第11話 春をなくした日
九月の風は。
まだ夏の熱を少しだけ残していた。
けれど、空の色は確かに変わりはじめていた。
光がやわらかくなって。
朝の空気に、ほんの少しだけ乾いた匂いが混じる。
恒一は、その変化が嫌いだった。
季節が進むということは。
時間が進むということだ。
そして今の恒一にとって。
時間が進むことは、そのまま春乃が遠くなることと似ていた。
夏休みが明けてから。
二人はまた学校で顔を合わせるようになった。
けれど、以前とは違う。
以前より、ずっと慎重だった。
会うたびに名前を言う。
好きだと伝える。
春乃は返す。
覚えていたい、と。
それはもう習慣というより。
祈りに近かった。
九月の二週目。
その日は朝から雨だった。
細い雨。
傘を差せば濡れない。
でも、長く降り続くと心まで湿っていくような雨。
昼休み。
恒一は図書室へ向かった。
今日も春乃は来るだろうと思っていた。
思いたかった。
けれど、窓際の席は空いていた。
少しだけ胸がざわつく。
遅れて来るかもしれない。
先生に呼ばれているのかもしれない。
そう考えて、本を開く。
でも、十分経っても。
二十分経っても、春乃は来なかった。
図書室を出る。
廊下を歩く。
教室へ戻る途中で、恒一は窓際に立つ春乃を見つけた。
一人だった。
手帳を見ているわけでもない。
ただ、雨の校庭を見ていた。
「朝比奈さん」
呼ぶ。
春乃が振り向く。
その顔を見た瞬間。
恒一の心臓が、嫌な音を立てた。
一拍。
二拍。
三拍。
長い。
長すぎる。
「……えっと」
春乃は、困ったように笑った。
その笑顔が、あまりにも知らないものに見えた。
「ごめんなさい」
春乃が言う。
「名前、先に言ってもらってもいい?」
恒一の背中に、冷たいものが走る。
それでも、声だけは揺らさないようにした。
「榊恒一です。
君が好きです」
春乃は目を瞬いた。
そして、はっとしたように口元を押さえる。
「あ」
「うん」
「……うん」
「朝比奈さん?」
「朝比奈春乃です。
覚えていたいです」
返ってきた。
返ってきたけれど。
恒一はすぐに分かった。
違う。
今までの遅れ方とは違う。
これは、もっと深いところでつながりが切れている顔だった。
「大丈夫か」
「うん」
「ほんとに?」
「……わかんない」
春乃は壁に背を預けた。
目の焦点が定まらないみたいに、一度だけ廊下の奥を見る。
「今日ね」
春乃が言う。
「朝から、少し変だったの」
「……」
「教室に来てからも、何人か名前がすぐ出なくて」
「うん」
「でも、顔は分かるの」
「うん」
「先生も、友達も、たぶん分かる」
「……」
「なのに、全部が少しずつ遠い」
恒一は何も言えない。
「図書室、行こうと思ってたの」
春乃が言う。
「でも、途中で、何しに行くんだっけってなって」
「……」
「手帳を見たの」
「うん」
「そしたら、榊くんに会う、って書いてあった」
「うん」
「それで、来ようとした」
「……」
「でも、途中で」
「……」
「恋人、って書いてある意味が、少し遠かった」
その言葉は、静かだった。
静かなのに、耳の奥で何度も響いた。
恋人、という意味が遠い。
昨日の恋人。
今日の恋人。
そのずれは、もう何度も聞いてきた。
でも今日は、もっと違った。
遠い、ではなく。
届かない、に近かった。
「保健室、行く?」
恒一が聞く。
春乃は少し考えてから、首を振る。
「今は、榊くんといたい」
「……うん」
「ちゃんと分からなくても」
「……」
「今は、そのほうが怖くない」
図書室へ行く。
窓際の席に座る。
雨音が、窓を細かく叩いていた。
図書室はいつもより暗い。
昼なのに、夕方みたいだった。
向かい合う。
春乃は手帳を開かない。
ノートも出さない。
ただ、両手を膝の上で組んでいた。
「名前、もう一回言って」
春乃が言う。
恒一は頷く。
「榊恒一です。
君が好きです」
春乃は目を閉じた。
そのまま静かに、何かを探すみたいに息をした。
「朝比奈春乃です。
……覚えていたいです」
少しだけ、間があった。
「どう?」
恒一が聞く。
「少しだけ」
春乃が言う。
「少しだけ、近づく」
「うん」
「でも、前みたいじゃない」
「……うん」
「ごめん」
恒一は、もう謝るなと言えなかった。
言っても、たぶん今は届かない気がしたからだ。
春乃は鞄からノートを取り出した。
あの紺色の、小さなノート。
「見る?」
春乃が言う。
「今?」
「うん」
「いいのか」
「今日は、見てほしい」
ノートが開かれる。
途中ではない。
最後のほうのページ。
そこには、前よりも短く。
でも、前より必死な字でいくつもの言葉が書かれていた。
榊恒一。
静か。
考えてから話す。
優しい。
好きな人。
恋人。
名前を言ってくれる。
好きだと言ってくれる。
その声で戻りやすい。
そして、その下。
ページの一番下に。
少しだけ文字が乱れた一文があった。
この人は、忘れても、もう一度好きになる人。
恒一は、そこで息が止まった。
「それ」
声がうまく出ない。
「私が書いた」
春乃が言う。
「たぶん、少し前に」
「……」
「なんで書いたのかは、ちゃんとは覚えてない」
「……」
「でも、今読んで」
「……」
「たぶん、そう思ったんだと思う」
恒一の視界が、少しだけ滲んだ。
忘れても。
もう一度好きになる人。
それは希望なのか。
祈りなのか。
それとも、書かなければ保てないほど脆い願いだったのか。
恒一には分からなかった。
分からなかったけれど。
その一文は、あまりにも春乃らしかった。
「榊くん」
「……うん」
「私ね」
「うん」
「今、ちょっと泣きそう」
「……」
「なんでか分からない」
「……」
「でも、この文章を読むと、胸が苦しい」
「……」
「たぶん、すごく大事だったんだと思う」
そこで、春乃はようやく泣いた。
ぽろりと。
一粒だけ、涙が落ちる。
「ごめん」
「……」
「分からないのに、泣いてる」
「……」
「変だよね」
「変じゃない」
やっと、それだけ言えた。
「変じゃない」
恒一は繰り返す。
「朝比奈さんが書いたんだろ」
「うん」
「なら、理由がなくても、本物だ」
「……」
「今、分からなくても」
「……」
「その時の朝比奈さんが、本気だったってことだ」
春乃は泣きながら、少しだけ笑った。
「榊くん」
「うん」
「今の言葉、ずるい」
「知ってる」
「そういう時だけ、ちゃんと強い」
「いつも強くはない」
「……うん」
「今だけだ」
「そっか」
しばらく。
雨の音だけが続いた。
春乃はノートを閉じた。
そして、ゆっくり言う。
「たぶんね」
「うん」
「今日、私は、春を少しなくした」
恒一は顔を上げる。
「春?」
「うん」
「何の」
「たぶん、榊くんを好きだった、私の中の季節」
その言い方があまりにもきれいで。
あまりにも残酷だった。
「でも」
春乃は続ける。
「全部じゃない気もする」
「……」
「こうしてると、どこかにまだある気がする」
「うん」
「見えないだけで」
「うん」
「だから、完全に失くしたって言いたくない」
恒一はもう、何も言えなかった。
喉の奥が熱くて。
胸の奥が痛くて。
息をするだけで苦しかった。
「名前、もう一回」
春乃が言う。
恒一は頷く。
今度は少しだけ声が震えた。
「榊恒一です。
君が好きです」
春乃は泣きながら笑った。
「朝比奈春乃です。
……覚えていたいです」
それが今の春乃に言える、精一杯だった。
放課後。
雨は少しだけ弱くなっていた。
昇降口まで一緒に歩く。
春乃の歩幅は、いつもより少しだけ遅い。
「今日は、一人で帰れる?」
恒一が聞く。
「うん」
「送る」
「大丈夫」
「でも」
「今日はね」
春乃が小さく笑う。
「一人で、今日を整理したい」
その言葉を、止めることはできなかった。
「分かった」
「うん」
「でも、連絡して」
「する」
「約束」
「約束」
昇降口で向かい合う。
いつものように。
恒一は言う。
「榊恒一です。
君が好きです」
春乃は、少しだけ泣きそうな顔で答えた。
「朝比奈春乃です。
覚えていたいです」
それから。
ほんの小さな声で続ける。
「もう一度、好きになれますように」
春乃は傘を開いて。
雨の中へ歩いていった。
恒一は、その背中が見えなくなるまで立ち尽くしていた。
その夜。
春乃からの連絡は遅かった。
短い文だった。
今日はごめんなさい。
でも、ノートの最後の言葉を見て、少し救われました。
今の私に全部は分からないけど、たぶん、あれを書いた私は本当にそう思っていました。
恒一は、何度もその文を読み返した。
そして、返事を打つ。
大丈夫。
何回でも会う。
何回でも名前を言う。
何回でも好きだと言う。
送信する。
既読は、少し経ってからついた。
返事は来なかった。
でも、それでよかった。
言うべきことは、もう言ったと思えたからだ。
その夜。
恒一は、初めて自分の部屋で泣いた。
声は出なかった。
ただ、静かに涙が落ちた。
忘れられることが悲しいんじゃない。
忘れてもなお。
あの子が自分で書いた言葉に救われなければいけないことが。
それが、たまらなく悲しかった。




