表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
8/39

第八章 琵琶湖のほとりで

あの春、

家の匂いが少しずつ変わり始めた。


段ボールが増え、

家具が消えていく。


いつもそこにあった景色が、

少しずつ違うものになっていった。


オイラは部屋の中を歩き回りながら、

何度も床や壁の匂いを嗅いだ。


何かが始まる。


そんな気配だけは感じていた。


あの人たちも、

どこか静かだった。


そしてある日、

あの人がしゃがみ込んで言った。


「寅、今回は一緒に行けへんのや。」


オイラは首をかしげた。


一緒じゃないのか。


どうしてだろう。


けれど、

あの人の声が少し寂しそうだったから、

オイラは何も言わず、ただ見上げていた。


気づけば、

家からあの人の匂いが消えていた。


最初の夜。


オイラは玄関の前で待っていた。


廊下で音がするたび、

耳が動く。


けれど帰ってこない。


もうひとりの人は

「もう少し待ってようね」

と頭を撫でてくれた。


その手の匂いを感じながら、

オイラは静かに丸くなった。


でも、落ち着かなかった。


家の空気が、

半分になってしまったようだった。


二週間。


オイラには、とても長かった。

もうひとりの人はいつも通り散歩に連れて行ってくれたし、

ごはんもくれた。


けれど夜になると、

オイラは何度も玄関を見てしまう。


そのたびもうひとりの人は笑って言った。


「もうすぐ会えるよ。」


そしてある朝、

オイラは車に乗った。


長い移動だった。


サービスエリアで休憩しながら、

もうひとりの人は何度も

「寅、大丈夫?」

と声をかけてくれる。


オイラは窓の外を見ていた。


知らない街。

知らない空。

知らない匂い。


でも、

ちゃんと“向かっている”感じがした。


そして――


懐かしい匂いがした。


車が曲がった先。


マンションの前に、

あの人が立っていた。


オイラは思わず立ち上がった。


いた。


車が止まる。


ドアが少し開いた瞬間、

オイラは飛び出していた。


一直線だった。


迷わなかった。


あの人の足に鼻を押しつける。


懐かしい匂い。


ちゃんといた。


尻尾が勝手に動いた。


止まらなかった。


あの人は笑っていた。


でも、

目が少し潤んでいた。


「寅、よく来たな。遠かったやろ。」


もうひとりの人も笑っていた。


「この子、ずっと外見てたよ。」


そりゃ見るよ。


オイラ、

ちゃんと会いに来たんだから。


新しい街。


新しい空気。


オイラは疲れも忘れて、

まわりの匂いを嗅ぎながら歩いた。


ここが今日からの場所。


そんな気がした。


その夜。


部屋の真ん中に、

いつもの毛布が敷かれた。


オイラはその上で丸くなる。


あの人たちの匂い。


ちゃんと揃っている。


それだけで十分だった。


静かな部屋に、

オイラの寝息が流れる。


その音を聞きながら、

あの人はじっとオイラを見ていた。


たぶん、思っていたんだろう。


どこへ行っても、

またやり直せるって。


オイラも同じだった。


あの人たちがいるなら、

そこが家になる。


窓の外で、

大阪の風が少し鳴っていた。


その音は、

どこか優しかった。

ーーーーーーーーーーーーーーーー

関西に来てから、

オイラのまわりには少しずつ知らない匂いが増えていった。


街の空気も、

人の話し方も、

前いた場所とはどこか違う。


でも、不思議と嫌じゃなかった。


あの人は相変わらず忙しそうだったけど、

もうひとりの大事な人は、いつもオイラのそばにいた。


オイラは、その人のことを

いつのころからか“友ちゃん”と呼ぶことにしていた。


理由はよく分からない。


でも、その呼び方が一番しっくりきた。


嬉しいときは一緒に笑って、

悲しいときは静かに隣に座ってくれる。


友ちゃんは、

飼い主というより“仲間”みたいな存在だった。


ある日、

その友ちゃんが少し嬉しそうな顔をしていた。


「小助くんに会えるって。」


その名前は前から何度か聞いていた。


画面の向こうにいる犬。


オイラと同じ富士野荘の犬で、

どうやら少し血もつながっているらしい。


そしてその日、

オイラたちは大きな湖のある場所へ向かった。


風が広かった。


水の匂い。

草の匂い。

少し湿った春の空気。


オイラは車を降りた瞬間、

思わず鼻を大きく動かした。


気持ちいい場所だった。


少し歩くと、

そこに一匹の赤柴がいた。


自由そうな顔をしている。


どこか落ち着きがなくて、

でも堂々としていた。


オイラは思った。


「なんか……オイラに似てんな。」


近づく。


向こうも、こっちを見ている。


最初は少し距離があった。


でも、ゆっくり匂いをかいでみると、

どこか懐かしいものが混じっていた。


遠い記憶の奥。


富士山の近くで、

まだ小さかったころの空気。


オイラは少し安心した。


向こうもしっぽをゆっくり揺らしている。


悪くない。


たぶん、分かり合える。


そんな気がした。


人たちは楽しそうに話していた。


初めて会ったとは思えないくらい、

声が自然に重なっていた。


その横で、

あの人はまた、泡の出ている黄色い飲み物を飲んでいた。


苦そうな匂いがするのに、

なぜか嬉しそうな顔をしている。


オイラには、あれの良さはよく分からない。


でも――


後にも先にも、

あの人はいつもあれを飲んでいた。


楽しいときも。

悔しいときも。

誰かと笑っているときも。


だからたぶん、

あの人にとっては大事な飲み物なんだろう。


友ちゃんは、そんなあの人を見て、

少し呆れたように笑っていた。


その顔を見ていると、

オイラまで嬉しくなった。


湖が光っている。


水面が揺れて、

みんなの影もゆらゆら動く。


穏やかな時間だった。


「写真より穏やかやね。」


そんな声が聞こえると、

友ちゃんが少し照れたように笑った。


オイラは、その横顔を見ながら思った。


ああ、ここに来てよかった。


小助は自由だった。


でも、その自由さがどこか心地よかった。


オイラたちは、

並んだり、離れたりしながら、

同じ風の中にいた。


それだけで十分だった。


たぶん、この日からだった。


オイラの世界が、

また少し広くなったのは。


そして――


この人たちとは、

これから何度も会うことになる。


そのときのオイラは、

まだそんなこと知らなかったけど。


でも、小助の匂いをかいだ瞬間、

なんとなく分かっていた気もする。


ああ、

この縁は、たぶん長く続く。


そんな気がしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ