語られない秘密
前回: 近所の公園で偶然出会った2人。
孤高のギタリスト「ハル」と音の無い世界で生きる「凛」。
彼らの口から語られない秘密が、ノートの上で静かに語られる。
凛はノートのページをめくり、確信を込めて次の一文を書き殴った。
『SNSの、ハルさん……ですよね?』
その文字を目にした瞬間、彼の肩が大きく跳ねた。
ギターを抱える指が、行き場を失ったように弦の上で震える。
彼は顔を背けようとしたが、凛はその瞳を逃さなかった。
「…………っ」
彼の唇が微かに動く。
何かを言いかけ、けれど声には出さず、ただ困惑したように視線を泳がせた。
その指のタコ、手首の細い傷、そして今、目の前で戸惑っているその空気感。
凛は確信した。
画面越しに恋い焦がれた「彼」が、今、自分の手の届く距離にいる。
凛は一度深く息を吸い、迷いを振り切るようにペンを走らせた。
『一週間前、あなたの動画にコメントをしました。
「音が聞こえなくても、あなたの歌は届いています」』
彼はハッとしたように顔を上げ、凛を凝視した。
凛は自嘲気味に、けれど誇らしげに少しだけ微笑んで、自分の耳を指さす。
そして、ゆっくりと、彼が動画で返してくれたあの動作をなぞった。
左手で作る、丁寧な「ありがとう」の手話。
『私です。あの時、手話を返してくれた、耳の聞こえない女の子です』
ノートを突き出した凛の手が、わずかに震えていた。
夕暮れの公園。
子供たちの声も、遠くの車の走行音も、彼女の世界には存在しない。
けれど、目の前の彼がギターをベンチに置き、ゆっくりと立ち上がった時、空気が熱を帯びて動いたことだけは分かった。
彼はパーカーのフードを脱ぎ捨てた。
露わになったその素顔は、画面越しに想像していたよりもずっと幼く、泣きそうなほど優しい顔立ちをしていた。
彼はノートを奪うように手に取ると、凛のペンを借りて、震える手でこう書き込む。
『見つけてくれて、ありがとう』
彼はパーカーのフードを脱いだまま、辺りを一度だけ警戒するように見回した。
それから、凛から奪うように手に取ったペンを、震える指で走らせる。
『ごめん、声は出せないんだ。……バレると、いろいろ面倒なことになっちゃうから』
走り書きされた文字は、少し乱暴で、けれどどこか温かい。
凛はそのノートを自分の方へ引き寄せると、首を傾げて問いかけた。
『有名人だから?』
彼は苦笑いして、首を振る。
『……自分でもよくわかんない。ただ、歌う時以外は、誰にも「僕」だって気づかれたくないんだ。SNSの「ハル」は僕だけど、現実の僕は、ただの冴えない男だから』
ノートの端に描かれた小さな泣き顔の落書き。
それを見て、凛の胸の奥がチクリと痛んだ。
画面の向こう側で力強く弦を弾いていたあの指先も、今は所在なげに自分の膝を叩いている。
凛は迷わず、ペンを走らせた。
『私は、今のあなたの指も、好きですよ。動画で見た時より、ずっと一生懸命に動いてる』
書き終えてノートを差し出すと、彼の視線が文字の上で止まった。
一瞬、時が止まったような静寂が二人を包む。
凛には音が聞こえない。
だからこそ、彼が大きく息を呑んだ気配や、耳の付け根がじわじわと赤くなっていく様子が、痛いほど鮮明に伝わってくる。
彼は深く顔を伏せたまま、今度はゆっくりと、丁寧に文字を綴った。
『……耳、本当に聞こえないの?』
凛は無言で頷く。
すると彼は、自分の抱えていたギターを、そっ
と凛の方へと差し出した。
『じゃあ、これ。触ってみて』
戸惑いながらも、凛がその木製のボディに両手を添える。
彼はノートを脇に置き、ピックを使わず、指の腹で一本の弦を優しく弾いた。
——トーン。
指先から、手のひらから、腕を通って心臓まで。
温かくて、どこか切ない「震え」が、凛の全身を駆け抜けた。
『聞こえる?』
彼がノートに書いたその問いに、凛は大きく、何度も頷いた。
音が聞こえない世界で、初めて「彼の声」に触れた瞬間だった。
第三話「語られない秘密」最後まで読んでいただきありがとうございます。
会話が出来ない二人が、静かに語り合う。
静寂に包まれた、柔らかい関係をイメージして書きました。
みなさんに伝わっていたら嬉しいです。
次回も、どうぞよろしくお願いします。




