第8話 恋人になる日
八月の初め。
蝉の声が、朝から校舎の外を満たしていた。
夏休みに入っても。
恒一と春乃は会っていた。
図書室は開いている日が限られていたから。
駅前の書店だったり。
喫茶店だったり。
人の少ない公園の木陰だったり。
会うたびに。
最初に、いつもの言葉を交わす。
「榊恒一です。
君が好きです」
「朝比奈春乃です。
覚えていたいです」
最初のころの照れは、まだ少し残っていた。
でも今は、照れよりも大事な意味を持っていた。
名前を言う。
好きだと伝える。
それが、その日の二人をつなぐ最初の橋になる。
夏祭りのあとから。
春乃はときどき、手帳を見る回数が増えていた。
ほんの小さなこと。
待ち合わせの時間。
昨日話した本の題名。
駅前で見た花屋の場所。
日常はまだ日常のままだった。
でも、その輪郭の端から少しずつ、崩れはじめているのが分かった。
それでも。
春乃は、会うたびにちゃんと笑った。
その日の待ち合わせは、駅前の喫茶店だった。
恒一が先に着く。
五分ほどして、春乃がやってきた。
白い半袖のブラウス。
薄い青のスカート。
髪は肩のあたりで揺れている。
店の前で立ち止まり。
恒一を見つける。
そこで、一拍。
ほんの一拍。
けれど、そのあとで春乃は少し安心したように息をついて笑った。
「榊恒一です。
君が好きです」
恒一が先に言う。
春乃は目を細めた。
「朝比奈春乃です。
覚えていたいです」
そのあと。
少しだけ小さな声で続ける。
「……今日は、すぐ戻れた」
「そっか」
「うん。
よかった」
二人で店に入る。
窓際の席。
冷房のきいた静かな空気。
運ばれてくる紅茶とアイスコーヒー。
春乃はいつものように紅茶を頼んだ。
けれど今日は、カップに触れる指先が少しだけ落ち着かなかった。
「何かあった?」
「うん」
「悪いこと?」
「……悪いっていうか」
春乃は少しだけ迷ってから、言った。
「昨日、母と話したの」
「うん」
「学校のこととか。
病院のこととか」
「……」
「今すぐじゃないけど、たぶん、少しずつ今まで通りにはいかなくなるって」
恒一は黙って聞いた。
「前から分かってたのにね」
春乃は笑う。
「改めて言われると、やっぱり痛い」
「うん」
「私、まだ普通にいたいのになって思った」
「うん」
「普通に学校行って。
普通に友達と話して。
普通に、好きな人と会いたいのに」
最後の言葉で。
春乃は、ほんの少しだけ目を伏せた。
「朝比奈さん」
「うん」
「好きな人って」
「そこ聞く?」
「聞く」
「……意地悪」
「知ってる」
春乃は少しだけ笑った。
でも、その笑顔は長く続かなかった。
「榊くん」
「ん」
「私ね」
「うん」
「ちゃんと言いたいことがある」
恒一は、自然と背筋を伸ばしていた。
窓の外では、真夏の日差しがアスファルトを白く照らしている。
店の中だけが、少し別の時間みたいに静かだった。
「今じゃないと駄目なの」
春乃が言う。
「今?」
「うん。
ちゃんと覚えていられるうちに」
その言葉の意味が、すぐに胸へ落ちる。
春乃は、カップの持ち手に触れたまま。
でも、紅茶は飲まなかった。
「私」
「うん」
「榊くんのこと、好き」
世界が一瞬だけ音をなくしたみたいだった。
「図書室で話した時から、ちょっと気になってた」
「……」
「でも、仲良くなったら困るって思ってた」
「うん」
「忘れるかもしれないから。
失くすかもしれないから」
「うん」
「それでも、会うたびに嬉しくなって」
「……」
「名前を言われるたびに、少し安心して」
「……」
「好きになった」
春乃は、そこで少しだけ唇を噛んだ。
「だから」
「うん」
「ちゃんと覚えてるうちに言いたかった」
「……」
「後からノートで知るんじゃなくて。
今の私の声で」
恒一は、すぐには返事ができなかった。
嬉しかった。
どうしようもなく嬉しかった。
でも同時に。
その言葉の前提が痛かった。
ちゃんと覚えてるうちに。
今の私の声で。
それは、未来には同じ形で言えないかもしれないという告白でもある。
「返事、困る?」
春乃が小さく笑う。
「少し」
「だよね」
「でも、嬉しい」
「……そっか」
「俺も好きだ」
「うん」
「前から言ってるけど」
「知ってる」
「でも、今はその意味で言ってる」
「……うん」
春乃の目が、少しだけ潤んだ。
「ねえ」
「ん」
「これって」
「うん」
「恋人、なのかな」
その問い方があまりにも危うくて。
恒一は一瞬だけ、答えるのをためらった。
春乃はそれに気づいたのか、すぐに付け足す。
「無理にじゃなくていいの」
「うん」
「ただ、ちゃんと名前が欲しいなって思って」
「名前」
「そう。
自分たちの関係の」
「……」
「そうしたら、少しだけ、失くしにくくなる気がして」
名前。
春乃はいつもそうだ。
言葉にして。
記して。
輪郭を与えることで、失われる速度に抗おうとする。
「恋人でいい」
恒一が言う。
春乃が顔を上げる。
「ほんと?」
「うん」
「怖くない?」
「怖い」
「……」
「でも、朝比奈さんがそう呼びたいなら」
「うん」
「俺もそうしたい」
春乃は、息を呑んだみたいに静かになった。
そのあとで、ようやく笑った。
「じゃあ」
「うん」
「今日から?」
「今日から」
「……そっか」
その一言が、ひどく愛おしく聞こえた。
しばらく、二人とも何も言えなかった。
ただ、向かい合って座っていた。
春乃の頬は少し赤かった。
恒一もたぶん同じだった。
「ねえ」
春乃が言う。
「恋人になったら、何が変わるんだろう」
「分からない」
「即答なんだ」
「分からないし」
「そっか」
「でも」
「うん」
「手、つなぐとか」
「……」
「そういうのは増えるんじゃないか」
「急に具体的」
「嫌ならやめる」
「嫌じゃない」
「……」
「でも、急に言われると、心臓に悪い」
春乃はそう言って笑った。
その笑顔が、さっきまでより少し明るい。
「じゃあ、試す?」
「何を」
「手」
「今?」
「今」
「……ここで?」
「だめ?」
「だめじゃないけど」
春乃はテーブルの上に、そっと右手を置いた。
その仕草があまりにも慎重で。
恒一のほうが緊張した。
少し迷ってから。
恒一はその手に、自分の手を重ねる。
指先が触れる。
熱い。
春乃が小さく息を呑んだ。
「どう」
「……すごく、恋人っぽい」
「感想が雑だな」
「だって、初めてだから」
「俺も」
「そっか」
春乃はそのまま、少しだけ指を動かした。
きゅっと、ほんの少しだけ握る。
「嬉しい」
小さな声で言う。
「俺も」
「よかった」
それだけのことだった。
たったそれだけなのに。
恒一の胸は、どうしようもなく満たされていた。
喫茶店を出たあと。
二人は駅前をゆっくり歩いた。
夏の空気は明るくて。
人通りも多くて。
なのに、二人だけが少し違う場所を歩いているみたいだった。
「恋人になったんだね」
春乃が言う。
「なったな」
「不思議」
「何が」
「嬉しいのに、ちょっと怖い」
「うん」
「でも、嬉しいのほうが今は強い」
「それならいい」
「いいのかな」
「今は、それでいい」
春乃は笑った。
そして、ふいに立ち止まる。
「写真、撮ってもいい?」
「写真?」
「うん。
今日の」
恒一は少しだけ驚いたが、頷いた。
「いいよ」
「ありがと」
春乃はスマホを取り出す。
二人で並ぶ。
距離は少し近い。
肩は触れない。
でも、ほとんどその手前だった。
シャッター音。
続けてもう一枚。
「撮れた?」
「うん。
……たぶん」
「たぶん?」
「ちゃんと、見返せるようにしておく」
その言い方に。
恒一は何も言えなかった。
少し歩いたあと。
公園の前で、春乃が足を止める。
「ねえ」
「ん」
「一つだけ、言っていい?」
「いいよ」
「恋人になったからって」
「うん」
「全部、急がなくていいからね」
「……」
「私は、ちゃんと今を増やしたい」
「うん」
「焦って壊したくない」
「分かった」
「よかった」
それから少しだけ、春乃は目を細める。
「でも」
「うん」
「ほんの少しくらいなら、甘くてもいい」
その言葉に。
恒一の心臓が跳ねた。
「朝比奈さん」
「なに」
「それ、ずるい」
「知ってる」
「自覚あるのか」
「恋人になったから、少しだけ」
春乃はそう言って笑った。
駅で別れる前。
いつものように向かい合う。
「榊恒一です。
君が好きです」
恒一が言う。
春乃は、前より少しだけやわらかい声で返した。
「朝比奈春乃です。
覚えていたいです」
それから。
少しだけ間を置いて続ける。
「恋人として」
その一言が、ひどく胸に残った。
帰宅したあと。
恒一は何度も今日のことを思い返していた。
告白。
恋人。
触れた手。
撮った写真。
覚えてるうちに言いたかった、という言葉。
幸せだった。
間違いなく、今までで一番。
でも、幸せなほど。
その裏にあるものも、くっきり見える。
楽しい日ほど、怖い。
失くしたくないって思うから。
あの時、春乃はそう言っていた。
今なら、その意味が前より分かる気がした。
手に入れたものが大きいほど。
失う痛みもまた、大きくなる。
それでも。
恒一は、今日を後悔しなかった。
恋人になってよかったと、はっきり思えた。




