第2話:落ちる影の袋と、三枚の銀貨
新しい宿場町に着いて最初にしたのは、やはり部屋探しだった。 王都から西へ二日ほど歩いた場所にある宿場町・川越。ここは本物の江戸でいう川越と同じように、蔵造りの建物が並び、商人たちの活気で溢れている。 けれど、私が向かうのは大通りではなく、泥水が溜まった路地裏だ。「ここなら、月に銀貨三枚でいいよ。店賃は前払いだ」 顎の下に大きなイボのある大家の老婆が、鍵をジャラジャラと鳴らしながら言った。 案内されたのは、長屋の一番奥、日当たりの悪い四畳半の部屋だった。畳は擦り切れて黄色く変色し、壁には前の住人がつけたのだろうか、妙な染みが残っている。 私は巾着から、手持ちのなけなしの銅貨をかき集めた。この世界では、銀貨一枚が銅貨(文)でいうとおよそ百文に相当する。手元にあったのは、前回の夜逃げ前に仕立て直しで稼いだ分と、道中で少し足した計三百文。 支払いを済ませると、私の手元には文字通り、一枚の銅貨も残らなかった。「……また、ゼロからか」 大家が去った後、私は一人、畳の上に座り込んで呟いた。 東京にいた頃も、毎月の家賃引き落とし日の翌日は、通帳の残高が三桁になるのが常だった。あの頃は「彼が今月はバイトを頑張るって言ってたから」と自分に言い訳をして、コンビニの安い食パンで一週間を凌いだりした。 思い出すだけで、口の中に苦い砂のような味が広がる。 私は一息つくと、足元に『影の袋』を広げた。 私の影が床一面に広がり、底のない漆黒の沼のようになる。その中に手を突っ込み、中身を「確認」する。 そこには、王都の陰陽寮からどさくさ紛れに吸い込んだ、純金製の見事な香炉が鎮座している。さらに、逃走中に私を襲ってきた巨大な熊の化け物を、身体強化の拳一発で殴り倒した際にドロップした、拳大の「青魂晶」もある。高位の術師が使えば、街一つを吹き飛ばす術の触媒になるような大層な代物だ。 もし、これを大通りの質屋や、術師ギルドのような場所に持ち込めば、銀貨どころか金貨が何十枚、何百枚と手に入るだろう。 そうすれば、こんな湿気臭い長屋ではなく、白米が毎日食べられる高級な旅籠の離れを貸し切ることだってできる。 けれど、私は絶対にそれをしない。 この世界のお上――公儀のネットワークを舐めてはいけない。 「魔力消費ゼロで十個の究極術を使う女」は、国家を揺るがす最重要指名手配犯だ。そんな下町の人間が持ち込むはずのないお宝を店に出せば、翌朝には烏帽子を被った冷徹なエリート術師たちと、刀を持った武士の一団に長屋を包囲される。 世界を滅ぼせる武器を持っていても、それを日々の米や味噌に変えることはできない。 チート能力は、私の「店賃」にはなってくれないのだ。「よし、働くか」 私は『影の袋』から、前の街で夜逃げする直前に放り込んでおいた、内職用のハサミと針、それから少しの木綿糸を取り出した。部屋の中が、一瞬で「作業場」に変わる。 川越の街の案内所で紹介してもらった仕事は、今回は着物の仕立て直しではなく、「傘張り」だった。 竹でできた骨組みに、糊を塗って和紙を貼り付けていく。一本作って、一文。百本作って、ようやく銀貨一枚分になる計算だ。 東京での事務職時代、私は一時間に数百枚の書類をファイリングし、狂いのないエクセルシートを作成していた。あの頃の、機械のように正確な単純作業のスキルが、こんな異世界の裏長屋で役に立つとは思わなかった。 私は淡々と、糊を塗り、紙を貼る。 究極術式の一つである『微細認識』を、私はここで無駄に発動させた。気の消費はゼロだから、どれだけ使っても脳が疲れることはない。 この術を使うと、和紙の繊維の毛羽立ちや、糊の厚みがミクロン単位で頭の中に視覚化される。 プロの職人が見たら絶句するほど、完璧な均一さで、私は次々と傘を仕上げていった。 外がすっかり暗くなり、油皿の小さな灯火だけが部屋を照らす頃には、私の目の前には完璧な仕上がりの唐傘が五十本、きれいに積み上がっていた。 これで五十文。明日の食費と、次の店賃への貯えの第一歩だ。 ぎゅう、と不意に私のお腹が鳴った。 そういえば、ここに着いてから何も食べていない。 私は『影の袋』に再び手を伸ばした。中から取り出したのは、前の街を出るときになけなしのお金で買っておいた、干からびてカチカチになった玄米の握り飯が二個。 それと、東京から転移したあの日、私のポケットに入っていた、コンビニの「塩昆布」の食べかけの袋。 カチカチの玄米に、貴重な塩昆布を数粒乗せ、湯を沸かす炭代ももったいないので、井戸から汲んできた冷たい水で無理やり流し込む。 ボソボソとした食感と、懐かしい日本の塩気が口の中に広がった。「……あいつとファミレスにいた時よりは、マシ」 私は咀嚼しながら、ぼんやりと壁の染みを見つめた。 あの男は、私が「お腹すいたね」と言っても、「俺、今曲のアイデアが浮かんでるから邪魔しないで」と不機嫌そうに言い、深夜に自分が腹が減ると「ミサコ、コンビニで弁当買ってきて。あ、俺唐揚げね」と平気で私に財布を差し出させた。お金を払うのも、夜道を行くのも、いつも私だった。 今の私は、誰の顔色もうかがっていない。 世界を滅ぼせる術を隠し持ちながら、四畳半の畳の上で、自分で作った傘を数えている。 来月の店賃、銀貨三枚。 私の世界は、今のところ、その三枚の銀貨の重さだけで十分に満たされていた。 トントン。 その時、静まり返った長屋の障子戸を、遠慮がちに叩く音がした。 『気配察知』が、部屋の外に立つ「一人の男」の存在を告げていた。公儀の隠密の、あの冷徹な気配とは違う。どこか疲弊し、焦燥しきった、しかし妙に強い力を持った人間の気配だった。




