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君が春を忘れても、僕は君を好きでいる  作者: 玉響すばる


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第9話 昨日の恋人

 恋人になってからの数日は。

 不思議なくらい穏やかだった。


 毎日、会えた。

 毎日、名前を言った。

 毎日、好きだと伝えた。


 それだけで、十分だった。


 放課後に喫茶店へ寄る日もあった。

 図書室で並んで本を読む日もあった。

 駅前の花屋を少しだけ覗いて帰る日もあった。


 春乃は、前よりよく笑った。


「恋人って、もっと難しいものかと思ってた」

「難しいだろ」

「そうかな」

「朝比奈さん、結構いろいろ考えてるし」

「それはそうだけど」

「十分難しい」

「でも、榊くんといると、少しだけ簡単になる」

「……」

「そういう顔する」

「どんな」

「嬉しいの隠せてない顔」

「隠してない」

「じゃあ堂々としてるだけか」

「そうだな」


 そんなふうに。

 少しだけ甘くて。

 少しだけ照れて。

 でも、ちゃんと幸せな時間が続いていた。


 だからこそ。

 その日も、最初はただのいつも通りだった。


 八月の終わり。

 午後。

 待ち合わせは駅前の書店だった。


 恒一が先に着く。

 十分ほどして、春乃が見えた。


 白いブラウス。

 薄いベージュのスカート。

 いつもの小さな手帳を持っている。


 恒一は少しだけ安心する。

 いつもの春乃だと思った。


「榊恒一です。

 君が好きです」


 いつものように言う。


 春乃は足を止めた。


 一秒。

 二秒。


 その顔に、恒一は見覚えのある空白を見た。


「……あ」

 春乃が小さく息を呑む。

「ごめん」


 すぐに手帳を開く。

 何かを確かめる。

 そして、はっとしたように顔を上げた。


「朝比奈春乃です。

 覚えていたいです」


 言葉は返ってきた。

 でも、いつもと少し違った。


 ぎこちない。

 確認してから言っている感じが、はっきり分かった。


「大丈夫か」

「うん。

 ……うん、大丈夫」

「無理するな」

「してないよ」


 春乃は笑った。

 でも、その笑顔の奥に動揺が残っていた。


 二人で書店に入る。

 涼しい空気。

 静かな店内。

 文庫本の棚。


 春乃は本を手に取る。

 裏表紙を見る。

 元に戻す。

 また別の一冊を取る。


 その動きはいつも通りなのに。

 どこか、上滑りしていた。


「何か読む?」

 恒一が聞く。


「うん。

 ……あ、でも」

「でも?」

「榊くん、って」

「ん?」

「どんな本、好きだっけ」


 その問いに。

 恒一はすぐには返せなかった。


 好きな本の話は、もう何度もしていた。

 春乃はそれを知っていたはずだった。


「静かな話が多い」

 恒一はできるだけ普通に答える。

「あと、短編集も好き」

「そっか」

「前にも話したけど」

「……うん。

 ごめん。

 ちょっと混ざってる」


 春乃は本を棚に戻した。

 その指先が少しだけ震えていた。


「喫茶店、行く?」

 恒一が言う。

「座れる場所のほうがいいかも」

「うん。

 そうする」


 店を出て。

 いつもの喫茶店へ向かう。


 歩きながら。

 春乃は珍しく、あまり話さなかった。


 喫茶店に入って。

 窓際の席に座る。


 春乃は紅茶を頼んだ。

 恒一はアイスコーヒー。


 注文を終えると。

 春乃は手帳を開いた。


 ページをめくる。

 その手つきに迷いはない。

 慣れすぎていて、痛かった。


「朝比奈さん」

「うん」

「見なくてもいい」

「見る」

「……」

「ごめんね。

 でも、今は見たほうがいい」


 春乃はそう言って。

 小さく深呼吸した。


「今日ね」

「うん」

「家を出る前から、少し変だったの」

「変」

「昨日のことと、一昨日のことが、ちょっと混ざってて」

「……」

「待ち合わせも、どっちだったっけってなって」

「うん」

「手帳見たら分かったんだけど」

「そっか」

「それで来た」


 紅茶が運ばれてくる。

 湯気が立つ。

 それなのに、二人のあいだの空気は少し冷えていた。


「榊くん」

「ん」

「私、今ね」

「うん」

「分かってるよ。

 恋人だって」

「……うん」

「手帳にも書いてあるし」

「手帳にも、か」

「うん」


 春乃は、少しだけ困ったように笑った。


「でも」

「……」

「実感が、遅い」


 恒一の喉が詰まる。


「目の前に榊くんがいて」

「うん」

「優しいのも分かる」

「うん」

「大事な人だってことも、たぶん分かる」

「……」

「でも、恋人っていう感じが、少し遅れてくる」


 それはつまり。

 認識はしても、感情が追いつかないということだった。


「ごめん」

 春乃が言う。

「謝るな」

「でも」

「謝るな」

「……うん」


 春乃は手帳を閉じた。

 そして、机の上に置く。


「これ、読んでいい?」

「何を」

「今日の朝、書いたところ」


 恒一は黙って頷いた。


 春乃はページを見たまま、ゆっくり読んだ。


「今日は榊くんと会う。

 駅前の書店。

 そのあと喫茶店。

 榊くんは恋人。

 静かで優しい。

 名前を言ってくれると戻りやすい」


 そこで春乃の声が止まる。


「あと」

「……うん」

「好きな人」


 その一言だけが、少し掠れた。


「書いてある」

「うん」

「ちゃんと、私が書いた」

「うん」

「だから、ほんとは好きなんだと思う」

「……」

「でも、今の私は、その好きにちゃんと触れない」


 恒一は、テーブルの下で拳を握った。


 分かっていたことだ。

 いつか来ると知っていた。

 それでも、実際に言葉になると、こんなにも苦しいとは思わなかった。


「榊くん」

「ん」

「怖い?」

「怖い」

「そっか」

「朝比奈さんは」

「すごく」


 春乃は笑わなかった。

 その代わり、まっすぐ恒一を見た。


「私ね」

「うん」

「知らない人に優しくされるみたいで、少し苦しい」

「……」


 その一言で。

 恒一の胸の奥が、音を立ててひび割れた気がした。


 知らない人。

 そう言いたいわけじゃないのは分かる。

 分かるのに、痛かった。


「ごめん」

 春乃がすぐに言う。

「違うの。

 違うんだけど」

「うん」

「感覚が、そうなる瞬間があるの」

「……うん」

「優しいのに。

 大事なはずなのに。

 近いと、怖い」

「……」

「どうしたらいいか分かんない」


 恒一は、すぐに答えられなかった。


 何を言っても。

 今の春乃には刃になる気がした。

 だから、しばらく黙っていた。


「少し、距離を置く?」

 春乃が小さく言う。

「え」

「会わないとかじゃなくて」

「……」

「少しだけ、近づきすぎないように」

「それは」

「今の私が、ちゃんと追いつくまで」

「追いつくのか」

「分かんない」


 その答えが、また痛い。


「でも」

 春乃は続ける。

「今のままだと、榊くんが苦しい」

「俺より」

「私が苦しいの」


 恒一は顔を上げる。

 春乃の目は、泣きそうだった。


「好きだったって分かるのに」

「……」

「今の気持ちが追いつかないの、すごく気持ち悪い」

「……」

「自分で自分が信じられない」

「朝比奈さん」

「だから、少しだけ」

「距離を置く」

「うん」


 テーブルの上に置かれた手帳が、ひどく小さく見えた。


 少しの沈黙。

 店内には、他の客の低い話し声と食器の音がある。

 それなのに、二人の周りだけ別の場所みたいに静かだった。


「分かった」

 恒一が言う。


 春乃が目を見開く。


「いいの?」

「よくはない」

「……」

「でも、朝比奈さんが今苦しいなら、そうする」

「榊くん」

「その代わり」

「うん」

「名前は言う」

「え」

「会えた時は、言う」

「……」

「榊恒一です。

 君が好きです」

「……」

「これはやめない」

「……うん」

「朝比奈さんが嫌なら別だけど」

「嫌じゃない」

「なら言う」

「……うん」


 春乃は、とうとう泣いた。

 静かに。

 声を殺すみたいに。


「ごめん」

「謝るな」

「でも」

「謝るなって言ってる」

「……うん」


 春乃は涙を拭く。

 それから、少しだけ笑った。


「榊くん」

「ん」

「そういうところ、ずるい」

「知ってる」

「知ってるなら直して」

「無理」

「即答」

「そこは即答する」


 少しだけ。

 本当に少しだけ。

 いつもの空気が戻る。


 でも、それが余計につらかった。


 喫茶店を出る頃には。

 外の光は少し傾いていた。


 二人は並んで駅まで歩いた。

 距離は、いつもより少し遠かった。


 手はつながない。

 肩も触れない。

 それだけのことなのに、ひどく寒かった。


 駅前で立ち止まる。


「じゃあ」

 春乃が言う。

「今日は、ここで」

「うん」

「また、連絡する」

「分かった」


 少しの沈黙。

 それから、恒一はいつものように言った。


「榊恒一です。

 君が好きです」


 春乃は、泣きそうな顔で笑った。


「朝比奈春乃です。

 覚えていたいです」


 そのあと。

 小さな声で続ける。


「ちゃんと、また追いつきたい」


 恒一は頷いた。

 それしかできなかった。


 春乃が人の流れの中に消えていく。

 今日は振り返らなかった。


 恒一はその背中を見送ったあとも。

 しばらく動けなかった。


 知らない人に優しくされるみたいで、苦しい。


 その言葉が、何度も胸の内側をなぞる。


 分かっていたはずだった。

 好きになるほど、こういう日も来ると。

 忘れられるだけじゃない。

 感情の時間差で、同じ場所に立てなくなる日もあると。


 帰宅して。

 部屋の机に向かって。

 それでも、何もできなかった。


 スマホを見ても、連絡はない。

 当然だった。

 まだ別れたばかりだ。


 夜になっても。

 春乃の言葉は消えなかった。


 恋人だって分かる。

 でも、実感が遅い。

 好きな人だって書いてある。

 でも、今の私はそこに触れない。


 恒一は、初めて思った。


 もしかしたら。

 失うっていうのは、一度に起こるんじゃないのかもしれない。


 少しずつ。

 何度も。

 昨日まで確かにあったものが。

 今日には少しずつ、届かなくなる。


 それがこんなにも静かで。

 こんなにも痛いものだとは。

 まだ、知らなかった。

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