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君が春を忘れても、僕は君を好きでいる  作者: 玉響すばる


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第4話 忘れていくひと

 翌日。

 恒一は、授業が終わるたびに時計を見ていた。


 昨日の春乃の顔が頭から離れなかった。

 泣きそうで。

 それでも笑おうとしていた顔。


 図書室へ行くと言っていた。

 来てくれる、と確かめるように聞いていた。


 だから恒一は、昼休みのチャイムが鳴るとすぐに席を立った。


 図書室はいつも通り静かだった。

 けれど、窓際の席に春乃の姿はない。


 少しだけ胸がざわつく。


 来ないかもしれない。

 そう思いかけた時。

 扉が開いた。


 春乃だった。


 少しだけ息を切らしている。

 急いで来たのだと分かった。


「ごめん。遅れた」

「いや」

「先生に呼ばれてて」

「そうなんだ」

「うん」


 春乃はそう言いながら、恒一の向かいに座った。

 けれど、今日はすぐに本を開かなかった。


 鞄を膝の上に置いたまま。

 両手を重ねて。

 そのまま少し黙っていた。


「朝比奈さん」

「うん」

「大丈夫か」

「大丈夫じゃないかも」


 すぐに返ってきた言葉に、恒一は息を止めた。


 春乃は笑わなかった。

 昨日までみたいに、軽く受け流すこともしなかった。


「今日は、ごまかせないや」

「……うん」

「たぶん、もう少しちゃんと話さないと駄目なんだと思う」

「無理に話さなくてもいい」

「無理じゃないよ」

「でも」

「話したいの」

「そっか」

「うん」


 春乃は一度だけ深く息を吸った。

 それから、静かな声で言った。


「私ね」

「うん」

「病気なんだ」

「……うん」

「若年性の進行性記憶障害って言われてる」


 言葉は静かだった。

 静かすぎて、最初はうまく意味にならなかった。


「記憶障害」

「そう」

「治るのか」

「今のところ、難しいみたい」

「進行性って」

「少しずつ、悪くなる」


 図書室の空気が、急に遠くなった気がした。

 周りにいるはずの生徒たちの気配が消える。

 聞こえるのは春乃の声だけだった。


「最初はね、ほんとにちょっとしたことだったの」

「ちょっとしたこと」

「昨日食べたものとか。何曜日だったかとか。そういうの」

「うん」

「でも、だんだん増えてきた」

「……」

「約束を忘れたり。話したことが抜けたり。人の名前が急に出てこなくなったり」


 春乃は指先をぎゅっと握った。

 爪の先が白くなる。


「顔は分かることも多いの」

「うん」

「声も分かる。雰囲気も分かる。でも、名前とか、いつ何を話したかとか、そういうつながりが急に切れる時がある」

「昨日の子みたいに」

「うん」


 恒一は何も言えなかった。


「だから書いてるの」

「ノートに」

「うん。忘れたくないこと。覚えていたいこと。大事な人のこと」

「……」

「書いても、たぶん全部は守れない」

「そんなこと」

「でも、何もしないよりはいいから」


 そこで、春乃はようやく恒一を見た。


「これで分かったでしょ」

「何が」

「私が、きみは今日を急ぎすぎるって言われた理由」


 昨日の会話が頭をよぎる。


 また今度じゃなくて。

 今日。

 近いうちより、今日のほうが確実。


 あれは性格の話ではなかったのだ。

 失う前に掴もうとしている人の言葉だった。


「今度、が怖いの」

「……うん」

「来週には覚えていられるか分からないから」

「そんな」

「大げさじゃないよ」

「でも」

「ほんとに、そうなの」


 春乃の声は震えていた。

 それでも、泣かなかった。

 泣かないようにしているのが分かった。


「学校も、やめるかもしれないって言われてる」

「え」

「症状が進んだら、通うのが難しくなるかもしれないって」

「いつ」

「分からない」

「……」

「明日じゃないかもしれないし。もっと先かもしれない」

「そんなの」

「分からないのが、一番嫌」


 その言葉で、春乃は初めて視線を落とした。


「死ぬ病気じゃないの」

「うん」

「少なくとも、今すぐ命に関わるとか、そういうものじゃない」

「……うん」

「でもね、少しずつ、自分が自分じゃなくなる感じがするの」

「自分じゃなくなる」

「昨日までの私が、今日の私の中から抜けていく感じ」


 恒一の喉が詰まる。

 何か言わなければと思うのに、言葉が出てこない。


「だから、私」

「……」

「人と深く関わるの、ほんとは怖い」

「朝比奈さん」

「だって、相手にも嫌な思いさせるから」

「そんな」

「するよ」


 春乃は、今度こそ少し笑った。

 泣きそうな笑い方だった。


「優しくしてもらっても忘れるかもしれない」

「……」

「仲良くなっても、覚えていられないかもしれない」

「……」

「それって、ひどいでしょ」


 恒一はようやく口を開いた。


「ひどくない」

「え」

「少なくとも、朝比奈さんが悪いわけじゃない」

「でも」

「悪くない」

「……」

「病気だろ」

「うん」

「だったら、ひどいとかじゃない」


 言い切ってから、自分でも驚くほど強い声だったと気づいた。

 春乃の目が少しだけ見開かれる。


「榊くん」

「うん」

「今、怒ってる?」

「少し」

「なんで」

「朝比奈さんが、自分を責めてるから」

「……」

「責めるところ、そこじゃないだろ」

「じゃあ、どこ」

「分からないけど」

「ふふ」

「笑うところじゃない」

「ごめん。でも、ちょっとだけ嬉しかった」


 春乃は、ほんの少しだけ肩の力を抜いたように見えた。


「誰かにちゃんと話したの」

「家族以外では、ほとんどない」

「そっか」

「隠してるわけじゃないよ」

「うん」

「でも、言ったら困らせるから」

「もう困ってる」

「それはごめん」

「謝るな」

「それもそうか」


 そこでようやく、春乃は少しだけいつもの調子に戻った。


 けれど、その目の奥の疲れは消えていなかった。


「昨日ね」

「うん」

「榊くんに見られた時、ああ、もう無理だなって思った」

「無理?」

「隠しきれないなって」

「……」

「ほんとは、きみには普通に話してたかった」

「普通に」

「図書室で会って。本の話して。喫茶店行って。そういうのだけでよかったの」


 その言葉に、胸が痛んだ。


「でも、それじゃ済まないんだなって分かった」

「うん」

「だから、話した」

「……ありがとう」

「うん」


 春乃は小さく頷いた。

 それから、少しだけ迷うように唇を結んだ。


「榊くん」

「何」

「これ聞いたら、たぶん優しくしてくれるでしょ」

「……」

「でも、それも少し怖い」

「どうして」

「期待しちゃうから」

「期待」

「明日も話せるとか。また会えるとか。覚えててもらえるとか」

「覚えてるよ」

「私は?」


 その問いに、恒一は言葉を失った。


 春乃は困ったように笑う。


「意地悪だった」

「いや」

「ごめん」

「……」

「分かってるの。榊くんが悪くないのも。どうしようもないのも」

「うん」

「でも、怖いものは怖い」


 図書室の窓から、春の光が机の上に落ちる。

 明るい昼なのに、そこだけ少し冷たく見えた。


 恒一は、ゆっくり息を吸った。

 それから言う。


「それでも」

「え」

「それでも、俺は明日も話したい」

「……」

「来週も」

「……」

「その先も」

「榊くん」

「朝比奈さんが忘れるかもしれなくても」

「……」

「俺は、話したい」


 春乃は黙った。

 黙ったまま、じっと恒一を見ていた。


「困る?」

「……分かんない」

「そっか」

「嬉しいのは、嬉しい」

「うん」

「でも、怖い」

「うん」

「両方ある」

「それでいい」

「よくないよ」

「よくなくても、あるなら仕方ない」


 春乃は、しばらくしてからふっと笑った。

 今度の笑い方は、少しだけ自然だった。


「榊くんって、時々すごく不器用なまま真っ直ぐだよね」

「褒めてる?」

「半分くらい」

「半分か」

「残り半分は、危なっかしい」


 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。


「戻るか」

「うん」


 二人で立ち上がる。

 けれど、席を離れる直前に、春乃が小さく言った。


「ねえ」

「ん」

「今日、話してよかった」

「……うん」

「引かれたらどうしようって思ってた」

「引かない」

「即答だ」

「そこは即答する」

「そっか」


 春乃は微笑んだ。

 その笑顔はまだ少し脆かった。

 でも、さっきまでよりはちゃんと息をしているように見えた。


 教室へ戻る廊下。

 並んで歩きながら、恒一は何度も考えていた。


 若年性の進行性記憶障害。

 少しずつ悪くなる。

 今度が怖い。

 今日を急ぐ。

 ノートに書く。

 大事だから書く。


 どの言葉も重かった。

 重くて、簡単には飲み込めなかった。


 でも、一つだけはっきりしていることがある。


 朝比奈春乃は、笑っていた。

 ずっと、一人で。

 壊れそうな不安を抱えたまま。


 その事実を知ってしまった以上。

 昨日までと同じではいられないと、恒一は思った。


 放課後。

 帰る支度をしている時。

 春乃が振り向いた。


「榊くん」

「ん」

「また明日、図書室来る?」

「行く」

「そっか」

「朝比奈さんは」

「行くよ」

「ならよかった」

「うん」


 春乃は一瞬だけ目を細める。

 それから、今度は少しだけ照れたように笑った。


「じゃあ、また明日」

「また明日」


 その言葉が、こんなにも重いと思ったのは初めてだった。

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