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聖域の残響

前回: 自分を犠牲にしてまでも凛の力になりたい悠真。


凛は彼の聖域へと踏み入れる。

悠真は、凛の震える指先を力強く握りしめた。


その手のひらは驚くほど熱く、迷いがない。


彼はギターケースを肩に担ぎ直すと、凛の目を見つめて短く頷いた。


(行こう)


声は出さない。


けれど、その力強い足取りが何よりも雄弁に誘っていた。


公園を抜け、大学の喧騒を遠ざけ、細い路地をいくつか曲がる。


凛は、自分の手を引く彼の背中をじっと見つめていた。


パーカーのフードに隠されたその横顔が、今は少しだけ大人びて見える。


辿り着いたのは、古いアパートの一室。


足を踏み入れた瞬間、独特の匂いが鼻をくすぐった。


古い木材、弦の金属の香り、そして、彼自身の匂い。


部屋の隅には数本のギターが立てかけられ、防音材が壁一面に貼られている。


そこは、SNSに投稿されるあの「音」たちが生まれる、世界でたった一つの聖域だった。


悠真はドアを閉め、鍵をかけると、ようやく深く、長い息を吐き出した。


もう、誰かに見つかる心配も、自分の声が漏れ聞こえる不安もない。


彼はバッグから新しいノートを取り出すと、凛の目の前で大きく書き込んだ。


 『ここなら、誰にも邪魔されない。

さっきの続き、ちゃんと話したいんだ』


凛は、防音室特有の「重い静寂」の中に立っていた。


補聴器を通しても何も聞こえないはずの世界。


なのに、悠真が目の前で自分のためにペンを動かしているという事実だけで、鼓動が耳の奥でうるさいほど鳴り響いている。


悠真は椅子を引き、凛を座らせた。


それから自分も床に腰を下ろし、彼女の膝の上に、一番大切にしているアコースティックギターをそっと横たえた。


 『君が泣いた理由、僕に教えてくれるまで、今日は帰さないから』


ノートに綴られた、少しだけ強引で、けれど切実な言葉。


凛は、ギターのボディを抱きしめるように手を置いた。


木の冷たさが、徐々に自分の体温で温まっていく。


二人きりの、音のない対話が、今ここから始まろうとしていた。


凛は膝の上のギターをぎゅっと抱きしめ、視線を落としたままペンを動かした。


一文字書くごとに、胸の奥がキリリと痛む。


 『さっき、大学の中庭で、悠真くんが女の子と楽しそうに笑っているのを見て、嫌だったの。


私は、悠真くんが「声」を出して笑うところを見たことがないから。


あの子には届いている音が、私には一生、届かないんだって思い知らされた気がして』


悠真は息を止めて、ノートを覗き込んでいる。


凛は震える手で、さらに続けて書き込んだ。


 『私は、あなたの作る音楽の「本当の音」を知らない。


どんなに振動を感じても、それが正しい音色なのか、私にはわからない。


だから、耳が聞こえるあの子たちみたいに、あなたの歌を理解してあげられない。


そんな私が、あなたの隣にいてもいいのかな。


私の「静かな世界」に、あなたを閉じ込めちゃってるんじゃないかな。


そう思ったら、怖くなって、涙が止まらなくなっちゃったの』


書き終えて、凛はノートを悠真の膝の上に置いた。


床に落ちた涙の跡が、紙をわずかに波打たせている。


沈黙。


凛にとってはいつものことなのに、今の沈黙は耐え難いほど重い。


悠真はしばらくの間、その文字をじっと見つめていた。


まるで、凛の心の傷を一つひとつ、自分の指でなぞっているかのように。


彼は真っ直ぐに、逸らさずに、凛の瞳を見つめる。


そして、彼は大きく口を動かした。


(――違う)


声は、出していない。


けれど、その力強い唇の形だけで、彼の否定が凛の心に直接響く。


悠真は、凛の掌を自分の「心臓の上」へと導いた。


第七話「聖域の残響」最後まで読んでいただきありがとうございます。


全ての想いを打ち明けた凛。


静かに否定する悠真は、落ち込む凛に何を伝えるのか。


二人の心臓が鳴り響く。


次回もどうぞよろしくお願いします。

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