第3話 秘密のノート
翌朝。
恒一は、家を出る前に何度も制服のポケットを確かめていた。
昨日の紙。
春乃のものと思われる、小さなメモ。
今日。
榊恒一と喫茶店。
紅茶。
花屋。
楽しかった。
返さなければならない。
それは当然だった。
けれど、ただ返すだけでいいのかは分からなかった。
忘れないためみたいに。
昨夜、そう考えてしまった自分を思い出して、恒一は小さく息を吐く。
考えすぎだ。
きっとそうだ。
そう思いたかった。
教室に入ると、春乃はすでに来ていた。
窓際の席で、友人と何か話して笑っている。
その笑顔は、昨日と何も変わらないように見えた。
だからこそ、恒一は少し迷った。
ホームルーム前。
友人たちが席を立った隙に、恒一は春乃の机の前まで行く。
「朝比奈さん」
「ん?」
「あの」
「どうしたの?」
春乃は顔を上げる。
その目はいつも通り明るかった。
恒一はポケットから紙を取り出した。
「これ、昨日」
「……え」
紙を見た瞬間。
春乃の表情が、はっきり変わった。
笑みが消える。
驚いたような顔。
次に、しまったという顔。
「これ、落としてた」
「そっか」
「たぶん、昨日の帰りに」
「うん」
春乃は紙を受け取った。
指先がほんの少しだけ強く紙をつまむ。
「見た?」
「少しだけ」
「……そっか」
それ以上は何も言わなかった。
春乃は紙を小さく折って、すぐに鞄へしまった。
気まずい沈黙が落ちる。
けれど、チャイムが鳴って、会話はそこで途切れた。
一時間目。
二時間目。
三時間目。
授業を受けながらも、恒一は朝の春乃の顔が頭から離れなかった。
困ったような。
隠し事を見つけられたような。
あの表情。
昼休み。
恒一はいつものように図書室へ向かった。
昨日までなら、春乃がいるかもしれないと思っていた。
今日は、来ないかもしれないと思っていた。
けれど、いた。
窓際の席。
文庫本を開いている。
ただ、恒一に気づいても、すぐには笑わなかった。
少しだけ間があった。
そして、小さく手を振る。
「こんにちは」
「こんにちは」
いつも通りの挨拶。
それなのに、何かが少し違っていた。
恒一は向かいの席に座る。
しばらく、ページをめくる音だけが流れた。
先に口を開いたのは春乃だった。
「朝のこと」
「うん」
「変な空気にしてごめん」
「いや」
「びっくりしただけだから」
「大事なものだった?」
「……うん。たぶん」
たぶん。
その言い方が引っかかった。
「よく、書くのか」
「何を?」
「昨日みたいなやつ」
「……まあ、少し」
春乃は本を閉じた。
今日はしおりではなく、指を挟んだままだった。
「榊くんって、気になるとそのままにできないタイプ?」
「そんなことない」
「あるでしょ」
「少しは」
「少しじゃなさそう」
昨日と似た会話なのに、今日は笑い方が違った。
無理に軽くしているような笑い方だった。
「朝比奈さん」
「ん?」
「困るなら聞かないけど」
「うん」
「でも、ちょっと気になってる」
春乃は視線を落とした。
机の上に置いた指先が、小さく重なる。
「……困る」
「そっか」
「でも」
そこで言葉が切れる。
春乃は少しだけ考えるように黙ってから、ゆっくり顔を上げた。
「少しだけなら、いいよ」
「少しだけ」
「全部は無理」
「分かった」
春乃は窓の外を見た。
グラウンドから、ボールを打つ乾いた音が聞こえる。
「私ね」
「うん」
「忘れっぽいの」
「それは昨日も少し言ってたな」
「普通の忘れっぽいじゃなくて、もうちょっとちゃんと困る感じで」
恒一は何も言わずに待つ。
「だから、書くの」
「昨日のこととか」
「うん。今日あったこととか。話したこととか。約束とか」
「全部?」
「全部は無理。でも、大事そうなものは」
春乃はそこで小さく笑った。
笑ったけれど、その目は笑っていなかった。
「変でしょ」
「変とは思わない」
「優しい」
「そうでもない」
「ううん。そういう時に、すぐ変だって言わないのは優しいよ」
その言葉に、恒一は返事ができなかった。
「病気とか、そういうのじゃないの?」
思わず出た問いだった。
踏み込みすぎたと、言った直後に気づく。
春乃は少しだけ目を見開いた。
けれど怒ったりはしなかった。
「……今は、まだ」
「まだ?」
「ごめん。そこは言えない」
「分かった」
図書室の静けさが、妙に大きく感じられた。
春乃は鞄から小さなノートを取り出した。
手のひらに収まるくらいの大きさ。
紺色の表紙。
角は少し擦れていた。
「ほんとは、見せるつもりなかったんだけど」
「見せていいのか」
「よくはない」
「じゃあ」
「でも、少しだけなら」
春乃はノートを開いた。
最初のページではない。
途中のページ。
丁寧な字が、細かく並んでいた。
五月十日。
担任は小テストの返却前に咳払いを二回する。
購買のクリームパンは昼休み十分でなくなる。
駅前の喫茶店の紅茶は少し熱い。
榊恒一。
静か。
話す時に少し考えてから言う。
たぶん優しい。
恒一は息を止めた。
「それ」
「見ないでって言いたいところだけど、今もう見せてるね」
「俺のことまで書いてるのか」
「書くよ」
「なんで」
「忘れたくないから」
その答えはあまりにも真っ直ぐだった。
恒一は言葉を失う。
胸の奥がざわつく。
「そんな顔しないで」
「どんな顔」
「傷ついたみたいな顔」
「してた?」
「してる」
春乃は困ったように微笑んだ。
「これはね、誰かが大事じゃないから書くんじゃないの」
「……うん」
「逆。大事だから、書いてるの」
「でも」
「でも、書かなきゃ不安なの」
「何が」
「なくなるのが」
その最後の一言だけは、ほとんど消えそうな声だった。
恒一はノートから目を離せなかった。
几帳面な字。
短い文。
日常の断片。
人の名前。
好きなもの。
約束。
生きていた今日を、そこに縫い止めるみたいに書かれていた。
「朝比奈さん」
「ん?」
「これ、ずっと続けてるのか」
「うん」
「いつから」
「……結構前から」
「そっか」
もっと聞きたいと思った。
けれど、聞いてはいけないとも思った。
春乃は、はっとしたようにノートを閉じた。
「ごめん」
「なんで謝る」
「見せすぎた」
「無理に見たわけじゃない」
「それでも」
春乃はノートを胸の前に抱える。
その仕草は、秘密を守るというより、崩れそうな何かを抱きしめているみたいだった。
「今の、忘れて」
「無理だろ」
「だよね」
「うん」
「じゃあ、せめて変に気を遣わないで」
「難しいこと言うな」
「難しいよ。私もできてないから」
ようやく少しだけ、春乃はいつもの笑い方に戻った。
その日の放課後。
恒一は、昇降口で春乃を見かけた。
声をかけようとした時。
春乃が立ち止まる。
向かい側から来た女子生徒が、親しげに手を振った。
「春乃、一緒に帰ろ」
春乃はその子を見た。
一秒。
二秒。
ほんの短い間だった。
けれど、その間に、春乃の表情が空白になるのを恒一は見た。
「あ……」
「え?」
「ごめん。えっと」
女子生徒の笑顔が、少しだけ曇る。
春乃はすぐに手帳を開いた。
ページをめくる。
何かを確認する。
そして、無理に笑った。
「ごめん、今日、用事あった」
「あ、そっか。じゃあまた明日ね」
「うん。また明日」
女子生徒が去っていく。
春乃はその場に立ち尽くしたまま、手帳を握りしめていた。
恒一は、足が止まった。
見てはいけないものを見た気がした。
けれど、目を逸らすこともできなかった。
「朝比奈さん」
呼ぶと、春乃はびくりと肩を揺らした。
振り向いた顔は、泣きそうだった。
「……見た?」
「少し」
「そっか」
春乃は笑おうとした。
でも、うまく笑えなかった。
「今の子」
「うん」
「同じクラスの、結構仲いい子なの」
「……うん」
「一瞬、名前が出てこなかった」
恒一は何も言えない。
「顔は分かるの」
「うん」
「声も分かる。たぶん仲いいのも分かる」
「でも、名前が」
「そう。急に、抜ける時があるの」
春乃は手帳を閉じた。
指先が震えていた。
「だから、見ないでって言ったのに」
「ごめん」
「榊くんが悪いわけじゃない」
「でも」
「違うの」
春乃は小さく首を振った。
その拍子に、目元が少しだけ潤む。
「これ、たぶん」
「……うん」
「そのうち、もっと増えるから」
その言葉の重さに、恒一は息を呑んだ。
夕方の校舎。
窓の外は茜色に染まりはじめていた。
部活帰りの声が遠くに響く。
春乃は手帳を鞄にしまった。
それから、精一杯みたいな顔で笑った。
「今日は、もう帰るね」
「送る」
「大丈夫」
「でも」
「ほんとに大丈夫」
きっぱり言ってから、少しだけ声をやわらげる。
「ありがと」
「……うん」
「明日、図書室行くから」
「分かった」
「来てくれる?」
「行く」
「よかった」
そう言って、春乃は今度こそちゃんと笑った。
けれど、その笑顔は少しだけ痛々しかった。
帰宅してからも、恒一は何度も今日のことを思い返していた。
ノートに書かれた自分の名前。
忘れたくないから書くという言葉。
一瞬だけ、友人の名前が出てこなかった春乃の顔。
ただの忘れっぽさではない。
もう、そう思うことはできなかった。
机に向かう。
教科書を開く。
けれど、文字が頭に入らない。
大事だから、書いてるの。
その言葉だけが、何度も胸の奥に落ちていく。
忘れられていく前提で、誰かを大事にするのは、どんな気持ちなのだろう。
恒一には、まだ分からなかった。
けれど一つだけ、はっきりしたことがある。
朝比奈春乃は、ずっと一人でそれと向き合ってきた。
その事実が、どうしようもなく重かった。




