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君が春を忘れても、僕は君を好きでいる  作者: 玉響すばる


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第12話 君が春を忘れても

 それからの日々は。

 静かに。

 けれど確実に、変わっていった。


 春乃は学校を休む日が増えた。

 来られる日も、午前だけで帰ることがあった。

 図書室で会えても、前みたいに長くはいられなかった。


 それでも。

 二人のあいだには、まだ続いているものがあった。


 名前を言うこと。

 好きだと伝えること。


 会えた日は、必ず。


「榊恒一です。

 君が好きです」


「朝比奈春乃です。

 覚えていたいです」


 春乃の返事は、日によって違った。


 少しだけ笑える日もあった。

 声が震える日もあった。

 言葉の途中で、少し止まってしまう日もあった。


 それでも恒一は、やめなかった。


 十月の終わり。

 春乃は、しばらく学校を休むことになった。


 担任からは、体調を見ながら自宅療養に切り替えるとだけ聞かされた。

 詳しいことは、もうクラスの誰にも言わなかった。


 恒一は、春乃の母と連絡を取るようになった。


 最初はためらった。

 でも、春乃の母のほうから言ってくれた。


 会える日があるなら、伝えます。

 春乃が会いたがる日もあるので。


 その文面が、ひどく丁寧で。

 ひどく痛かった。


 十一月。

 初めて、春乃の家を訪ねた。


 住宅街の静かな一角。

 白い外壁。

 小さな庭。

 門の横に、鉢植えの花が並んでいる。


 その中に、白い小花があった。

 駅前の花屋で見たものに少し似ていた。


 玄関を開けてくれたのは、春乃の母だった。

 やわらかく微笑んでいたけれど。

 その目には、長い疲れがあった。


「来てくれてありがとうございます」

「いえ」

「今日は、比較的落ち着いています」

「……はい」

「でも、日によってかなり違うので」

「分かってます」

「そう言ってもらえると、助かります」


 客間に通される。

 しばらくして、春乃が来た。


 部屋着のまま。

 髪は少しだけ短くなっていた。

 でも、顔を見た瞬間、恒一は思った。


 春乃だ。

 間違いなく、春乃だった。


 春乃は、恒一を見て立ち止まった。

 一拍。

 それから、少しだけ困ったように笑う。


「……こんにちは」

「こんにちは」


 春乃の母が、そっと席を外す。

 二人きりになる。


 恒一は、いつものように言った。


「榊恒一です。

 君が好きです」


 春乃は目を瞬いた。

 それから、唇を少しだけ噛む。


「朝比奈春乃です。

 ……覚えていたいです」


 返事は、あった。

 けれど、前みたいな輪郭は薄かった。


「会いに来ても、よかった?」

 恒一が聞く。


 春乃はゆっくり頷く。


「うん。

 来てほしかった」

「そっか」

「でもね」

「うん」

「たぶん、前より分からない」


 恒一は黙って聞く。


「名前を聞けば、分かる」

「うん」

「大事な人だとも思う」

「うん」

「でも、好きだった感じが、もう、かなり遠い」

「……うん」

「ごめん」


 恒一は首を振った。


「謝らなくていい」

「でも」

「いい」

「……うん」


 春乃は膝の上で指を組んだ。

 その癖は、まだ残っていた。


「ノート、読む?」

 春乃が聞く。


「いいのか」

「うん。

 今日は、たぶんそのために来てもらった気がする」


 小さな紺色のノート。

 だいぶ使いこまれている。

 春乃はそれを開いて、途中のページをめくった。


「ここ」

 差し出される。


 そこには、以前よりも短く。

 以前よりも必死に。

 こう書かれていた。


 榊恒一。

 好きな人。

 恋人だった人。

 今も大事。

 分からなくても、こわがらなくていい。

 この人は、やさしい。

 名前を言ってくれる。

 私はこの人を、もう一度好きになる。


 恒一は、その最後の一文から目を離せなかった。


「これ」

「うん」

「朝比奈さんが?」

「書いた」

「……」

「たぶん、分からなくなる前に」

「……」

「私ね」

 春乃が小さく言う。

「自分で自分に、手紙を書いてるみたい」


 その言葉が、胸に深く沈む。


「今の私に、前の私が」

「……」

「この人は大丈夫だよ、って」

「……」

「置いていってくれてる感じ」


 恒一は、ノートを見たまま頷いた。

 もう、まともな声が出せなかった。


 春乃は少しだけ笑う。


「変だよね」

「変じゃない」

「そっか」

「朝比奈さんらしい」

「それ、今の私にも言えるかな」

「言える」

「……そっか」


 その日から。

 恒一は、ときどき春乃の家へ行くようになった。


 行ける日は限られていた。

 春乃が会える日も、会えない日もあった。

 体調が悪い日は、母から今日は難しいと連絡が来た。


 でも、会えた日は必ず、同じことをした。


 名前を言う。

 好きだと伝える。

 ノートを読む。

 少し話す。


 春乃は、そのたびに少しずつ違っていた。


 よく笑う日もあれば。

 ほとんど黙っている日もある。

 恒一の名前を聞いて、すぐに安心する日もあれば。

 何度も確認しないと表情が戻らない日もある。


 そして、冬が来た。


 十二月。

 朝の空気が、はっきり冷たくなる。


 その日。

 恒一は、久しぶりに春乃の家の庭先で、少しだけ長く立ち止まっていた。


 白い息が出る。

 鉢植えの花はもう減っていて。

 代わりに、小さな常緑の葉が並んでいた。


 客間に通される。

 今日は春乃の母の顔が、少しだけ沈んでいた。


「今日は……」

 言い淀む。

「少し、分からないことが多いかもしれません」

「はい」

「それでも、朝からあなたの名前は出ていました」

「……」

「だから、来てもらってよかったと思います」


 恒一は、ただ頷いた。


 部屋に入る。

 春乃は窓際に座っていた。


 光の薄い冬の日。

 横顔が静かだった。


「こんにちは」

 恒一が言う。


 春乃が振り向く。

 その目は、穏やかだった。

 でも、もう。

 恒一の知っている春乃の目ではなかった。


「……こんにちは」

 春乃が言う。

「えっと」


 恒一は、ためらわなかった。


「榊恒一です。

 君が好きです」


 春乃は、それを聞いて静かに目を見開いた。

 それから、小さく首をかしげる。


「朝比奈春乃です」

 そこで言葉が止まる。

「……ごめんなさい。

 その続き、何でしたっけ」


 恒一の胸が、音もなく沈んだ。


 春乃自身が。

 自分の返す言葉を思い出せない。


「覚えていたいです」

 恒一が、やさしく言う。


 春乃は、はっとしたように繰り返した。


「覚えていたいです」

 それから、少しだけ笑う。

「そうだった気がする」


 その笑顔が痛かった。

 でも、泣くわけにはいかなかった。


「今日は、ノートある?」

 恒一が聞く。


「ある」

 春乃は頷く。

 けれど、机の上のノートを手に取る動きが少し遅い。

「……これ、どこ読めばいいんだっけ」


「最後のほう」

「うん」


 ページをめくる。

 春乃の指が、途中で止まる。


「あ」

「どうした」

「これ」

「……」

「私の字なのに、知らない人の日記みたい」


 その言葉に、恒一は返事ができない。


 春乃は、最後のページを開いた。

 そして、ゆっくり読んだ。


 この人は、忘れても、もう一度好きになる人。


 読み終えて。

 春乃は、しばらくその文字を見つめていた。


「ねえ」

「うん」

「これ」

「うん」

「ほんとに私が書いたの?」

「書いた」

「……そっか」


 春乃の目に、涙が滲んだ。


「なんで泣いてるんだろ」

 春乃が言う。

「分かんない」

「……」

「でも、これ読むと」

「うん」

「胸のあたりが、すごく痛い」


 恒一は、初めてその場で泣きそうになった。

 でも、ぎりぎりで堪えた。


「分からなくても」

 恒一が言う。

「たぶん、大事なんだと思う」

「……」

「前の朝比奈さんが、残したかったくらいに」

「……うん」


 春乃は涙を拭った。

 それから、ノートを閉じる。


「榊くん」

「うん」

「私」

「うん」

「今のところ、あなたをちゃんと好きだとは言えない」

「……うん」

「でも」

「うん」

「嫌じゃない」

「……」

「会うと、少し安心する」

「……うん」

「それだけでも、だめかな」


 恒一は、ゆっくり首を振った。


「だめじゃない」

「……そっか」

「十分だ」

「ほんと?」

「ほんと」


 春乃は、少しだけ笑った。

 その笑い方は、初めて会った頃とは違う。

 でも、たしかに春乃だった。


 年が明ける前。

 春乃は、しばらく施設で療養することになった。


 家族だけでは支えきれない日が増えてきたからだと、母が教えてくれた。

 春乃自身も、それに頷いたらしい。


「家にいるより、ちゃんと見てもらえるから」

 母はそう言った。

「春乃も、それが分かる時は分かるんです」

「……はい」

「だから、悲しいだけじゃないようにしたいんですけど」

「……」

「やっぱり、悲しいですね」


 その言葉に、恒一は何も返せなかった。


 春乃が施設へ移ってから。

 会える回数は減った。


 けれど、完全には途切れなかった。


 行ける日には行く。

 短い時間でも顔を見る。

 名前を言う。

 好きだと伝える。


 春乃は、前より静かになっていた。

 話す量も減った。

 ノートを開く回数も減った。


 でも、不思議なことが一つだけあった。


 恒一が言うたびに。

 春乃は、少しだけやわらぐのだ。


「榊恒一です。

 君が好きです」


 すると、春乃は小さく息をついて。

 少しだけ落ち着いた顔になる。


 それが、言葉の意味を全部理解してのものなのか。

 ただ、聞き慣れた音に安心しているだけなのか。

 恒一には分からなかった。


 でも、どちらでもよかった。


 落ち着いてくれるなら。

 それで十分だった。


 冬が終わる。

 春が来る。


 去年、図書室で出会った季節が、また戻ってきた。


 三月の終わり。

 施設の庭には、早咲きの花がいくつか咲いていた。


 春乃の母から連絡が来た。


 今日は調子がいいです。

 庭に出ています。


 恒一は、すぐに向かった。


 施設の庭は静かだった。

 小さなベンチ。

 手入れされた低木。

 淡い色の花。


 その真ん中に、春乃がいた。


 本を開いている。

 風が髪を少し揺らしている。


 その光景が、あまりにも最初の日に似ていて。

 恒一はしばらく立ち止まってしまった。


 春乃が顔を上げる。

 恒一を見る。

 目が合う。


 一拍。

 でも、その一拍は、もう怖くはなかった。


 春乃は、本を閉じた。

 そして、小さく微笑んだ。


「……はじめまして、ですよね」


 恒一は、その言葉を聞いて。

 胸の奥が、静かに痛むのを感じた。


 でも、泣かなかった。

 今は泣く場所じゃないと思った。


「はい」

 恒一は言う。

「榊恒一です」


 春乃は、その名前を口の中でそっと確かめるみたいに繰り返した。


「さかき、こういち」

「はい」

「……変じゃなかったら」

「うん」

「隣、座ってもいいですか」


 恒一は、少し笑った。


「そこ、俺が聞くほうだろ」

「そうかも」

「じゃあ、座る」


 ベンチの隣に座る。

 春の風が、やわらかく吹く。


 少しだけ沈黙があった。

 不思議と気まずくはなかった。


「何読んでるの」

 恒一が聞く。


「短編集です」

 春乃が答える。

「少し苦しい話が入ってて」

「苦しいの、好きなんだ」

「……そうみたいです」


 その返しが。

 あまりにも春乃らしくて。

 恒一は一瞬だけ、言葉を失った。


「どうしました?」

「いや」

「変な顔してます」

「そうかも」

「変なの」


 春乃はくすっと笑った。

 その笑い方に、遠い記憶がかすかに触れる。


 恒一は、静かに息を吸った。

 それから、いつものように言った。


「君が好きです」


 春乃は、少しだけ目を見開いた。

 それから、不思議そうに首をかしげる。


「……それ」

「うん」

「前にも、聞いた気がします」


 恒一は、ゆっくり頷いた。


「たぶん、何回も言った」

「そうなんですね」

「うん」

「じゃあ」

 春乃は少しだけ笑う。

「今も、言ってくれたんですね」


 春の風が吹く。

 花が少し揺れる。


 恒一は、その横顔を見ながら思う。


 忘れられてもいい。

 最初から、そう言い切れるほど強くはなかった。


 痛かった。

 何度も苦しかった。

 できるなら失いたくなかった。


 それでも。


 こうしてまた春の中で出会えたのなら。

 たとえはじめましてになってしまっても。

 何度でも、ここから始めればいいと思えた。


 君が春を忘れても。


 僕はまた、君を好きになる。

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