表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/8

第4話:追跡者と、冷めた白粥

「銀貨、三枚?」 畳の上で上半身を起こした男――源次郎は、私の差し出した右手を見て、ひどく間の抜けた声をあげた。 自分の命の値段としては安すぎると思ったのか、あるいは、御庭番に追われる大罪人を匿っておいて、要求するのがたったそれだけのお金だということに呆れたのか。「手持ちがなければ、体で払ってもらっても構いません。裏の井戸から水を汲んでくるか、そこに積んである傘の骨組みを削ってください」 私が淡々と言うと、源次郎は苦笑しながら、自分の懐に手を突っ込んだ。だが、彼の顔がすぐに引きつる。 懐の小袖は、御庭番の刀で無惨に切り裂かれていた。中に入れていたはずの財布ごと、道中に落としてきてしまったらしい。「すまない。一文も持っていないようだ」「……使えない男」 私は容赦なく切り捨てた。 東京にいた頃のあの男も、よく「今月ピンチだから、ちょっと貸して」と言って私の財布から一万円札を抜いていった。一度も返ってきたことはない。貸した側がなぜか下手に出なければいけないあの空気感が、私は大嫌いだった。「ただで匿う義理はありません。傷が動かせるなら、今すぐ出ていってください」「待ってくれ。お金はないが、これならある」 源次郎が懐の奥から取り出したのは、血に汚れた一通の書状だった。「これが、公儀の陰陽寮がひた隠しにしている、大妖怪の封印をわざと解こうとしている証拠だ。これを王都のしかるべき窓口に届ければ、莫大な懸賞金が出る。お前が私を王都まで護衛してくれれば、その半分を……」「興味ありません」 私は即座にシャッターを下ろした。 大妖怪の復活も、世界の危機も、私の人生には何の関係もない。そんな危険な陰謀に関わったら、それこそ銀貨どころか、命がいくつあっても足りない。 私は影の袋から、昨日なけなしの五文で買った玄米を炊いた、冷めた白粥の残りを器に盛ってテーブルに置いた。「それを食べたら、すぐに行ってください。私は内職をしなければならないので」 私が冷たく言い放ち、再び傘の糊付けに手を伸ばした、その時だった。 ――ピリッ。 私の肌を、冷たい針で刺すような感覚が襲った。 十個の究極術式の一つ、気配察知。魔力消費ゼロで発動し続けるその術が、長屋の周囲の「異常」を正確に捉えていた。 昨日通り過ぎていったはずの御庭番の気配が、戻ってきている。 それだけではない。数が、増えている。 長屋を取り囲むように、十人、十五人……。しかも、そのうちの数人は、ただの隠密ではない。王都の陰陽寮でも上位に位置する、強力な術式を持つエリート術師たちの気配だ。「……源次郎さん。あなた、書状に追跡の術式でも仕込まれてるんじゃないですか?」「え? まさか、これは厳重に封印を……」 使えない男、と心の中で確信した。 東京の男もそうだった。浮気を問い詰めたとき、「絶対にバレないと思ってた」と言い訳した。彼らの「絶対に大丈夫」ほど、信じられない言葉はこの世にない。「おい、中の者! 公儀の命である。神妙に戸を開けよ!」 長屋の表から、腹の底に響くような大声が上がった。 近隣の部屋から、何事かと怯える住人たちの気配が伝わってくる。「くそ、見つかったか……!」 源次郎が青ざめ、刀の柄に手をかける。 彼らは、この部屋に「お尋ね者の源次郎」がいると思っているのだろう。だが、もし彼らが踏み込んできて、私の顔を見たらどうなるか。 「魔力消費ゼロで究極術式を使う、最重要指名手配犯の女」がそこにいるのだ。確実に、まとめて消されにかかる。 究極術式の一つ、極大消滅呪文を使えば、この長屋の周囲一帯ごと、公儀の術師たちをチリ一つ残さず蒸発させることができる。気の消費はゼロだ。一瞬で、すべてが解決する。 けれど、私はそれをしなかった。 ここで派手な魔法をぶっ放せば、それこそ「私がここにいる」と世界中に宣伝するようなものだ。そうなれば、もう二度と、静かな生活は手に入らない。「源次郎さん。刀を収めてください。無駄です」「だが、このままでは……!」「静かに」 私は足元に、音もなく影の袋を広げた。 そして、部屋にあるものを次々と投げ込んでいく。 仕上がった五十本の唐傘。ハサミと針。木綿の糸。おひつ。 ものの三秒で、四畳半の部屋は、私が来る前と全く同じ「ただの空き部屋」になった。残されたのは、テーブルの上の、冷めた白粥だけだ。「行くよ」「どこへ……表は囲まれているんだぞ!」「上です」 私は源次郎の襟首を強引に掴むと、天井に向かって右手をかざした。 十個の究極術式の一つ、空間転移。魔力消費、ゼロ。 ドゴォン! と表の障子戸が荒々しく叩き割られる音と同時に、私たちの体は、長屋の狭い天井をすり抜けて、夜空の向こうへと静かに消えた。 東京にいた頃、あの男の借金取りがアパートに来たとき、私はただ布団の中で震えていることしかできなかった。 けれど、今の私は違う。 最強の力を、私は「戦うため」ではなく、「私の静かな生活から、あいつらをシャットアウトするため」に使う。 公儀の連中が、誰もいない部屋で冷めた白粥を見つめて首を傾げている頃、私と源次郎は、すでに次の宿場町へ向かう暗い街道を歩いていた。「……あの、ミサコ殿。今のは一体……」「夜逃げです。これで貸しが一つ増えましたね。次の街に着いたら、銀貨六枚、確実に払ってもらいますから」 私はフードを深く被り、真っ暗な道を、淡々と、しかし確かな足取りで進んでいった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ