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君が春を忘れても、僕は君を好きでいる  作者: 玉響すばる


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第2話 きみは今日を急ぎすぎる

 翌日の昼休み。

 恒一は、少しだけ迷ってから図書室へ向かった。


 昨日のことがあったからだ。

 朝比奈春乃と話したこと。

 そして、あのしおりに書かれていた言葉。


 大事なことは、忘れる前に書いておく。


 ただの癖だと言われれば、それまでだった。

 けれど、あの文字の真剣さが、どうにも気にかかっていた。


 図書室の扉を開ける。

 静かな空気が、今日も変わらずそこにあった。


 窓際の席に、春乃はいた。

 文庫本を開いていたが、恒一に気づくと、ぱっと顔を上げた。


「あ」

「こんにちは」

「こんにちは。榊くん、また来たんだ」

「まあ、いつも来てるし」

「そっか。じゃあ、私がまた会えたんだね」


 そう言って笑う。

 その言い方が少しだけ特別に聞こえて、恒一は視線を逸らした。


 春乃は本にしおりを挟んで閉じた。

 昨日とは違う柄だった。

 薄い水色の紙に、小さな鳥の絵が描いてある。


「今日は違うしおりなんだ」

「え」

「ああ、いや。昨日のと違うなって」

「あ、ほんとだ。よく見てるね」


 春乃は少し驚いたように目を丸くしてから、困ったように笑った。


「しおりって、いっぱいあるの?」

「あるよ」

「そんなに使う?」

「……うん。使う」


 ほんのわずかに、返事が遅れた。

 けれど春乃はすぐに明るい調子に戻る。


「それより、榊くん」

「ん」

「今日、放課後空いてる?」

「空いてるけど」

「よかった」


 春乃はそう言って、なぜか本気で安堵したような顔をした。


「駅前の喫茶店、行かない?」

「今日?」

「今日」

「急だな」

「急じゃないと駄目なの」


 言い切ったあとで、春乃は少しだけ困ったように笑った。


「……っていうと、変かな」

「いや」

「また今度、って言うと、その今度が遠い気がして」

「近いうちに行けばいいんじゃないのか」

「うん。でも、近いうちより今日のほうが確実でしょ」


 妙に理屈が通っていた。

 恒一は思わず口元を緩める。


「朝比奈さんって、今日を急ぎすぎるよな」

「だめ?」

「だめじゃないけど」

「なら、よかった」


 その返しが少し嬉しそうで、恒一は断る気をなくした。


「じゃあ、放課後」

「うん。約束」


 春乃はそう言って、小指を差し出した。

 子どもみたいだと思いながら、恒一も自分の小指を絡める。


「約束」

「破ったらだめだからね」

「そこまで重いのか」

「重いよ。約束は大事」


 言葉の最後だけ、少しだけ強かった。


 五時間目と六時間目のあいだ。

 恒一は、気づくと何度か時計を見ていた。


 放課後。

 校門の前には、すでに春乃がいた。


 白いカーディガンの袖を少し引きながら、行き交う生徒たちを眺めている。

 見つけると、すぐに手を振った。


「榊くん。こっち」

「待たせた?」

「全然。今来たところ」

「それ、たぶん今来てないやつだろ」

「どうかな」


 笑って誤魔化される。

 けれど、その待っていた時間さえ楽しんでいたようにも見えた。


 二人で駅前まで歩く。

 春の夕方の風はまだ少し冷たくて、制服の袖口から入りこんできた。


 商店街を抜けた先に、その喫茶店はあった。

 古びているが、手入れの行き届いた小さな店だった。


 木の扉。

 真鍮の取っ手。

 ガラス越しに見える飴色の灯り。


「ここ、好きなの」

「よく来るの?」

「うん。たまに」

「一人で?」

「一人でも来るし、母とも来るよ」


 カラン、と控えめな音を立てて店に入る。

 コーヒーと焼き菓子の匂いがした。


 窓際の席に座る。

 春乃はメニューを開く前に、すぐ紅茶を頼んだ。

 恒一は少し迷ってコーヒーを選ぶ。


「即決なんだな」

「好きなものは決まってるから」

「毎回同じ?」

「うん。同じでも嬉しいものってあるでしょ」

「まあ、それは分かる」

「榊くんにもある?」

「ある」

「なに?」

「図書室」

「それはちょっと分かる」


 ふっと笑い合う。

 その沈黙は心地よかった。


 注文が来るまでのあいだ、他愛のない話をした。

 担任の口癖。

 隣のクラスの噂。

 数学の小テストが予想より難しかったこと。


 春乃はよく笑った。

 そして、相手が話したことをちゃんと受け取って返すのがうまかった。


 だから恒一も、自然と話していた。


 やがて紅茶とコーヒーが運ばれてくる。

 春乃はカップを両手で包むように持って、湯気を見つめた。


「こういう時間、好き」

「喫茶店が?」

「それもあるけど」


 春乃は少しだけ目を細める。


「ちゃんと今日になってる感じがするから」


 意味が分からず、恒一は首を傾げた。


「今日になってる?」

「うん。ただ学校行って、帰って、寝るだけだと、なんとなく一日が薄いまま終わる気がして」

「薄い」

「そう。ちゃんと形にしたいの」

「今日はこうだったって?」

「そう」


 春乃は微笑んだ。

 けれど、その笑みの奥に、言葉にしきれない焦りのようなものが一瞬だけ見えた。


「だから、今日行こうって言うのか」

「うん」

「また今度じゃなくて」

「また今度って、便利だけど、怖いから」


 春乃は紅茶を一口飲んだ。

 少し熱かったのか、目を細める。


「ねえ、榊くん」

「ん」

「今度って、案外すぐなくなると思わない?」

「なくなるって」

「機会とか。気持ちとか。時間とか」


 言いながら、春乃は自分でも言いすぎたと思ったのか、ふっと表情をやわらげた。


「ごめん。変なこと言った」

「いや」

「私、たぶん、ちょっとせっかちなんだよね」

「それは知ってる」

「ひどい」

「昨日から思ってた」

「一日で判断しないで」

「今日で補強された」


 春乃は吹き出した。

 その笑い声につられて、恒一も笑う。


 しばらくして、店を出る。

 外は少しだけ夕焼けていた。


 帰り道の途中に、小さな花屋があった。

 店先には春の花が並んでいる。


 春乃は足を止めた。


「あ」

「花、好きなのか」

「うん。見てるだけでも好き」


 しゃがみこむようにして、春乃は並んだ鉢を見つめた。

 色とりどりの花の中で、淡い黄色のマーガレットに目を留める。


「これ、かわいい」

「買うの?」

「今日は見るだけ」


 そう言ったあとで、春乃はふと首をかしげた。


「……あれ」


「どうした」

「私、昨日ここ通ったっけ」


 言葉は軽かった。

 独り言みたいな響きだった。


 けれど恒一は、一瞬だけ聞き返せなかった。


「昨日?」

「うん。なんか、ここ見た気がするのに、自信なくて」

「昨日は一緒に帰ってないだろ」

「あ」


 春乃は目を瞬かせた。

 そして、少しだけ笑った。


「そっか。そうだよね」

「覚えてないのか」

「ううん。なんか、今日と昨日が少し混ざっただけ」

「疲れてるんじゃないか」

「そうかも」


 明るく言った。

 けれど、その直後に春乃は制服のポケットから小さな手帳を取り出した。


 開いて、何かを確かめる。

 ほんの数秒。

 そして、ほっとしたように閉じた。


 恒一はそれを見てしまった。

 見てはいけないものを見たような気もした。


「手帳、よく見るんだな」

「え」

「予定、たくさんあるのかと思って」

「ああ、うん。予定もあるし」


 春乃は少しだけ笑った。


「忘れたくないこと、書いてるの」

「忘れたくないこと」

「そういうの、ない?」

「あるけど、そこまでまめじゃない」

「私は書かないと不安なの」


 風が吹いた。

 花屋の前の値札が、かすかに揺れた。


 春乃は手帳をしまってから、何でもない調子で言った。


「でも、今日のことはたぶん大丈夫」

「なんで」

「ちゃんと楽しいから」

「それ、基準になるのか」

「なるよ。楽しかった日は、覚えていたいって強く思うから」


 その言葉に、恒一は少しだけ胸の奥が熱くなった。


「俺も、今日は楽しかった」

「ほんと?」

「ほんと」

「よかった」


 春乃は、心から安堵したように笑った。


 駅前で別れる。

 人通りの多い横断歩道の前で、春乃は振り返った。


「榊くん」

「ん」

「また今度、じゃなくて、またすぐ話そうね」

「今日にこだわらないのか」

「今日はもう使ったから」

「そういうものなんだ」

「そういうものです」


 信号が青になる。

 春乃は数歩進んでから、もう一度だけ振り返った。


「明日、図書室来る?」

「たぶん」

「じゃあ、明日」


 軽く手を振って、春乃は人の流れにまぎれていった。


 恒一はその背中が見えなくなるまで、しばらくそこに立っていた。


 帰宅して、鞄を机に置く。

 制服のポケットに、紙の感触があった。


 取り出してみると、小さなレシートだった。

 喫茶店のものではない。

 花屋のレシートでもない。


 白い紙の裏に、丸い字で短く書かれている。


 今日。

 榊恒一と喫茶店。

 紅茶。

 花屋。

 楽しかった。


 恒一は、息を止めた。


 たぶん、春乃の手帳か何かにはさんであった紙だ。

 偶然まぎれこんだのだろう。


 楽しかった。

 その一言が、妙に胸に残った。


 けれど同時に、それをわざわざ書き残す理由が、ひどく気になった。


 忘れないためみたいに。


 そんな考えが浮かんでしまって、恒一はすぐに打ち消した。


 ただの癖かもしれない。

 慎重な性格なだけかもしれない。


 なのに、胸の奥の引っかかりだけは、昨日よりも少し大きくなっていた。

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