めていた。
読める文字は多い。意味まで分かるとは限らない。
「これだ」
数頁めくったところで、エリシュカの手が止まる。
色褪せた紙に描かれていたのは、目の前の怪異とよく似た一本脚の傘だった。ただし、絵の方は一つ目の下から長い舌を垂らしている。
頁の上には、解読者たちが推定した読みが記されていた。
「カラカサ」
「それが名前か?」
ミラダは怪異から目を離さない。
「たぶん」
「何をするものだ」
エリシュカは原文の横に添えられた訳文を追った。墨の薄れた箇所が多く、読める部分にも疑問符が並んでいる。
「分からない」
「名前しか書いてないの?」
テレザが肩越しに図譜を覗き込む。
「絵もある」
「舌もあるね」
「目も脚もある」
「それは見れば分かる」
クラーラが言った。
通りの奥で、カラカサが一本脚を上げる。
誰も動かなかった。
数秒ほどその姿勢を保ったあと、脚を石畳へ下ろす。ぱしゃりと水が跳ねた。
もう一度。
次は少し大きく跳び、三度目には明らかに距離を縮めてきた。
「来るぞ」
ミラダが盾を頭上から下ろし、正面へ構え直す。槍の穂先が、その横から赤い一つ目を狙った。
カラカサは止まらない。跳ねるたびに一本脚が伸び縮みし、見た目からは想像できない速さで迫ってくる。
エリシュカは図譜を閉じ、外套の内側へ押し込んだ。
「殺すなよ」
「初対面の怪物にも同じことを言うんだな」
「死んだら分からないことが増える」
「生きてても増えてるだろ」
突き出された槍が赤い布を捉える寸前、カラカサは空中で身をひねった。穂先を骨の一本で受け流し、その勢いのまま盾へぶつかってくる。
鈍い音が通りへ響き、ミラダの身体が半歩下がった。
「重い」
「傘なのに?」
テレザが聞く。
「傘だから軽いと思う理由は?」
「持ち歩くものなら軽い方がいい」
「これを持ち歩くのか?」
話している間にも、カラカサは盾へ何度も身体をぶつけてきた。牙も爪も使わず、布全体を押しつけて盾の上へ覆いかぶさろうとしている。
ミラダが槍の柄で横から払うと、一つ目の傘は石畳へ転がった。二度ほど跳ねて水たまりへ沈み、布を広げたまま静かになる。
「倒した?」
テレザが盾の横から覗いた。
「まだ出るな」
ミラダは槍を構えたまま、ゆっくりと距離を詰める。
倒れたカラカサの一つ目は閉じていた。布には槍がかすった裂け目があるものの、血のようなものは流れていない。
エリシュカもあとへ続こうとした。
「来るな」
「近くで見ないと分からない」
「動かないと分かってから見ろ」
「それだと、動いてるときのことが分からない」
「今日は我慢しろ」
反論できず、エリシュカは口を閉じた。代わりに半歩だけ前へ出たところで、クラーラに外套の裾をつかまれる。
「元の場所へ戻って」
「半歩しか動いてない」
「その半歩を戻して」
エリシュカが足を引くと、クラーラは指先に小さな光球を作った。白い光が雨の中へ浮かび、倒れたカラカサの周囲をゆっくりと巡る。
「魔力の反応は?」
「ほとんどない」
「動いてたのに?」
「だから変なんだろ」
光球が傘の下へ潜り込んだ。
閉じていた一つ目が開く。
「下がれ!」
ミラダの声と同時に、カラカサが跳ね上がった。
今度は盾へ向かわない。大きく弧を描いてミラダの頭上を越え、その後ろへ飛び込んでくる。
狙われたのはテレザだった。
盾の最後尾にいた彼女は、四人の中で最も濡れている。ずれた頭巾から金髪がこぼれ、外套の肩口まで色を変えていた。
「そっちへ行った!」
エリシュカが叫ぶ。
テレザも腰の短刀を抜いたが、振り向いたときには赤い布が目の前まで迫っていた。
カラカサが大きく開く。
一つ目が布の内側へ隠れ、暗い影がテレザの視界を覆った。
「うわっ――」
声が途中でこもる。
カラカサはテレザの頭から覆いかぶさり、一本脚を胴へ絡めて石畳へ押し倒した。
ミラダが駆け寄る。槍を使えばテレザまで傷つけかねないため、武器を捨て、カラカサの柄を両手でつかんだ。
力任せに引いても、動かない。
赤い布の下でテレザの足が石畳を蹴った。身体をよじりながら何かを叫んでいるものの、くぐもって聞き取れない。
「息ができてない!」
クラーラが柄の根元へ手を当てる。淡い光が薄い膜となり、カラカサとテレザの間へ割り込んだ。
膜は布をわずかに押し上げたが、上から力をかけられると、すぐに細いひびが走る。
「魔法が保たない」
「あと何秒?」
ミラダは柄を引いたまま尋ねた。
「分からない!」
「なら今割れ!」
クラーラが歯を食いしばり、光の膜を内側から破裂させる。赤い布が一瞬だけ浮き、ミラダはその隙を逃さず、柄を肩へ担ぐように持ち上げた。
一本脚がテレザの胴から外れる。
エリシュカも飛びつき、濡れた布の端をつかんだ。触れた感触は普通の布に近いのに、内側から押し返してくる力は人間よりも強い。
「こいつ、思ったより――」
「感想はあと!」
クラーラに叱られ、エリシュカも両足を踏ん張る。
三人がかりでカラカサを引き剥がすと、ミラダはテレザの襟をつかみ、大盾の下まで引きずった。
テレザはその場で横向きになり、激しく咳き込む。
「生きてる?」
エリシュカが背中へ手を添えた。
「今のところは」
声はかすれていたが、いつもの返事だった。
ミラダはカラカサを路上へ放り投げた。赤い傘は何度か転がり、一本脚を折り畳んだまま動きを止める。
クラーラがすぐにテレザの呼吸と脈を確かめた。
「どこか噛まれた?」
「たぶん、噛む場所がない」
「締めつけられた?」
「抱きつかれた感じ。かなり迷惑な抱擁だったけど」
冗談を言えるなら、ひとまず命に別状はなさそうだった。
エリシュカは息をつき、テレザの肩へ触れた。
その手が止まる。
「テレザ」
「何?」
「濡れてない」
テレザが自分の袖を見下ろした。
石畳へついた掌と、泥を吸った裾は濡れている。だが、カラカサに覆われていた頭巾も、金髪も、外套の肩から胸元までもが乾いていた。
少し前まで、四人の中で最も雨に濡れていたはずなのに。
ミラダとクラーラも言葉を失う。
降り続ける雨は、三人の髪や外套から絶えず滴っている。怪異に襲われ、石畳へ押し倒されたテレザだけが、雨に打たれた跡をほとんど残していない。
通りの奥から、ぱしゃりと水を踏む音が聞こえた。
一つではない。
左右の軒下、閉ざされた店先、倒れた荷車の陰。町のあちこちに転がっていた赤や紺や黄色の傘が、ゆっくりと布を広げていく。
雨の中で、無数の目が開いた。




