第二十五章 記憶 ― あの日の記憶
病院へ向かう車の中で、オイラはぼんやり窓の外を見とった。
風の匂いが、少し冷たくなっとる。
秋やった。
その匂いを嗅いどったら、ふっと昔のことを思い出した。
まだ元気いっぱいやった頃。
あの人の大阪行きが決まって、みんなで関西へ行っとった時のことや。
その時、オイラは知らん場所に預けられた。
色んな犬の匂い。
知らん声。
知らん音。
オイラは、なんか嫌やった。
帰りたかった。
ケージに入る前、オイラはあの人の腕に身体をくっつけた。
「すぐ迎えに来るからな」
あの人はそう言うた。
オイラは、一回だけ振り返った。
ドアが閉まる最後まで、ずっと見とった。
あの時の、胸がぎゅっとなる感じを、オイラはまだ覚えとる。
せやけど、今は少し違う。
今度は、もっと大きな何かを、友ちゃんとあの人に預ける感じやった。
大きな病院へ着いた。
人も犬もいっぱいおった。
落ち着かん匂い。
不安の匂い。
せやのに、オイラは妙に静かやった。
友ちゃんの隣で、じっと座っとった。
みんな、オイラを見て、「大人しいですね」って言うとった。
ほんまはな、大人しいんやない。
身体の奥が、ちょっと痛なってきとったんや。
動くより、じっとしとる方が楽やった。
診察台の上でも、オイラは逃げへんかった。
先生の手が触る。
色んなことをされる。
でも、オイラは踏ん張った。
友ちゃんが見とる。
あの人も見とる。
せやから、ちゃんと立っとかな思った。
「頑張ろうな、寅」
あの人の声は、少し震えとった。
それから、眠たくなるお薬をされた。
だんだん、音が遠うなる。
匂いも薄なる。
最後に見えたんは、友ちゃんの顔やった。
気づいた時には、身体が重たかった。
ぼーっとする。
腰のあたりが、じんわり痛い。
白い毛の間が、少し濡れとる感じもした。
オイラは、看護師さんに抱っこされて、友ちゃんたちのところへ戻った。
「寅……」
友ちゃんの声が、すぐ近うで聞こえた。
あの人も、「よぉ頑張ったなぁ」って、何回も頭を撫でとる。
オイラは、小さくしっぽを動かした。
それだけで、二人とも泣きそうな顔をした。
なんで泣きそうなんか、オイラには全部は分からへん。
せやけど、二人とも、怖かったんやと思う。
先生の話を聞いとる時、空気が静かやった。
まだ何も決まっとらん。
せやのに、友ちゃんとあの人の匂いは、もう何かを知ってしまった匂いやった。
帰りの車の中で、オイラは眠っとった。
友ちゃんが、そっと毛布をかけてくれる。
そのぬくもりが、気持ち良かった。
「一週間、長いね……」
友ちゃんが、小さい声で言うた。
あの人は、「うん……」ってだけ答えとった。
夜。
部屋の灯りは暗うて、静かやった。
オイラは毛布の上で、丸くなっとった。
腰のあたりが、じんわり熱い。
でも、友ちゃんの手が背中に触れるたび、少し楽になった。
オイラには、難しいことは分からへん。
この先、どうなるんかも分からへん。
せやけど、友ちゃんも、あの人も、必死なんは分かっとった。
だからオイラも、ちゃんとここにおろう思った。
それしか、できへんかったから。




