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君が春を忘れても、僕は君を好きでいる  作者: 玉響すばる


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第10話 僕だけが覚えている

 次の日。

 恒一は、朝からずっと落ち着かなかった。


 連絡は来ていない。

 スマホを見ても、画面は静かなままだった。


 それでも学校へ行く。

 行かないという選択肢はなかった。


 教室に入る。

 春乃はもう来ていた。


 席についている。

 窓の外を見ている。


 その姿を見つけた瞬間。

 恒一の胸が、少しだけ強く鳴った。


 昨日の続きが、今日になる。

 それが怖かった。


 ホームルームが始まる前。

 春乃は一度だけ恒一のほうを見た。


 目が合う。

 けれど、すぐに逸れる。


 それだけだった。


 昼休み。

 恒一は少し迷ってから、図書室へ向かった。


 来ないかもしれないと思っていた。

 でも、春乃はいた。


 いつもの窓際。

 いつもの席。


 ただし、いつもと違うのは。

 向かいの椅子ではなく、隣の列の席に座っていたことだった。


 恒一は立ち止まる。

 春乃が気づく。

 そして、小さく笑った。


「こんにちは」

「こんにちは」


 それだけの挨拶。

 でも、昨日のあとに交わせたことが、少しだけ救いだった。


「座ってもいい?」

「うん」


 恒一は、向かいではなく少し離れた席に座った。

 春乃がそうしたいのだと分かったからだ。


 しばらく、ページをめくる音だけが続いた。


 先に口を開いたのは春乃だった。


「昨日」

「うん」

「ごめんね」

「謝るなって言った」

「言われた」

「なら言うな」

「……うん」


 春乃は本を閉じた。

 でも、こちらは見ない。


「今日も、ちょっと遅い」

「遅い?」

「実感」

「……」

「榊くんが榊くんだって、分かる」

「うん」

「大事なのも、分かる」

「うん」

「でも、好きっていう感じが、まだ少し遠い」

「そっか」

「うん」


 痛かった。

 でも、昨日よりは少しだけ耐えられた。


 言葉としてもう知っていたからだ。

 来ると分かっていた痛みは、唐突な刃よりはまだましだった。


「名前、言ってもいい?」

 恒一が聞く。


 春乃は少しだけ間を置いた。

 それから、小さく頷く。


「……うん」


 恒一は、できるだけ普段通りの声で言った。


「榊恒一です。

 君が好きです」


 春乃は目を閉じた。

 そのまま、息を吸う。


「朝比奈春乃です。

 覚えていたいです」


 声が少し震えていた。


「どう?」

「少しだけ、近くなる」

「そっか」

「でも、すぐには戻らない」

「うん」

「ごめん」

「それは言うな」


 春乃は困ったように笑った。

 昨日よりも、ほんの少しだけ自然な笑い方だった。


「今日、放課後」

 恒一が言う。

「帰り、一緒に行く?」

「……今日は、まだ怖い」

「分かった」

「でも」

「うん」

「また図書室には来る」

「それでいい」


 その日の放課後。

 恒一は結局、昇降口で春乃を待たなかった。


 待ちたい気持ちはあった。

 でも、それは今の春乃を追い詰めるだけだと思った。


 だから帰った。


 帰宅してから。

 何度もスマホを見る。

 連絡はない。


 夜になって。

 ようやく一件だけ、短いメッセージが届いた。


 今日はありがとう。

 ちゃんと話せて少し安心しました。

 まだうまく追いつけないけど、会いたくないわけじゃないです。


 恒一は、その短い文を何度も読み返した。


 会いたくないわけじゃない。


 それだけで、救われた気がした。


 次の日も。

 その次の日も。

 二人は図書室で会った。


 毎回、少し離れて座る。

 毎回、最初に名前を言う。

 毎回、春乃は少し考えるようにしてから返す。


「榊恒一です。

 君が好きです」

「朝比奈春乃です。

 覚えていたいです」


 儀式は続いた。

 以前よりも静かに。

 以前よりも慎重に。


 春乃は、時々だけ少し笑った。

 でも、前みたいに無邪気には笑えなかった。


 金曜日。

 昼休みの終わり際。


 春乃がふいに言った。


「ねえ」

「ん」

「これ、いつまで続ける?」

「朝比奈さんが嫌になるまで」

「嫌じゃない」

「なら続ける」

「……そっか」

「だめか」

「だめじゃない」

「ならいい」

「でも」


 春乃はそこで少しだけ目を伏せた。


「榊くんばっかり、覚えてる気がする」

「……」

「私が落としていく分を」

「……」

「榊くんだけが拾ってるみたいで、申し訳ない」


 恒一は少し黙った。

 それから言う。


「俺が拾いたいから拾ってる」

「でも」

「朝比奈さん」

「うん」

「今、忘れかけてるのは朝比奈さんかもしれないけど」

「……」

「今ここに来てるのも朝比奈さんだろ」

「……うん」

「名前を返してるのも」

「うん」

「覚えていたいって言ってるのも」

「……うん」

「なら、俺ばっかりじゃない」


 春乃は、しばらく何も言わなかった。

 やがて小さく笑う。


「そういうとこ」

「何」

「優しいっていうか、ずるい」

「またそれか」

「だって、泣きそうになるから」

「最近それ多いな」

「最近、泣きそうなことが多いの」


 その返しに、恒一は何も言えなかった。


 土曜日。

 恒一は一人で駅前を歩いていた。


 約束はしていない。

 今日は会わない日だった。


 少し離れたほうがいい。

 そう決めたのは春乃だけではない。

 恒一自身も、それが必要だと分かっていた。


 でも、足は自然とあの花屋の前で止まった。


 淡い黄色のマーガレット。

 夏らしい明るい色の花。

 春乃が見ていた鉢は、もうなかった。


 代わりに、小さな白い花の鉢が並んでいる。


 その時。

 ポケットのスマホが震えた。


 画面を見る。

 春乃からだった。


 今、駅前ですか。


 恒一は少し驚いた。

 短く返す。


 いる。


 すぐにまた届く。


 花屋の前にいます。


 顔を上げる。

 道路の向こう。

 人混みの隙間から、春乃が見えた。


 白いワンピース。

 麦わら帽子。

 こちらを見ている。


 恒一は横断歩道を渡った。


 春乃は、恒一が近づくあいだ。

 少しだけ不安そうに立っていた。

 でも、近くまで来ると、ほっとしたように息をつく。


「偶然?」

 恒一が聞く。


「半分くらい」

「半分か」

「会えたらいいなとは思ってた」

「連絡すればいいだろ」

「……それもそうなんだけど」


 春乃は少しだけ笑う。


「ちゃんと会って、ちゃんと確認したかった」

「何を」

「まだ、会うと安心するかどうか」


 その言葉に、恒一は胸の奥が少し痛くなった。


「結果は?」

「……安心した」

「そっか」

「でも、ちょっと苦しかった」

「うん」

「安心するのに、追いつかないから」


 春乃は花屋の店先を見る。

 小さな白い花の鉢に視線を落とす。


「ねえ」

「ん」

「名前、言って」

「ここで?」

「ここで」


 人通りはある。

 でも、そんなことは関係なかった。


 恒一はいつものように言う。


「榊恒一です。

 君が好きです」


 春乃は目を閉じる。

 少しだけ長く黙ってから、返す。


「朝比奈春乃です。

 覚えていたいです」


 それから、ふいに小さく笑った。


「やっぱり、落ち着く」

「ならよかった」

「うん」


 春乃は帽子のつばに触れながら、少し考えるように黙った。

 そして、絞り出すみたいに言う。


「私ね」

「うん」

「今のところ、昨日の恋人なんだと思う」

「……」

「今日の恋人になりきれない」

「……」

「昨日、好きだったことは分かる」

「うん」

「でも、今日の私がそこに追いつくまで、時間がかかる」

「そっか」

「だから」

「うん」

「榊くんが、今日も好きだって言ってくれるの、必要なの」


 その言葉を聞いた瞬間。

 恒一の胸の奥で、何かが静かに決まった。


 朝比奈春乃の中から、自分との昨日がこぼれていくなら。

 今日の自分が、何度でも拾って渡せばいい。


 それは報われる方法ではないのかもしれない。

 でも、今ここで春乃が必要だと言うなら。

 それが答えだった。


「じゃあ、毎日言う」

 恒一が言う。


 春乃が目を上げる。


「会えない日も?」

「連絡する」

「……」

「必要なら何回でも」

「……」

「朝比奈さんが今日の恋人になれるまで」

「……」

「俺は毎日、今日の好きだって言う」


 春乃の目に、また涙が浮かんだ。


「それ」

「うん」

「嬉しい」

「うん」

「でも、すごく苦しい」

「分かる」

「分かるの?」

「少しは」

「そっか」


 春乃は、泣きそうなまま笑った。


「榊くん」

「ん」

「私、ひどい?」

「ひどくない」

「でも、こんなの」

「病気だろ」

「……うん」

「なら、ひどいとかじゃない」

「前にも言った」

「何回でも言う」

「……ほんとに」


 春乃は視線を落とした。

 それから、ひどく静かな声で言った。


「ありがとう」

「うん」

「僕だけが覚えている、みたいな顔しないで」

「え」

「今の榊くん、ちょっとそういう顔してた」

「……」

「私も覚えていたいの」

「うん」

「置いていかないで」

「置いていかない」

「じゃあ、よかった」


 その日の帰り道。

 二人は少しだけ一緒に歩いた。

 前みたいに近くはない。

 でも、離れすぎてもいなかった。


 駅で別れる前。

 春乃が言う。


「今日は、少しだけ今日の恋人になれた気がする」

「少しか」

「少し」

「でも、昨日より前進」

「そうかも」

「ならいい」

「うん」


 そして、少しだけためらってから続けた。


「明日も、言って」

「言う」

「忘れないで」

「忘れない」

「……そっか」


 帰宅したあと。

 恒一は、自分の机に向かっていた。


 ノートも手帳もない。

 春乃みたいに書き残す習慣もない。


 でも、その夜だけは。

 白い紙を一枚取り出した。


 そして、短く書く。


 八月二十六日。

 朝比奈春乃は、昨日の恋人だと言った。

 今日の恋人になれるまで、毎日好きだと言う。


 書いたあとで。

 少しだけ、自分でも驚いた。


 覚えているために書くのではない。

 たぶん、忘れない。

 それでも書いた。


 春乃がずっとやっていたことの意味を。

 少しだけ、自分の手で知りたかったのかもしれない。


 紙を閉じる。

 息を吐く。


 僕だけが覚えているんじゃない。

 そう思いたかった。


 でも同時に。

 もし本当に、二人の記憶の重さがずれていくなら。

 その重いほうを持つのは自分でいいとも、恒一は思っていた。

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