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第3話:通り過ぎる御庭番、見つめる私

 障子戸を叩く音は、二度、三度と続いた。 夜の静まり返った裏長屋には、その小さな音さえも不気味に響く。 私は気配察知を発動したまま、座った姿勢を崩さなかった。気の消費はゼロだから、相手の呼吸の深さ、心臓の鼓動の速さまで手に取るように分かる。 外にいるのは、男だ。息がひどく荒い。どこかを怪我しているのか、衣服にべっとりと血が滲んでいるのが、術の感覚を通して伝わってきた。「……誰ですか」 私が低く声をかけると、戸の向こうで男が短く息を呑んだ。「頼む、一晩だけでいい。匿ってくれ。追われているんだ」 かすれた、しかしよく通る声だった。若くはないが、老いてもいない。 東京にいた頃の私なら、ここで慌てて戸を開け、怪我の手当てをして、手元のなけなしのお金で薬を買いに走ったかもしれない。あのクズ男が「友達と揉めてさ」と顔を腫らして帰ってきた夜のように。 けれど、今の私は冷徹だった。 怪我人を助ければ、その裏にある面倒事まで一緒に引き受けることになる。この四畳半の部屋は、私が来月の店賃を払うために、傘張りの内職をして必死に守っている私の牙城だ。他人の事情で汚されてたまるものか。「帰ってください。役所にでも駆け込めばいいでしょう」「役所には行けない。俺を追っているのは……公儀の隠密、御庭番だ」 男のその言葉に、私の眉がわずかに動いた。 公儀。私を謀反人として追い回している、あの烏帽子を被った術師たちの総本山だ。「俺は、公儀の不正の証拠を握った。陰陽寮が、西の果ての大妖怪の力を利用して、意図的に街を滅ぼそうとしている証拠を……」 そこまで言ったところで、男の気配ががくりと落ちた。体力の限界だったのだろう。そのまま障子戸に寄りかかるようにして、床にへたり込む音がした。 私はため息をつき、立ち上がった。 ここで男に死なれるのが一番迷惑だ。大家の老婆に見つかれば、一発で店賃を値上げされるか、追い出される。 戸を薄く開け、男の襟首を掴んで部屋の中に引きずり込んだ。 男は三十半ばほどの、仕立てのいい小袖を着た武士だった。胸元から脇腹にかけて、鋭い刃物で切り裂かれたような傷がある。 私は影の袋を足元に広げ、その中に手を突っ込んだ。 純金の香炉や霊晶の奥、東京から持ってきた私のバッグの底に眠っていたものを取り出す。 市販の消毒液と、絆創膏、それから痛み止めの錠剤。 究極術式の一つである治癒結界を使えば、こんな傷は一瞬で、跡形もなく消し去ることができる。気の消費もゼロだ。 けれど、私はそれを使わない。万が一、この男が公儀のスパイで、私の究極術式を確かめるための罠だった場合、術の残滓で一発で正体がバレるからだ。「痛いよ。我慢して」 私は淡々と男の衣服をはぎ取り、消毒液を傷口にぶちまけた。男が気絶したままウッと呻く。東京の百円ショップで買った大きめの絆創膏を数枚貼り、痛み止めを無理やり口に押し込んで、井戸の冷たい水で飲ませた。 翌朝。 窓の外が白み始めた頃、気配察知が異常を捉えた。 長屋の前の大通りを、一団の影が通り過ぎていく。足音が全くしない。着物の擦れる音さえ消している。 御庭番だ。 私は障子の隙間から、そっと外を覗いた。 黒い装束に身を包んだ男たちが、まるで街の景色に溶け込むようにして、油断なく周囲を警戒しながら歩いている。その中の一人、リーダー格らしき男が持っているお札が、微かに青く光っていた。あれは高度な探索の術式だ。 私の四畳半の部屋には、いま、彼らが追っている怪我人が寝ている。 もし見つかれば、私も同罪として捕まるだろう。 けれど、私は男の横で、昨日作りかけだった唐傘の糊付けを、淡々と再開した。  もし、御庭番がこの部屋の戸を開けたら? その時は、十個の究極術式の一つである極大消滅呪文を、この長屋ごと彼らに叩き込むだけだ。気の消費はゼロだから、文字通り一瞬で、彼らをこの世から消し去ることができる。 そうすれば、私の正体はバレるし、この部屋も失う。けれど、私は二度と、他人の力に屈して泣き寝入りはしない。いつでも世界をひっくり返せる力を、私はこの影の袋の中に持っているのだから。 御庭番の一団は、私の部屋の前の路地を、そのまま通り過ぎていった。 私の気配察知の範囲から彼らの影が完全に消えたとき、私はようやく、ふう、と小さく息を吐いた。「……起きたか」 畳の上で、男がゆっくりと目を覚ました。胸元の見慣れない絆創膏を見て、呆然としている。「ここは……。お前は一体……」「通りすがりの傘張りです。命を助けた分の代金として、銀貨三枚、いただきます」 私は糊のついた手を拭いもせず、男に向かって容赦なく右手を差し出した。 公儀の正義も、大妖怪の驚異も、私の知ったことではない。 いまの私に必要なのは、来月の店賃、そのリアルな数字だけだった。

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