第二十二章 見えない不安と胸騒ぎ
見えない不安と胸騒ぎ
まだ暑さの残る季節やった。
蝉の声は、
遠くで弱々しく鳴いとる。
せやけど風の匂いには、
少しだけ秋が混ざり始めとった。
その頃からや。
オイラの身体に、
なんや小さな違和感が出始めたんは。
朝の散歩。
歩き出すとき、
後ろ脚が少し重い。
ほんの一瞬だけ。
自分でも、
「あれ?」って思うくらいの違和感。
せやけど、
身体の奥で、
何かが静かに動いとった。
ごはんも、
前みたいに勢いよく食べられへん。
好きなおやつを出されても、
なんや気分が乗らん。
涼しい場所探して、
寝とる時間も増えた。
友ちゃんが、
心配そうに言う。
「寅、ちょっと変じゃない?
足も、ごはんも…」
あの人は、
笑いながら答えた。
「この暑さだからなぁ。
夏バテだよ」
せやけど、
オイラには分かった。
あの人、
笑っとるけど、
胸の奥がザラザラしとる。
嫌な予感。
まだ形になってへん不安。
人間って、
そういう空気、
隠しても分かるんや。
数日たっても、
オイラは変わらんかった。
友ちゃんが、
静かに言う。
「一回、先生に診てもらおう」
そうして、
いつもの病院へ向かった。
もう何年も通っとる場所。
戻ってきてから、
ずっと診てもろうとる先生や。
せやけど、
オイラは病院、
好きやなかった。
名前呼ばれると、
足が止まる。
前脚を突っ張って、
「行きません」ってする。
あの人が、
苦笑いしながら言う。
「寅、行くぞ」
せやけどオイラは、
少し顔をそらした。
怖いんやない。
なんや、
ここでは違う気がしとったんや。
診察室へ入ると、
先生が笑う。
「お、寅さん。
また来たねぇ」
看護師さんも笑う。
「今日もマイペースだねぇ」
オイラは、
その声には反応せんかった。
部屋の匂いを、
ゆっくり嗅いどった。
薬。
金属。
消毒液。
病院の匂いや。
診察台に乗せられても、
オイラは暴れへん。
唸らへん。
抵抗もせん。
ただ、
静かに立っとった。
先生が身体を触る。
脚。
背中。
腰。
オイラは、
じっと前を見とった。
先生が言う。
「足の動き、
そんな悪くないですねぇ。
でも、
ちょっと筋肉落ちてるかな。
レントゲン撮っときましょう」
友ちゃんが聞く。
「夏バテでしょうか?」
先生は、
穏やかに頷いた。
「かもしれませんねぇ」
せやけど、
オイラには分かった。
先生、
何も分かってへん。
オイラの身体の奥で、
静かに広がっとるもんを、
まだ見つけられてへん。
“異常なし”の向こう側で、
何かが動いとる。
それを、
オイラだけが知っとった。
診察が終わると、
オイラはすぐ出口を向いた。
「もう帰る」
そんな感じで。
先生が笑う。
「寅さん、
ほんと堂々としてるねぇ。
強いなぁ」
せやけど、
あの人は、
心の中で違うこと考えとった。
――強いとか、
そういう話じゃない。
そして、
こうも思っとったんやろな。
――先生、
ほんまに分かってるんやろか。
って。
帰りの車。
オイラは助手席で眠った。
胸が、
ゆっくり上下する。
友ちゃんが、
窓の外を見ながら言う。
「早く涼しくなるといいねぇ」
あの人は、
小さく頷いた。
「うん」
せやけど、
その声は、
少しだけ重かった。
窓の外。
赤い夕焼け。
遠くの雲だけが、
少し秋色に変わり始めとった。
蝉の声も、
もう、
夏の終わりみたいに聞こえた。




