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第5話:大妖襲来の噂と、私の洗濯物

川越の街からさらに西へ一日半。新しく辿り着いたのは、山あいの小さな宿場町だった。 ここには大きな蔵造りの建物もなければ、行き交う華やかな商人たちの姿もない。ただ、静かな山と、冷たくて澄んだ川があるだけの、寂れた場所だ。 お陰で、店賃は格安だった。 川沿いに建つ、かなり古い長屋の一室。六畳間だが、床が少し傾いている。それでも、大家の不愛想な老爺は「月に銅貨百枚(銀貨一枚分)でいい」と言った。源次郎から夜逃げのドタバタのドサクサで強引にぶんどった銀貨の中から支払いを済ませ、私はようやく新しい拠点を確保した。「……よし。まずは洗濯ね」 私は晴れ渡った青空を見上げ、井戸からバケツで水を汲み上げた。 影の袋から、ここ数日の逃亡生活で汚れた数枚の小袖や肌着を取り出す。タライの中に水を満たし、東京から持ってきたお気に入りの液体洗剤を数滴落とした。和風の異世界に、一瞬だけ日本の柑橘系の香りが広がる。 バシャバシャと小気味よい音を立てて、布を擦り合わせていく。 東京にいた頃、あの男は私が洗濯物を干していると、いつも「あ、俺のあのTシャツも洗っといて。今日ライブだから」と、脱ぎ散らかした服を後から放り込んできた。洗濯機が回り始めたのを確認してから言うのが、本当に腹立たしかった。 それに比べれば、自分の汚れだけを、自分の手で落とすこの時間は、信じられないほど贅沢だった。 パン、パン、とシワを伸ばし、長屋の軒先に洗濯物を干していく。 その時、大通りを走る瓦版売りの声が、私の耳に飛び込んできた。「大変だ! 大変だ! 西の果ての封印が完全に破られたぞ! 大妖怪・九尾の狐が目覚めた! 王都の陰陽寮は全滅寸前だ!」 バタバタと、宿場町の人々が慌てふためく足音が響く。 長屋の住人たちも、障子を開けて顔を青ざめさせていた。「世界が終わる」「もうおしまいだ」と、小さなパニックが街を包み込んでいく。 私の気配察知は、遥か遠く、西の空から押し寄せる異様な負のエネルギーを正確に感知していた。 確かに、今までの化け物とは桁が違う。国を一つ滅ぼすという噂は、決して大げさではないだろう。 もし、私がここから十個の究極術式の一つである極大消滅呪文を西の空へ向かって放てば、魔王級の大妖怪であっても、一撃で消し炭にできる。気の消費はゼロだから、私の指先一つで、世界は救われるのだ。 けれど、私は干し終えた洗濯物の位置を、少しだけ日当たりのいい場所へと微調整した。「世界が滅びるかどうかより、今日の夕方までにこの服が乾くかどうかのほうが、私にとっては一大事」 私は小さく呟いた。 世界を救って英雄になれば、お上から莫大な褒美がもらえるかもしれない。けれど、その後に待っているのは、公儀に監視され、都合よく次の戦場へと駆り出される道具としての人生だ。 そんなキラキラした、他人の敷いたレールの上を歩くのは、もうたくさんだった。私は、自分で稼いだ百文の店賃を払い、自分で洗った服を着て、静かに暮らしたいだけなのだ。 トントン。 その時、長屋の共有スペースである井戸端のほうから、聞き覚えのある足音が近づいてきた。 振り返ると、そこには頭に手ぬぐいを巻き、みすぼらしい百姓の格好に変装した源次郎が立っていた。傷口には、まだ私が貼った東京の絆創膏が覗いている。「ミサコ殿……、やはりここにいたか」「源次郎さん。まだ私を王都への護衛に誘うつもりなら、お断りします。世界の危機なら、お上のエリートたちに任せればいいでしょう」「違うんだ。陰陽寮の連中は、大妖怪と戦うどころか、その力を自分たちの権力のために制御しようとして失敗した。もう王都は持ちこたえられない。世界は……本当に滅びる」 源次郎は悔しそうに拳を握りしめ、私の目を真っ直ぐに見つめた。「お前ほどの術があれば、あの九尾の狐を倒せるはずだ。頼む、世界のために、その力を貸してくれ」 なろうの主人公なら、ここで「やれやれ」と立ち上がるのかもしれない。 けれど、私は冷めた目で彼を見返した。「世界のために戦え、ですか。……あの男も、よく同じことを言っていました」「え?」「『俺たちの未来のために、今月だけ生活費を余分に貸してくれ』って。そう言って私の300万円を持ち逃げしたんです。他人が言う『みんなのため』や『二人のため』という言葉が、どれだけ安っぽくて、ただの搾取の道具に使われるか、私は身を以て知っています」 私はタライを片付けながら、冷徹に言い放った。「私は世界なんて救いません。でも、もしあの大妖怪が私のこの長屋を壊しにくるなら、その時は私の四畳半を守るために、徹底的にすり潰すだけです」 私の背後で、気がつけば青空の色が、私の放つ無意識のプレッシャーで一瞬だけ歪んだ。気の消費ゼロの究極術式が、私の感情の波に反応して、世界の理を書き換えようとしていた。 源次郎はその圧倒的な気配に気圧され、ゴクリと息を呑んで一歩後退した。「さあ、お喋りは終わりです。私はこれから、お昼ご飯の玄米を炊かなければならないので」 私は源次郎に背を向け、部屋へと戻った。 世界が滅びに向かってカウントダウンを始める中、私の部屋からは、静かにご飯の炊ける香ばしい匂いが漂い始めていた。

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