第1話:お上の命と、裏長屋の店賃
どんなに世界を滅ぼせるほどの術が使えても、お腹は減るし、月末になれば大家が店賃を執り立てにやってくる。それがこの世界の、そして私の現実だった。 大邑の下町、木造の長屋がひしめく路地の奥。建付けが悪く、風が吹くたびにガタガタと鳴る障子戸の前に、私は座っていた。夕方の薄暗い光の中で、使い古された木綿の巾着をひっくり返す。中から転がり出たのは、鈍い鈍色をした寛永通宝が五枚。つまり五文。 これが、今の私の全財産だった。 東京で付き合っていた男は、絵に描いたようなクズだった。 自称・売れないミュージシャンの彼は、「俺の才能を理解してくれるのはミサコだけだ」と囁きながら、私の給料日に合わせて甘えてきた。家賃も、光熱費も、食費も、すべて私の口座から引き落とされた。私が残業でボロボロになって帰宅しても、彼は部屋を散らかしたままゲームをしていて、「おかえり、飯まだ?」と悪びれもせずに言った。 結婚資金にと、私が事務職の薄給からコツコツと貯めていた三百万円をすべて持ち逃げされたのは、梅雨の時期だった。机の上にぽつんと置かれた「ごめん、夢を追いかけたい」という破り取ったノートの切れ端を見たとき、涙さえ出なかった。ただ、頭の芯がすうっと冷たくなったのを覚えている。 雨の踏切前で、赤く点滅する警報機を見つめながら、「ああ、もう全部どうでもいいや」と思った次の瞬間には、私はこの和風の異世界にある、巨大な「陰陽寮」の祭壇に立っていた。 烏帽子を被り、やたらと仕立てのいい狩衣を着た男たちが、私を囲んで大騒ぎしていた。 彼らが言うには、私の体には『究極術式』と呼ばれる、国に一つあるかないかの大層な術が十個も宿っているらしい。しかも、それを『気の消費ゼロ』――つまり、呼吸をするのと同じように、どれだけ連発しても一切疲弊することなく無限に放ち続けられるという、規格外のチート特性を持って。さらに、目の前の空間に私の影を広げれば、そこにあらゆる物質を時間を止めたまま収納できる『影の袋』という異空間の倉庫まで繋がっていた。「お前は神から遣わされた救世主だ。さあ、西の果てから迫る大妖を討伐し、我が国に平穏をもたらすがよい。お上もお前の功績を讃え、相応の地位を約束される」 髭を生やした偉そうな役人は、さも当然のように私に命令した。 けれど、私は断った。 東京にいた頃、私はあの男のために自分を削り、都合よく使われ、挙句の果てに「お前が勝手に尽くしたんだろ」と言わんばかりに捨てられた。他人のために働き、他人の都合に振り回され、都合のいい道具にされるのは、もうあの踏切の夜で終わりにすると決めていた。 大妖怪なんて、会ったこともない他人の都合だ。世界が滅びるかどうかより、明日私が食べていけるか、誰にも頭を下げずに自分の稼ぎだけでパン(ここではボソボソの玄米だが)を食べられるかどうかのほうが、私にとってはよっぽど重大な問題だった。「お上の命に背くか。ならば謀反人として捕らえよ」 周囲の武士たちが一斉に刀を抜いた瞬間、私は無意識に『影の袋』を足元に広げた。 ズズ、と音を立てて、陰陽寮の頑丈な石畳ごと、彼らの抜いたばかりの刀をすべて空間に吸い込んだ。武器を失って呆然とする男たちを置き去りにして、私はそのまま全速力で外へ走り出した。 それ以来、私は公儀の追っ手から逃げ回る身となったのだ。「はぁ……」 ため息をつき、おひつの上に五枚の銅貨を綺麗に一列に並べる。 実は、『影の袋』の中には、陰陽寮からどさくさまぎれに奪ってしまった黄金の香炉や、逃げる途中で私を襲ってきた化け物を一撃で殴り倒した際に手に入れた、親指ほどの大きさの「霊晶」がいくつも転がっている。 これを街の質屋にでも持ち込めば、一生遊んで暮らせるほどの金になることは分かっている。 けれど、そんなものを下町の小汚い店に持ち込めば、一発で足がつく。「例の、究極の術を使う女がいたぞ」と役所に通報されて終わりだ。 だから、宝の持ち腐れだと知りながらも、私は近所の内職屋から預かった、破れた古い着物の仕立て直しという地味な作業で日銭を稼いでいた。一着縫って、二文。これで買えるのは、少し酸味のある硬い玄米と、具のない薄い味噌汁だけだ。でも、これでいい。自分の手で、誰にも依存せずに稼いだお金で食べるご飯は、東京で男の顔色を伺いながら食べていたデパ地下の惣菜より、ずっと胃に優しかった。 障子の隙間から外を眺めると、薄暗い夕闇の向こう、街の中央にそびえる巨大な城の天守閣が、うっすらと松明の光に浮かび上がっていた。 あそこには、私より何倍も弱いくせに、贅沢な暮らしをして「世界のために戦え」などと命令を飛ばしてくる奴らがいる。今でも私を探して、同心や隠密が街の路地を徘徊しているのだろう。 ふと、部屋の空気がわずかに冷えた。肌の産毛がチリチリと逆立つような感覚。 気配察知――これも、十個ある究極術の一つだ。気を一切消費しないため、私はただ座っているだけで、半径百メートル以内の生き物の呼吸がすべて頭の中に地図のように流れ込んでくる。 長屋の入り口の、どぶ川沿いの狭い路地に、不自然な足音が二人分。 着物の裾が擦れる微かな音。忍び特有の、体重を完全に殺した爪先立ちの歩法。公儀の密偵だ。ついにこの寂れた下町の裏長屋まで、私の匂いを嗅ぎつけてきたらしい。 普通なら、ここでパニックになるのだろう。 あるいは、十個の究極術の一つである『天火滅尽の術』を唱えれば、この長屋ごと、追っ手の二人を跡形もなく灰にすることだってできる。気の消費はゼロだから、何発打っても疲れることさえ知らない。 けれど、私はそんな派手なことはしなかった。そんなことをすれば、また別の強力な追っ手を呼ぶだけだし、何より、私が今日、なけなしの端金で買ったばかりの玄米が燃えてしまう。せっかく綺麗に掃き掃除をしたこの四畳半の畳が、他人の血や灰で汚れるのは真っ平ご免だった。「……また、夜逃げか」 私は小さく呟くと、おひつの上に並べていた五枚の硬貨を、静かに巾着の中に戻した。 ハサミや針、内職の糸や布、そして数枚の着替え。それら一式を、足元に広げた『影の袋』の中に放り込む。ものの数秒で、部屋の中は私が来る前とまったく変わらない、ただの何もない空き部屋に戻った。 みぃ、と古い木造の階段が軋む音が聞こえる。すぐそこまで来ている。 私は裏の小さな窓を静かに開き、どぶ川の流れる暗い路地裏へと滑り降りた。究極術の一種である身体強化が、私の着地の衝撃と音を完全に無効化する。 足音一つ立てず、私は夜の帳が下りるお江戸のような街の闇へと溶け込んでいった。 東京にいた頃も、男が借金取りから逃げるために、アパートの家賃を滞納したまま夜逃げに付き合わされたことがある。あの時は惨めで、自分の情けなさに夜の国道沿いで涙が止まらなかった。 けれど今は、一滴の涙も出ない。 私のポケット(影の袋)には、国を一つ簡単に傾けられるほどの最強の術が眠っている。使わないけれど、持っている。ただそれだけの事実が、私の心をひどく冷徹に、そして自由にさせていた。 さあ、次の宿場町へ行こう。そこでまた、誰も私を知らない、静かに暮らすための安い長屋を探すのだ。




