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君が春を忘れても、僕は君を好きでいる  作者: 玉響すばる


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第5話 それでも恋は始まる

 次の日の昼休み。

 恒一は、午前中ずっと落ち着かなかった。


 また明日。

 その一言が、思っていた以上に胸に残っていたからだ。


 春乃にとって、その言葉は軽い約束ではない。

 来週でも今度でもなく。

 明日。

 それがどれほど切実な単位なのかを、昨日知ってしまった。


 チャイムが鳴る。

 恒一は席を立ち、図書室へ向かった。


 春乃はもう来ていた。

 窓際の席。

 今日も文庫本を開いている。


 けれど、恒一に気づくと、本を閉じて小さく笑った。


「こんにちは」

「こんにちは」

「来てくれた」

「行くって言ったし」

「うん。でも、ちゃんと来ると嬉しい」


 その言い方に、恒一は少しだけ息を止めた。

 春乃はそれに気づかないふりをして、椅子を引く。


「座って」

「うん」


 向かいに座る。

 少しの沈黙。

 けれど、昨日までのぎこちなさとは違う静けさだった。


「今日は何読んでるんだ」

「短編集」

「面白い?」

「面白いよ。でも、途中で少し苦しい」

「苦しいの読むの好きだな」

「苦しいのに、最後まで読みたくなる話ってあるでしょ」

「ある」

「それ」


 春乃は本の表紙を見せた。

 けれど、恒一は題名よりも、その指先を見てしまった。

 ノートを持つ時も。

 手帳を開く時も。

 いつも少しだけ力が入っている手。


「榊くん」

「ん」

「今日は静かだね」

「いつも静かだろ」

「いつもより静か」

「考え事してた」

「私のこと?」

「……まあ」

「正直でよろしい」


 前にも聞いた言い方だった。

 でも、今日は少し違う響きに聞こえた。


「何考えてたの」

「いろいろ」

「便利な言葉」

「便利にしてる」

「ずるい」

「朝比奈さんもよくやる」

「それはそう」


 春乃は少し笑ってから、視線を落とした。


「昨日のこと、後悔してない?」

「してない」

「即答だ」

「朝比奈さんが昨日、自分のこと話したの」

「うん」

「軽く受け取るほうが失礼だと思う」

「……そっか」


 春乃は本の端を指で撫でた。


「私、ちょっと怖かった」

「何が」

「言ったら、距離置かれるかなって」

「置かない」

「それも即答」

「そこはそうだろ」

「どうして」

「どうしてって」

「普通、ちょっと引かない?」

「引かない」

「ほんとに?」

「ほんとに」


 春乃はじっと恒一を見る。

 試すような目ではなかった。

 信じたいけれど、まだ少し怖い人の目だった。


「……ありがとう」

「うん」

「でもね」


 春乃はそこで少し息を止める。

 それから、できるだけ軽く言おうとするみたいに笑った。


「優しくされすぎると、困る」

「困る?」

「勘違いしそうになるから」

「何を」

「大丈夫かもって」


 その言葉が落ちた瞬間。

 恒一は返事ができなかった。


 大丈夫かも。

 それは病気が治るとか、進まないとか、そういう意味ではないのだろう。

 もっと小さくて。

 もっと切実で。

 誰かと普通に関わってもいいのかもしれないという希望の話だ。


「勘違いじゃないと思う」

「え」

「少なくとも、俺は普通に話したいし」

「うん」

「会いたいとも思ってる」

「……」

「だから、大丈夫かもって思うのは、勘違いじゃない」


 春乃の瞳がわずかに揺れた。

 何かを言おうとして。

 でも、すぐには言葉にできないようだった。


「そういう言い方」

「何」

「ずるいよ」

「なんで」

「期待するから」


 またその言葉だった。

 昨日も聞いた。

 でも今日は、昨日よりずっと近い場所で聞こえた。


 昼休みの終わりまで、二人は本の話をした。

 学校の話もした。

 けれど恒一の中では、さっきの一言がずっと残っていた。


 期待する。

 その言葉の意味を、考えないふりができなかった。


 放課後。

 恒一は昇降口で春乃を見つけた。


「朝比奈さん」

「あれ。榊くん」

「今から帰る?」

「うん」

「駅まで一緒に行く」

「疑問形じゃないんだ」

「そうだな」

「ふふ」


 春乃は少しだけ嬉しそうに笑った。

 並んで歩き出す。


 春の夕方。

 風はやわらかい。

 商店街には買い物帰りの人が増えていた。


「今日は喫茶店行かないのか」

「行きたい?」

「朝比奈さんが行きたいなら」

「その返し、便利だね」

「便利にしてる」

「ずるいなあ」


 昨日と似た会話。

 なのに、なぜか少しずつ距離が変わっていく気がした。


「今日はね」

「うん」

「少し歩きたい気分」

「そっか」

「榊くんは?」

「同じでいい」

「それ、自分の気分ないみたいに聞こえるよ」

「あるけど」

「けど?」

「今は、朝比奈さんと一緒にいるほうを優先したい」

「……」

「変なこと言った?」

「ううん」

「ならいい」

「よくないかも」

「どっちだよ」

「困るほう」


 春乃は前を向いたまま言った。

 頬にかかった髪を、風が少し揺らす。


「榊くん」

「ん」

「昨日も言ったけど」

「うん」

「私、たぶん、そのうちきみのことも忘れるよ」


 足が止まりかけた。

 けれど恒一は止まらなかった。

 止まったら、その言葉が決定的になってしまう気がしたからだ。


「うん」

「うん、なんだ」

「聞こえてる」

「そっか」

「忘れるかもしれないのは、昨日聞いた」

「でも、改めて言った」

「そうだな」

「それでも?」


 春乃が立ち止まる。

 商店街の外れ。

 人通りが少し途切れた場所だった。


 恒一も足を止める。


「それでも、何」

「それでも、私といるの?」

「いる」

「なんで」

「朝比奈さんだから」

「答えになってない」

「俺の中ではなってる」

「……」

「忘れる可能性があるからって、今の朝比奈さんがいなくなるわけじゃないだろ」

「でも、今の私を、未来の私は覚えてないかもしれない」

「それでも」

「それでも?」


 春乃の声は、少しだけ震えていた。

 強がろうとしていたけれど、もう隠しきれていなかった。


 恒一は、自分でも驚くほどまっすぐに言った。


「それでも、俺は今の朝比奈さんといたい」


 春乃は黙った。

 目を逸らさないまま、じっと恒一を見ている。


「……だめだ」

「何が」

「そういうこと言われると」

「嫌だった?」

「逆」


 春乃は、小さく笑った。

 でも、その笑い方は泣きそうだった。


「嬉しいから、だめ」

「嬉しいならいいだろ」

「よくないよ」

「なんで」

「好きになっちゃうから」


 世界が一瞬だけ静かになった気がした。


 商店街のざわめき。

 遠くの車の音。

 風に揺れる看板。

 それらが全部、少し遅れて耳に入ってくる。


「……もう遅いかもしれないけど」

 春乃は小さく付け足した。

「え」

「たぶん、ちょっと、もう遅い」


 恒一の喉が乾く。

 何か言わなければと思うのに、言葉が出てこない。


 春乃は困ったように笑って、視線を落とした。


「ごめん」

「なんで謝る」

「先に困ること言ったから」

「困ってる」

「だよね」

「でも、嫌じゃない」

「……」

「たぶん、俺も同じだ」


 顔を上げた春乃の目が揺れる。


「同じって」

「好きだと思う」

「そんな簡単に言う?」

「簡単じゃない」

「じゃあ」

「昨日からずっと考えてた」

「……」

「朝比奈さんのことばっかり考えてた」

「……」

「それで、たぶん好きだと思った」


 春乃はもう笑っていなかった。

 泣くのを我慢するみたいに、きつく唇を結んでいる。


「だめだよ」

「なんで」

「だって、私」

「忘れるかもしれない」

「うん」

「でも、今はいる」

「榊くん」

「今の朝比奈さんは、ここにいる」

「……」

「それで十分だと思いたい」


 十分ではないのかもしれない。

 きっと痛い。

 きっと怖い。

 それでも、その時の恒一には、それ以外の答えがなかった。


 春乃は長く黙っていた。

 それから、やっと口を開く。


「友達のままのほうが、たぶん安全だよ」

「安全って」

「傷つくのが、少しはまし」

「朝比奈さんは?」

「私もそのほうがいいと思う」

「思ってるだけだろ」

「……」

「そうしたいわけじゃない」

「ずるい」

「朝比奈さんもずるい」

「知ってる」


 春乃は、とうとう泣いた。

 声は出さなかった。

 でも、大粒の涙が一つだけ落ちた。


「私ね」

「うん」

「最初から、仲良くしないほうがよかったのかなって、ちょっと思ってた」

「……」

「そうしたら、失くすのも少なくて済むから」

「うん」

「でも、図書室で話したの、嬉しかった」

「うん」

「喫茶店も、花屋も、嬉しかった」

「うん」

「榊くんと話すの、好き」

「……」

「だから、困る」


 恒一は、泣いている春乃の顔をまっすぐ見た。

 逃げたくなかった。

 ここで曖昧にしたら、きっと一生後悔すると思った。


「困ってもいい」

「よくない」

「よくなくても、いい」

「めちゃくちゃだよ」

「知ってる」

「……ほんとに不器用」

「朝比奈さんにだけは言われたくない」

「それはそう」


 泣きながら少し笑う。

 その顔が、どうしようもなく愛おしいと思った。


「じゃあ」

 春乃は涙を拭って、小さく息を吸う。

「一つだけ、約束して」

「何」

「私が怖くなったら、ちゃんと怖いって言う」

「うん」

「榊くんも、苦しくなったら言って」

「分かった」

「我慢して優しくしないで」

「難しいな」

「難しいよ。でも、約束」

「分かった」

「あと」

「まだあるのか」

「ある」

「うん」

「私、忘れるかもしれないから」


 春乃はそこで少しだけ笑った。

 泣き顔のままの、弱い笑顔だった。


「好きって思った日は、ちゃんと覚えておきたい」

「……」

「だから、今日のこと、あとで書く」


 その言葉に、恒一は胸の奥が熱くなるのを感じた。


「じゃあ俺も覚える」

「ノートに?」

「そこまでまめじゃない」

「だと思った」

「でも、覚える」

「そっか」


 春乃は頷いた。

 それから、少しだけためらって言う。


「まだ、恋人とか、そういうのは無理」

「うん」

「怖いから」

「分かる」

「でも」

「うん」

「好きかもしれないって思うのは、許して」

「許す」

「何それ」

「許可出した」

「えらそう」


 やっと、春乃はちゃんと笑った。


 その帰り道。

 二人は前より少しだけ近い距離で歩いた。

 手はつながない。

 肩も触れない。

 でも、昨日までとは明らかに違っていた。


 駅前に着く。

 別れ際。

 春乃は少しだけためらってから言った。


「榊くん」

「ん」

「今日、図書室に来てくれてよかった」

「俺も」

「あと」

「うん」

「好きになってくれて、少し嬉しかった」

「少しか」

「だいぶ、だと危ないから」

「基準が分からない」

「私にも分からない」


 電車の到着を告げる音が、遠くで鳴る。


「また明日?」

 恒一が聞く。


 春乃は一瞬だけ目を閉じて。

 それから、はっきり頷いた。


「うん。また明日」


 今度のその言葉は、昨日よりももっと重かった。

 でも同時に、昨日よりずっと嬉しかった。

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