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回想 帝釈天 ― 名の祈り

回想 帝釈天 ― 名の祈り


金八ロードをあとにして、

オイラたちは車で柴又へ向かった。


5月の風が、

窓から入り込んでくる。


川の匂い。

草の匂い。

少しあったかくなった街の匂い。


なんや、

気持ちのええ帰り道やった。


「せっかくだし、帝釈天寄ろっか」


友ちゃんが言う。


あの人は、

すぐ嬉しそうな顔になる。


たぶん、

こういう“ついでの寄り道”、

好きなんやろな。


オイラも好きやった。


知らん場所歩いて、

知らん匂い嗅いで、

みんなで一緒におる。


それだけで、

十分楽しかった。


参道へ入ると、

いろんな匂いがした。


醤油。

煎餅。

甘い団子。

古い木の匂い。


軒先の暖簾が、

風に揺れとる。


石畳を歩く音が、

カツ…カツ…って響く。


オイラは、

その真ん中を、

ゆっくり歩いた。


店の人とか、

すれ違う人とか、

みんなよう声かけてくれる。


「かわいい〜!」


「いい顔してるねぇ」


そんな声が聞こえるたび、

オイラは、

尻尾をひと振りした。


すると、

だいたい次に聞かれるんや。


「お名前は?」


あの人が答える。


「寅次郎です」


すると、

みんな、

ふわっと笑うんや。


「あっ、寅さん!」


「柴又にぴったり!」


「男はつらいよだ!」


オイラの名前は、

映画 男はつらいよ の主人公、

車寅次郎 からもらった名前や。


あの人、

昔から寅さん好きやったからな。


せやから、

この柴又で、

「寅次郎」って呼ばれるたび、

なんや特別そうな顔しとった。


その空気が、

オイラは好きやった。


名前呼ばれただけで、

みんな笑う。


なんや不思議や。


オイラ、

そんな大したことしてへんのにな。


せやけど、

あの人は、

その瞬間が嬉しかったんやろな。


オイラの名前が、

人を笑顔にすることが。


本堂の前へ行くと、

友ちゃんとあの人は、

静かに手を合わせた。


オイラは、

その横で座っとった。


大きなお堂。


風の音。


遠くで鳴る鐘。


なんや、

静かな場所やった。


あの人たちは、

何お願いしとったんやろな。


オイラは、

よう分からへん。


せやけど、

ふたりの空気が、

なんや優しかった。


オイラは、

少し胸を張って、

本堂を見上げた。


すると、

友ちゃんが笑いながら言う。


「寅、なんか誇らしそう」


あの人も笑った。


「ここでは、

“寅次郎”って名前、

特別だからなぁ」


そうなんかな。


オイラには、

自分の名前の意味は、

よう分からへん。


せやけど、

友ちゃんと、

あの人が、

嬉しそうに呼んでくれる声は好きやった。


「寅〜」


その声聞くだけで、

安心した。


参道を戻るころには、

夕陽が長う伸びとった。


店の軒先も、

石畳も、

オレンジ色になっとる。


オイラは、

前を向いて歩いた。


後ろから、

友ちゃんとあの人の足音が聞こえる。


その音が、

なんや心地よかった。


あの人は、

きっと思っとったんやろな。


――名前って、

人をつなぐんやなって。


呼ぶたび、

笑顔が生まれて。


その小さな音が、

誰かの心を、

あったかくするんやって。


5月の風が、

参道をゆっくり抜けていった。


そして、

「寅次郎」っていう名前もまた、

その風の中で、

やさしく揺れとった。

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