禁じられた楽器
前回: 大学の中庭で、「彼の声を知らない」という壁を突きつけられた凛。
いつものように公園でギターを弾く悠真に想いが溢れ出る。
悠真の指が弦を弾くたび、ギターのボディを通じて、波紋のような振動が凛の手のひらに押し寄せる。
それは、さっき中庭で見た「声」で笑い合う彼の姿を、一瞬でかき消すほどに力強く、ひたむきな震えだった。
(……ああ、やっぱり、この人の音楽が好きだ)
苦しくて、温かくて、やりきれない。
自分にしか届かないこの「音」を、もっとずっと感じていたい。
誰にも渡したくない。
そんな独占欲と、自分には届かない「声」の世界への絶望が混ざり合い、胸の奥で熱い塊になった。
視界がふわりと滲む。
瞬きをするたび、熱い滴が頬を滑り落ち、ギターの乾いた木肌に小さな、小さな染みを作った。
ぴたり、と。
手のひらに伝わっていた心地よい震えが止まった。
凛は、何が起きたのか分からず、ゆっくりと顔を上げた。
目の前にいる悠真が、ギターを抱えたまま、彫像のように固まっている。
その瞳は、信じられないものを見るかのように大きく見開かれ、真っ直ぐに凛の顔を見つめていた。
彼は慌てて片手を伸ばし、空中で止める。
触れていいのか、それとも拭っていいのか迷うような、微かな手の震え。
そこで初めて、凛は自分の頬が濡れていることに気づいた。
慌てて手の甲で顔を拭うが、一度溢れ出した感情は、止める術を知らない。
(どうしよう。変に思われたかな。……悲しい曲じゃないのに、どうして)
凛は必死に笑顔を作ろうとしたが、今度は唇が震えてうまく形にならない。
悠真は、持っていたピックをベンチに放り出すと、猛烈な勢いでノートにペンを走らせた。
書きなぐられた文字は、今までで一番、彼の「声」が聞こえてきそうなほど必死だった。
『……どこか、痛い? 僕の弾き方、変だった?』
凛は首を横に振る。
違う。そうじゃない。
けれど、本当の理由をどう書けばいいのか分からない。
悠真は、凛の震える指先をそっと包み込むように握りしめる。
ノートを介さない、直接的な体温の共有。
彼はそのまま、凛の掌を自分の「喉」へと導く。
そして、彼は肺を大きく震わせ、息を、吸い込んだ。
悠真の喉が、大きく波打った。
肺に溜め込まれた空気が、声帯を震わせようとせり上がってくる。
彼が、禁じられていた「声」を自分に届けようとしている。
(――だめ!)
凛は反射的に、彼の喉に添えていた手を滑らせ、その唇を自分の掌で覆い隠した。
柔らかな唇の感触と、そこから漏れ出そうとしていた熱い吐息が、凛の手のひらを叩く。
悠真が目を見開いて固まった。
凛は必死に首を横に振る。涙でぐちゃぐちゃになった顔のまま、枯れ葉の舞う公園の四方へ視線を走らせた。
まだ、遠くに学生たちの人影がある。
誰かがこちらを振り返れば、あるいはその「声」を耳にすれば、彼が守ってきた静かな日常は壊れてしまう。
SNSで神格化された「ハル」が、こんな場所で一人の女の子のために声を荒らげているなんて知られたら。
凛は震える手で、ベンチに転がっていたノートをひっつかんだ。
涙が紙に滲むのも構わず、力任せにペンを走らせる。
『 お願い、悠真くん。ここには人がいる。あなたの「自由」がなくなってしまう。』
書き終えると、凛は彼の服の裾をぎゅっと握りしめた。
自分の耳には聞こえない「声」。
けれど、それがどれほど周囲に響き、どれほど彼を窮地に追い込む可能性があるかは痛いほど分かっていた。
悠真は、凛の掌越しに、深く、深く息を吐き出した。
肩の力が抜け、彼はゆっくりと、凛の手を自分の口元から引き離した。
その手はまだ熱を帯びていて、凛の指先を優しく、包み込むように握りしめる。
彼はノートを受け取ると、凛の真っ赤になった目を見つめながら、一文字ずつ噛み締めるように書いた。
『……君の方が、大事なんだ。
バレてもいい。君が泣いてる理由も分からないまま、ギターを弾き続けるなんて、僕にはできない』
ノートの文字が、凛の視界を再び滲ませる。
彼は、自分の世界を壊してでも、凛の「静寂」の中に踏み込もうとしていた。
第六話「禁じられた楽器」最後まで読んでいただきありがとうございます。
悠真の身の安全を考慮して、声という楽器が鳴るのを止めた凛。
次回もどうぞよろしくお願いします。




