回想 岡本桟橋 ― 海と時間
回想 岡本桟橋 ― 海と時間
冬の海は、
音が遠い。
風は冷たくて、
空の青も薄い。
波の白だけが、
「ここが海やで」って、
静かに教えてくれとった。
オイラたちは、
岡本桟橋へ向かっとった。
あの人が、
黒い箱で見た場所らしい。
「いつか行きたいなぁ」
って、
前からよう言うとった。
たぶん、
あの人にとって、
“いつか行きたい場所”っていうのは、
ただの景色やないんやろな。
そこへ、
友ちゃんと、
オイラと、
一緒に行くことに意味があるんや。
桟橋の入口へ立つと、
潮の匂いがした。
冷たい海の匂い。
冬の風の匂い。
遠くの船の匂い。
オイラは、
鼻を上げて、
ゆっくり風を吸い込んだ。
気持ちよかった。
海の光が、
オイラの毛に映っとったらしい。
友ちゃんが、
小さな声で言う。
「静かだねぇ」
あの人も頷く。
「音が吸い込まれていくみたい」
ほんまやった。
海と空の境目が、
ぼんやりしてる。
遠くの船も、
霞んで見えへん。
世界が、
ゆっくりになっとった。
オイラは、
桟橋の先まで歩いた。
風が真正面から吹いてくる。
冷たい。
せやけど、
嫌やなかった。
オイラは、
そこで立ち止まった。
波の音を聞く。
風を嗅ぐ。
遠くを見る。
なんやろな。
海見とると、
胸の奥が静かになるんや。
あの人は、
後ろから、
じっとオイラを見とった。
たぶん、
また難しいこと考えとったんやろな。
「この子、
何か知ってる気がする」
とか。
人間は、
すぐそういう顔する。
オイラは、
ただ風感じとっただけなんやけどな。
せやけど、
友ちゃんが、
優しい声で言う。
「寅、
ここ好きみたい」
あの人も、
小さく笑った。
「そうだな」
その声は、
風の中へ溶けていった。
波の音が、
ゆっくり聞こえる。
ザァ……
ザァ……
時計みたいやった。
でも、
人間の時計とは違う。
もっとゆっくりで、
もっと大きい時間。
命の呼吸みたいな音やった。
しばらくして、
オイラは振り返った。
その瞬間だけ、
風が止まった気がした。
あの人と、
目が合う。
あの人は、
なんや少し寂しそうで、
でも嬉しそうな顔しとった。
オイラには、
よう分からへん。
せやけど、
その顔見ると、
なんや安心した。
海の色が、
あの人の目にも映っとった。
深くて、
静かで、
冬の青やった。
帰り道。
西の空が、
少しずつ金色になっていく。
冷たい風の中を、
オイラはゆっくり歩いた。
前より少しだけ、
歩幅がゆっくりになっとったんかもしれへん。
友ちゃんが、
笑いながら言う。
「寅、
今日は海の先生だねぇ」
あの人も笑った。
「風の先生の次は、
海の先生か」
また先生や。
オイラ、
なんも教えてへんのにな。
せやけど、
友ちゃんとあの人が、
楽しそうやから、
それでええ気がした。
オイラは、
前を向いたまま歩いた。
白い砂に、
足跡が残る。
そのあと、
波がやってきて、
静かに消していく。
まるで、
“今日という時間を、
海が優しく覚えてくれてる”
みたいやった。




