名前の無い旋律
前回: 公園で語り合った二人。
ギターの振動を、心臓で聴いた凛は生まれて初めて「音」に触れる。
夕闇が迫り、公園の街灯がひとつ、またひとつと灯り始める。
彼はギターを傍らに置き、凛の手からノートをそっと引き寄せた。
『僕は、ハル。……本名は、悠真。リアルの友達には、ギターを弾いてることさえ内緒なんだ』
凛は、その文字の横に添えられたギターの落書きを見つめる。
彼がなぜ自分に心を開いたのか。
その答えも、迷いのない筆致で綴られた。
『驚かないでくれて、ありがとう。僕が「ハル」だって気づいたのに、騒いだり、スマホを向けたりしないで、真っ先にノートを出してくれたから……。なんだか、信じられる気がしたんだ』
凛は胸が熱くなるのを感じた。
聞こえない世界に住む自分を、彼は「特別」としてではなく、「一人の人間」として見つめてくれている。
『私は、凛。……音のない世界にいるけれど、あなたの指が動くたびに、私の中に新しい景色が生まれます。さっきの振動、すごく綺麗だった』
凛がそう書くと、悠真は少し照れくさそうに鼻の頭を掻いた。
それから、何かを決意したようにノートの隅にQRコードを素早く描こうとして——「あ」と小さく口を動かし、ペンを止める。
『……絵は下手だから、これじゃ読み取れないな』
彼は苦笑しながら、自分のスマートフォンの画面を表示させて、凛に差し出した。
画面には、あのアカウントのプロフィールではなく、個人の連絡先が表示されている。
『凛のこと、もっと知りたい。……いいかな?』
ノートに記された、控えめな問いかけ。
凛は自分のスマートフォンを取り出すと、震える手でカメラを起動した。
ピッと小さな電子音が鳴ったはずだが、凛には聞こえない。
けれど、悠真のスマートフォンの画面が明るく光り、新しい友達が追加されたことを知らせる振動が、凛の指先に心地よく伝わってきた。
『よろしくね、悠真くん』
ノートの最後のページに、凛は精一杯の笑顔を込めてそう書いた。
二人の間に流れる時間は、もう「動画の投稿主とファン」ではなく、一対一の「秘密を共有した友人」へと変わっていた。
公園での出会いから三日後。
凛は大学の講堂へ続く並木道を歩いていた。
四月のキャンパスは、新入生の勧誘やサークルの呼び込みで溢れ、活気に満ちている。
補聴器を外している凛には、その熱気は「色の氾濫」や「空気の震え」としてしか伝わらない。
(……あ)
ふと、視界の端に既視感のある「背中」が映った。
学食へ向かう人波を避けるように、少し猫背気味に歩く影。
グレーのパーカーに、背負ったギターケース。
その歩幅、リズム。
凛は思わず駆け出し、彼の背中を軽く叩いた。
振り返った彼は、驚いたように目を見開いた。
フードの隙間から覗くその瞳は、間違いなくあの公園で出会った悠真だった。
「…………っ!」
彼は慌てて口元を押さえ、周囲をキョロキョロと見渡した。
自分が「ハル」だとバレてはいけないという、彼なりの警戒心だ。
凛はクスッと笑って、すぐにカバンからあのノートを取り出した。
『同じ大学だったんだね。私は文学部。悠真くんは?』
悠真は安堵したように肩の力を抜くと、凛のペンを奪ってさらさらと書き込む。
『僕は工学部。……まさか、こんなに早く再会するなんて。ギター持ってるから、すぐバレちゃうかと思った』
周囲では学生たちが大声で笑い、看板を掲げて騒いでいる。
その騒音の渦中で、二人だけがノートを覗き込み、一文字一文字を大切に読み合っている。
まるで、透明な膜で仕切られた「二人だけのシェルター」にいるようだった。
『講義、これから?』
凛が問いかけると、悠真は腕時計を見て、少し困ったように眉を下げた。
『あと十分で始まる。……でも、もう少しだけ、こうして話してたいかも』
彼はノートの端に、小さな音符のマークを一つ描いた。
それは、言葉にできない「名残惜しさ」の代わりのように見えた。
『放課後、またあの公園で。待っててもいい?』
凛がそう書き込むと、悠真は力強く、何度も頷く。
別れ際、彼は小さく手を振り、唇を動かした。
(また、あとで)
その形がはっきりと読めた。
耳には届かないはずのその「声」が、春の風に乗って凛の胸に真っ直ぐに飛び込んできた。
第四話「名前の無い旋律」最後まで読んでいただきありがとうございます。
お互いの名前を教え合った二人の関係は「大学の友人」に進展。
静かに会話する「シェルター」の中で、次の約束が交わされる。
次回も、どうぞよろしくお願いします。




