震えた空気
前回: 悠真の正体がバレ、足手纏いだと感じた凛。
音の無い世界で生きる凛の、空気が震える。
屋上のフェンス越しに吹き付ける風が、凛の髪を乱暴にかき乱す。
目の前に立つ悠真は、走ってきたせいか肩を激しく上下させ、服の袖には誰かに掴まれたようなシワが寄っていた。
そのボロボロの姿が、彼がどれほどの「ノイズ」の中を潜り抜けて自分の元へ来てくれたのかを物語っている。
凛は、カバンの中のノートを握りしめていた。
そこには、さっきまで泣きながら書き殴っていた別れの言葉がある。
『私と一緒にいたら、あなたが壊れてしまう。だから、もう会わない方がいい』
けれど、悠真の瞳を見た瞬間、その決意は音もなく崩れ去った。
彼は、今にも消えてしまいそうな凛を見つけると、吸い寄せられるように駆け寄り、その細い肩をがっしりと掴んだ。
「…………っ!」
悠真の唇が、必死に何かを紡ごうと動く。
謝っているのか、それとも引き止めているのか。
凛は、彼の喉の奥で鳴っているであろう「声」を、人生で初めて、心から「聴きたい」と願った。
同時に、自分の中に溜まっていたどろどろとした不安や劣等感が、熱い塊となって喉元までせり上がってくる。
ノートなんていらない。
ペンも、スマホも、もうまどろっこしい。
凛は、悠真の胸元を力一杯に掴み、顔を上げた。
そして、一度も正解を知らない、自分の「声」を、静寂の世界から解き放った。
「…………す、き」
喉がひりつくほど震えた。
自分の耳には、それがどんな音色なのか、正しく発音できているのかさえ分からない。
ひどく掠れていて、不格好で、頼りない空気の塊。
けれど、悠真の体が、弾かれたようにビクリと震えた。
「……すき。ゆーま、くん、だい……すき」
二度、三度。
凛は涙でぐちゃぐちゃになりながら、壊れた楽器のように、たった一つの想いを叫び続けた。
悠真は目を見開き、信じられないものを見たかのように硬直した後、力任せに凛を抱き寄せた。
耳元のすぐ近くで、彼の激しい鼓動が伝わってくる。
そして、凛の肩が、彼の流す熱い涙で濡れていくのが分かった。
彼は凛の耳元で、何度も、何度も口を動かした。
声は、もう隠さない。
周囲に漏れることなんて、どうでもよかった。
凛には聞こえないはずのその「声」が、骨を伝い、心臓を震わせ、彼女の全身に温かく響き渡った。
「――僕もだ。僕も、凛が、大好きだ」
屋上の冷たい風の中で、二人の体温だけが、確かな旋律となって重なり合っていた。
第十話「震えた空気」最後まで読んでいただきありがとうございます。
彼の返事の音は聞こえないけれど、速い鼓動が変わりに答えてくれた。
次回もどうぞよろしくお願いします。




