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君が春を忘れても、僕は君を好きでいる  作者: 玉響すばる


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第6話 夏祭りの約束

 七月に入るころには。

 図書室で向かい合うことが、二人にとってすっかり当たり前になっていた。


 昼休み。

 放課後。

 短い時間でも、顔を合わせる。


 春乃は相変わらず手帳を持ち歩いていた。

 ノートも書いていた。

 時々、少しだけ困ったようにページをめくることもあった。


 それでも、六月の終わりから七月のはじめにかけて。

 春乃は、前よりよく笑うようになっていた。


「榊くん」

「ん」

「これ、見て」


 昼休みの図書室。

 春乃は、文庫本ではなく小さなチラシを机の上に置いた。


「夏祭り」

「今週末か」

「うん」

「行きたいの?」

「行きたい」

「即答だな」

「即答だよ。だって夏祭りだもん」

「理由が雑だな」

「雑じゃないよ。屋台あるし。浴衣あるし。花火あるし」

「最後だけ強いな」

「花火、大事でしょ」


 春乃はチラシを指で押さえたまま、少しだけ上目に恒一を見る。


「一緒に行かない?」

「行く」

「そこは迷わないんだ」

「迷う理由がない」

「……そういうところ」


 春乃は笑った。

 けれど、その笑い方の奥に少しだけ緊張があった。


「どうした」

「ううん」

「嘘だな」

「ちょっとだけ、怖いだけ」

「夏祭りが?」

「違う」

「じゃあ何」

「約束が増えるのが」


 その言葉に、恒一は黙った。


 約束。

 春乃にとって、それは楽しみと同時に不安でもある。

 覚えていたいものほど。

 失くした時に痛いからだ。


「行きたくないなら」

「行きたいよ」


 春乃はすぐに言った。

 それから、少しだけ困ったように笑う。


「行きたいの。

 すごく」

「なら行こう」

「うん」

「怖くても」

「……うん」


 春乃はチラシをたたんで手帳にはさんだ。


「書いておく」

「忘れるから?」

「違うよ」

「じゃあ何」

「楽しみだから」

「それはいい理由だな」

「でしょ」


 そうして、夏祭りの約束ができた。


 その週のあいだ。

 春乃は何度かその話をした。


「りんご飴って、食べる時かわいくないよね」

「最初からそれか」

「でも美味しいよ」

「じゃあ食べればいいだろ」

「榊くんの前で?」

「別に気にしない」

「そういう問題じゃないの」

「難しいな」

「難しいよ。女の子は」


 別の日には。


「浴衣、何色がいいと思う?」

「知らない」

「ひどい」

「分からないって意味だ」

「分かろうとして」

「無茶言うな」

「じゃあ、榊くんは何色が好き?」

「朝比奈さんに似合うなら何でも」

「その答え、ずるい」

「便利にしてる」

「最近それ覚えたでしょ」


 そんな会話をするたびに。

 恒一は、約束が近づいていくのを嬉しく思った。


 同時に、少し怖くもなった。

 これが春乃にとって、どれだけ大事な一日になるのかが分かるからだ。


 夏祭りの当日。

 夕方。

 待ち合わせは神社の鳥居の前だった。


 恒一が先に着く。

 人混みはすでに多い。

 屋台の灯り。

 焼きそばの匂い。

 遠くで鳴る祭囃子。


 浴衣姿の人たちが行き交う中で、春乃を探す。

 そして、見つけた。


 淡い水色の浴衣だった。

 白い小花の模様。

 髪はいつもより少しだけ丁寧に結ってある。


 春乃も恒一に気づいて、立ち止まった。


「……あ」

「似合う」

「早い」

「思ったことを言った」

「心の準備がないんだけど」

「知らない」

「もう少しこう、段階とか」

「似合う」

「二回言った」

「大事だからな」

「……ずるい」


 春乃は耳まで少し赤くしてから、でも嬉しそうに笑った。


「榊くんも、ちゃんとしてる」

「普段ちゃんとしてないみたいに言うな」

「今日はいつもより、って意味」

「ならいい」

「ほんとに?」

「たぶん」

「たぶんなんだ」


 二人で並んで歩き出す。

 人が多い。

 肩がぶつかりそうになるたびに、春乃は少しだけ近づいたり離れたりした。


「何から行く?」

「朝比奈さんは」

「迷う」

「即答じゃないのか」

「屋台が多すぎるの」

「優柔不断」

「今だけです」


 結局、最初はかき氷になった。

 その次に焼きそば。

 それからたこ焼き。


「食べすぎじゃない?」

「お祭りだから」

「便利な言葉だな」

「便利にしてる」


 恒一が言うと、春乃が笑う。

 その笑い方が嬉しくて、恒一も少し口元を緩めた。


 射的もやった。

 春乃は意外と真剣だった。


「これ、絶対取る」

「何を」

「あの白い犬」

「ぬいぐるみ?」

「うん」

「そんなに欲しいのか」

「顔がちょっと榊くんに似てる」

「どこが」

「なんとなく静かそう」

「理由が雑だな」

「大丈夫。

 取れたらちゃんと可愛がるから」


 結果は取れなかった。

 春乃は悔しそうに唇を尖らせた。


「難しい」

「見るからに難しいだろ」

「榊くん、やって」

「無茶言うな」

「だめ?」

「……一回だけ」


 恒一もやった。

 もちろん取れなかった。


「やっぱり難しい」

「ほらな」

「でも、ちょっとかっこよかった」

「失敗したのに?」

「失敗しても、ちゃんとやるのが」

「変な基準」

「私の基準だからいいの」


 祭りの灯りの中で。

 春乃は本当に楽しそうだった。


 その表情を見るたびに。

 恒一は胸の奥が温かくなるのを感じた。


 神社の境内を抜けて。

 少し人の少ない裏手のほうへ行く。

 花火が見やすい場所があると、春乃が言ったからだ。


「前に来たことあるのか」

「うん。

 家族と」

「覚えてる?」

「……うん。

 これは大丈夫」


 春乃はそう言って笑った。

 でも、その笑みはほんの少しだけ不安そうだった。


 石段の脇。

 木立の向こう。

 夜空がひらけている場所に座る。


 やがて、最初の花火が上がった。


 低い音。

 続いて、空にひらく光。


「わ」


 春乃が小さく息を呑む。

 その横顔を、恒一は見ていた。


 青。

 赤。

 金。

 夜空に咲いては消えていく光が、春乃の頬を照らす。


「綺麗」

「うん」

「夏だね」

「そうだな」

「ちゃんと、今が夏って感じする」

「またそれか」

「うん。

 今日が今日になってる」


 春乃は膝の上で指を組んだ。

 浴衣の袖が少し揺れる。


「ねえ」

「ん」

「今日、来てよかった」

「俺も」

「ほんと?」

「ほんと」

「そっか」


 花火の音が重なる。

 短い沈黙のあとで、春乃がぽつりと言った。


「こういう日があると」

「うん」

「忘れたくないって、すごく思う」

「……」

「でも、そのぶん怖い」

「うん」


 恒一はすぐには何も言わなかった。

 言葉で軽くしたくなかったからだ。


「朝比奈さん」

「なに」

「今日のこと、たぶん俺もずっと覚えてる」

「……」

「だから、朝比奈さんが怖くても」

「うん」

「一人じゃない」


 春乃は黙った。

 花火の音が続く。

 光が夜空に散る。


「それ」

 春乃は少しだけ笑った。

「嬉しい」

「うん」

「でも、やっぱりずるい」

「またか」

「だって、泣きそうになるから」

「泣いてる?」

「まだ」

「まだか」

「今のうちに笑ってるの」


 その時だった。


 少し離れたところで、大きな歓声が上がる。

 人の流れが一気に動いた。

 何人かがこちらへ走るように移動してきて、周りの空気が急に騒がしくなる。


「わ」

 春乃が立ち上がりかける。

「危ない」


 恒一も立ち上がる。

 人の波に押される形で、春乃の肩が少しよろけた。


 次の瞬間。

 人混みの中に、春乃の姿が半歩、二歩、ずれた。


「朝比奈さん」

「……え」


 春乃が振り向く。

 けれど、その目が、一瞬だけ空白になった。


 恒一は見た。

 あの顔を。

 昨日でも、一昨日でもなく。

 もっと根本的に、つながりが切れかけた時の顔を。


「朝比奈さん」

 もう一度呼ぶ。


 春乃は息を止めたように立ち尽くした。

 周囲の音が遠くなる。


「……ごめん」

 春乃の声は、かすれていた。

「ちょっと、わかんなくなった」


 恒一の胸が、強く締めつけられる。


「大丈夫」

「うん」

「ここにいる」

「うん」

「榊恒一」

「……」

「朝比奈春乃と夏祭りに来てる」


 そう言うと。

 春乃は、はっとしたように目を見開いた。


「あ」

「うん」

「……うん」

「大丈夫か」

「うん。

 ごめん。

 一瞬だけ」


 けれど、その手は震えていた。

 浴衣の袖の下で、指先が小さく揺れている。


 恒一はためらった。

 でも、次の瞬間にはもう動いていた。


 春乃の手を、そっと握る。


 春乃が息を呑む。


「離れないように」

「……うん」

「嫌なら言って」

「嫌じゃない」


 春乃の声は小さかった。

 けれど、はっきりしていた。


「ごめん」

「謝るな」

「でも」

「謝るより、握ってろ」

「命令みたい」

「今だけ」

「……うん」


 花火はまだ続いていた。

 空には大きな光が咲いて、消える。


 その下で。

 春乃は、握られた手を少しだけ握り返した。


「榊くん」

「ん」

「今の、ノートに書く」

「そうか」

「一瞬、分からなくなった。

 でも、名前を言ってくれた」

「うん」

「それで戻れた」

「うん」

「……覚えておきたい」


 恒一は返事をしなかった。

 できなかった。


 喉の奥が熱くなっていた。


 花火が終わるころには。

 人の流れも少し落ち着いていた。


 帰り道。

 二人はゆっくり歩いた。

 最初よりずっと静かだった。


「今日は、楽しかった」

 春乃が言う。

「でも、ちょっとだけ怖かった」

「うん」

「楽しい日ほど、怖い」

「どうして」

「失くしたくないって思うから」


 その言葉は、まっすぐだった。


「でも」

 春乃は少しだけ笑う。

「来てよかった」

「俺も」

「それはもう聞いた」

「何回でも言う」

「……ほんとにずるい」


 駅の前で立ち止まる。

 夜風が少しだけ涼しい。


「今日は、ありがと」

「うん」

「名前、言ってくれて」

「当然だろ」

「当然でも、嬉しかった」


 春乃は少しだけためらってから。

 小さな声で言った。


「次、また分からなくなっても」

「うん」

「呼んでくれる?」

「呼ぶ」

「そっか」


 春乃は微笑んだ。

 けれど、その目は少しだけ潤んでいた。


「じゃあ、また明日」

「また明日」


 帰宅してからも。

 恒一は、夏祭りの夜を何度も思い返していた。


 浴衣。

 花火。

 笑った顔。

 握った手。

 一瞬だけ空白になった目。


 楽しかった。

 なのに、苦しかった。


 好きになればなるほど。

 失うことの輪郭もまた、はっきりしていく。


 その現実を。

 恒一は、夏の夜の熱の中で、初めて痛いほど理解した。

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