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君が春を忘れても、僕は君を好きでいる  作者: 玉響すばる


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第7話 名前を呼ぶ練習

 夏祭りのあとから。

 恒一は、朝になるたびに少しだけ緊張するようになった。


 今日は大丈夫だろうか。

 春乃は、いつもの春乃だろうか。


 それは疑うというより。

 願うに近かった。


 翌週の月曜日。

 図書室へ向かう途中の廊下で、恒一は春乃を見つけた。


 窓際に立っている。

 手帳を開いて。

 そこに何かを確かめるように目を落としていた。


「朝比奈さん」


 呼ぶと、春乃は顔を上げた。

 そして、一拍だけ間があった。


 ほんのわずか。

 けれど恒一には、その一拍が長く感じられた。


「あ」

 春乃はすぐに笑った。

「榊くん。

 おはよう」

「おはよう」


 言葉は普通だった。

 声も、笑い方も、春乃だった。


 でも、その一拍の意味を、恒一は考えないふりができなかった。


「どうした」

「ううん。

 ちょっと、確認してただけ」

「手帳?」

「うん」


 春乃は手帳を閉じる。

 その仕草が以前より少しだけ増えていることに、恒一は気づいていた。


「図書室行く?」

「行く」

「じゃあ、一緒に」


 並んで歩きながらも。

 恒一は、さっきの一拍が胸に残っていた。


 昼休みの図書室。

 いつもの窓際。

 いつもの席。


 それでも、夏祭りの前とは何かが違っていた。

 静かに積もる不安が、もう二人の間に形を持っていた。


「榊くん」

「ん」

「今日、ちょっとだけ変なこと言っていい?」

「変なことしか言わないだろ」

「ひどい」

「で、何」

「私ね」

「うん」

「最近、顔と名前がずれる時が増えてきた」


 恒一は黙った。


「夏祭りの日みたいに、全部分からなくなるほどじゃないの」

「うん」

「でも、一瞬だけ遅れることがある」

「……」

「目の前の人が誰か、ちゃんとつながるまでに」

「そっか」

「うん」


 春乃は、机の上で指を重ねた。


「怖いよ」

「うん」

「すごく怖い」

「……うん」

「だから、考えたの」


 そこで春乃は少しだけ笑う。

 無理に明るくしようとする時の笑い方だった。


「対策」

「対策」

「うん。

 こういうのは、たぶん工夫しないと駄目だから」

「どんな」

「毎日、自己紹介して」


 恒一は一瞬だけ意味が分からなかった。

 春乃は真顔のままだった。


「自己紹介?」

「うん。

 会ったら最初に」

「なんて」

「榊恒一です、って」

「……」

「できれば、そのあと」

「そのあと?」

「君が好きです、まで」


 思わず、恒一は息を止めた。


 春乃は、少しだけ視線を逸らす。


「だめ?」

「いや」

「冗談半分なんだけど」

「半分か」

「半分は本気」

「どっちが重いんだ」

「本気のほう」


 春乃は困ったように笑った。


「名前だけだと、ちょっと寂しいから」

「そうか」

「それに、好きって言葉は、分かりやすいでしょ」

「まあ」

「私が忘れても、言われたら、少しは残るかもしれない」


 その言葉が、胸の奥に深く刺さった。


 記憶に残らなくても。

 感情のどこかに引っかかるかもしれない。

 春乃は、たぶんそういうものにすがろうとしている。


「……分かった」

「え」

「やる」

「即答なんだ」

「そこは即答する」

「ほんとに?」

「朝比奈さんが言ったんだろ」

「うん」

「ならやる」


 春乃は少しだけ目を丸くしてから。

 ふっと肩の力を抜いた。


「ありがと」

「その代わり」

「なに」

「朝比奈さんもやれ」

「私も?」

「そう」

「何を」

「名前」

「……」

「朝比奈春乃です、って」

「それだけ?」

「覚えておきます、もつけろ」

「何それ」

「バランスだ」

「適当」

「便利にしてる」

「最近ほんとそれ好きだよね」


 春乃は笑った。

 今度の笑い方は少しだけ自然だった。


「じゃあ、やる?」

「今?」

「今」


 恒一は一度だけ息を整えた。

 それから、できるだけ真面目な顔で言う。


「榊恒一です。

 君が好きです」


 春乃は一瞬だけ目を見開いた。

 そして、耳まで赤くした。


「……急にちゃんとやるの、反則」

「朝比奈さんが言ったんだろ」

「言ったけど」

「ほら」

「うう」


 春乃は少しだけ俯いてから、小さな声で返す。


「朝比奈春乃です。覚えておきます」


 その言葉の最後だけ。

 ほんの少し震えていた。


「よし」

「よし、じゃないよ」

「対策だろ」

「そうだけど」

「なら毎日やる」

「毎日」

「会うたびに」

「……それ、たぶん、私のほうが先に照れて死ぬ」

「生きろ」

「ひどい励まし方」


 その日から。

 二人は本当に、それをやるようになった。


 朝、廊下で会えば。


「榊恒一です。

 君が好きです」

「朝比奈春乃です。

 覚えておきます」


 昼休み、図書室でも。


「榊恒一です。

 君が好きです」

「朝比奈春乃です。

 覚えておきます」


 最初は照れた。

 春乃は毎回少し赤くなったし。

 恒一も内心ではかなりきつかった。


 けれど、三日もすると。

 そのやり取りは、二人だけの小さな儀式になった。


 好き、という言葉を軽くしたいわけではない。

 むしろ逆だった。


 何度でも。

 その都度。

 今この瞬間に、ちゃんと置いていく。


 そういう行為になっていた。


 金曜日の放課後。

 図書室を出たところで、春乃がふいに立ち止まる。


「榊くん」

「ん」

「今日の、もう一回言って」

「さっき言っただろ」

「もう一回」

「……榊恒一です。

 君が好きです」

「うん」


 春乃は頷いた。

 それから、自分の胸のあたりに手を当てる。


「今日ね」

「うん」

「昼休みの最初、ちょっとだけ遅れたの」

「遅れた」

「名前が出てくるまで」

「……」

「でも、そのあと聞いたら、すっと戻れた」


 恒一は何も言えなかった。


「効いてるかもしれない」

 春乃は少し笑う。

「この、変な儀式」

「変なって言うな」

「だって変でしょ」

「まあ、変ではある」

「でも、好き」


 その一言に、恒一は目を瞬かせた。


「儀式が?」

「それも」

「それも?」

「榊くんが、ちゃんと毎回言ってくれるの」


 春乃は、少し照れたように視線を逸らした。


「そのたびに、ああ、今もちゃんとここにいるんだなって思えるから」

「……うん」

「私の中で、何かが抜けても」

「うん」

「その瞬間には、まだ間に合う気がする」


 間に合う。

 その言葉は希望みたいで。

 同時に、崖の縁で使う言葉みたいでもあった。


 土曜日。

 二人は駅前の書店で待ち合わせた。


 新刊を見るだけの約束だった。

 でも、春乃は五分遅れて来た。


「ごめん」

「大丈夫」

「待った?」

「少し」

「少しなんだ」

「本見てたし」


 そう言ってから。

 恒一はいつものように言う。


「榊恒一です。

 君が好きです」


 春乃は足を止めた。

 人通りのある書店の前で。

 ほんの少しだけ困ったように笑う。


「こういう場所でもやるの?」

「会ったら最初に、だろ」

「……うん。

 そうだった」


 春乃は小さく息を吸った。


「朝比奈春乃です。

 覚えておきます」


 そう返したあと。

 ほんの一瞬だけ、表情がゆるむ。


「よかった」

「何が」

「駅前で会った時、一秒くらい自信なかったから」

「……」

「でも、聞いたら戻った」


 恒一の胸の奥が、冷たく沈む。


 一秒。

 たったそれだけ。

 でも、それは確かに進んでいるということだった。


「ごめん、変な空気にした」

「してない」

「してるよ」

「してない」

「……榊くん」

「ん」

「今、ちょっと怒ってる?」

「少し」

「何に」

「病気に」

「それは私も」


 春乃は苦く笑った。


「でもね」

「うん」

「怒ってくれるの、少し嬉しい」

「嬉しいのか」

「うん。

 私が悔しいって思ってること、同じように悔しいって思ってくれてる感じがするから」


 書店の自動ドアが開いて、冷房の風が流れてくる。

 二人は中へ入った。


 文庫本の棚。

 新刊台。

 平積みの本。


 春乃は何冊か手に取って。

 裏表紙を読んで。

 戻して。

 また別の一冊を開く。


 その横顔はいつも通りなのに。

 恒一は、さっきの一秒のことを考えていた。


 春乃はそれに気づいたのかもしれない。

 ふいに、本を閉じて言った。


「ねえ」

「ん」

「大丈夫じゃない日も、そのうち来ると思う」

「……」

「でも、その時」

「うん」

「今日みたいに、ちゃんと名前を言って」

「言う」

「好きも」

「言う」

「毎回?」

「毎回」

「飽きない?」

「飽きない」

「断言するんだ」

「する」

「……そっか」


 春乃は、泣きそうな顔で笑った。


「じゃあ、私も毎回言う」

「うん」

「朝比奈春乃です。

 覚えておきます、って」

「うん」

「ほんとは、覚えていたい、のほうが正しいけど」

「それでもいい」

「じゃあ、今度から変える?」

「好きにしろ」

「適当」

「便利にしてる」

「ほんとにそれ好きだね」


 少し笑って。

 それから、春乃は小さく付け足した。


「でも、たぶん」

「うん」

「覚えていたい、のほうが本音」


 その本音が痛かった。

 痛いのに、きれいだった。


 帰り道。

 夕焼けが街を薄く染めている。


 駅前の横断歩道で立ち止まった時。

 春乃がふいに言った。


「榊くん」

「ん」

「私たち、変だよね」

「そうだな」

「普通の高校生っぽくない」

「まあ」

「でも」

「うん」

「このやり方、嫌いじゃない」

「俺も」

「よかった」


 信号が青になる。

 歩き出す。

 その途中で、春乃が小さな声で言う。


「名前を呼ばれると、戻ってこられる気がする」

「……」

「だから、これからも呼んでね」


 恒一は頷いた。

 声にすると、何かが崩れそうだったからだ。


 帰宅してから。

 机に向かっても、本を開いても。

 今日の春乃の言葉ばかりが残っていた。


 効いてるかもしれない。

 間に合う気がする。

 覚えていたい。

 名前を呼ばれると、戻ってこられる気がする。


 それは希望だった。

 けれど同時に。

 希望にすがらなければいけないほど、現実が進んでいる証拠でもあった。


 恒一は、その夜。

 何度も心の中で繰り返した。


 榊恒一です。

 君が好きです。


 もし本当に、言葉だけが橋になるなら。

 何度でも渡すしかないと思った。

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