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第二十章 日本色 ― 最後の夏

あの人が退院して、

ひと月くらい経ったころやった。


ある日、

アキナから、あの人の黒い箱が鳴った。


「今年も焼津の日本色、行かない?」


その声を聞いた瞬間、

友ちゃんが「行こうよ」って、

少し嬉しそうに笑ったんを、

オイラは覚えとる。


琥珀ん家との古民家旅行は、

もう毎年の楽しみやった。


海のすぐそばにある、

古い平屋の家。


潮の匂いと、

畳の青い香りが混ざって、

天井では、

ゆっくり扇風機が回っとる。


あの音を聞いとるだけで、

「ああ、今年も来れたんやなぁ」って、

オイラは思うんや。


みんな、

泡の出る黄色い飲み物を飲んで、

笑って、

夜遅くまで喋っとった。


そんな時間が、

ずっと続くんやと思っとった。


オイラも。


焼津の海は、

その日も穏やかやった。


波打ち際を歩くと、

潮風が鼻の奥に入り込んでくる。


海の匂い。

砂の匂い。

遠くの船の油の匂い。


オイラは、

ときどき立ち止まって、

風の匂いを嗅いだ。


すると後ろから、

琥珀の妹の茶衣が、

ドーンって飛びかかってくるんや。


「兄ちゃん遊ぼうや!」


そんな声が聞こえるみたいやった。


前足でバシバシ叩いてきて、

昔のオイラやったら、

そのまま砂浜を全力で走っとったと思う。


せやけど、

このときのオイラは、

小さく鼻を鳴らすだけやった。


なんや身体が重かったんや。


走れへん訳やない。


でも、

前みたいに、

「うおおお!」って、

身体が勝手に前へ出る感じが、

少し薄れてしもとった。


せやからオイラは、

みんなから少し離れた場所で、

人間たちの輪を見とった。


浜辺では、

アキナが、

氷の入ったレモンサワーを掲げて笑っとる。


トシヒコは釣り竿を持って、

「絶対釣ったる!」とか言うとる。


友ちゃんは、

しゃがみ込んで貝殻を拾っとった。


気に入った貝を見つけるたび、

子どもみたいな顔で笑うんや。


あの人は、

そんなみんなを、

黒いカメラで撮っとった。


人間たちは、

まるで夏そのものみたいに、

賑やかやった。


せやけど、

その中で、

オイラだけが静かやった。


波の音を聞いて、

風を感じて、

遠くの水平線を見とった。


なんやろな。


自分でもうまく言えへんけど、

あのころのオイラは、

どこかで分かっとったんかもしれへん。


「ああ、

もう長ないんかもしれんなぁ」って。


夜になると、

古民家の縁側に、

ランタンの灯が揺れ始めた。


潮風が障子を揺らして、

カタ…カタ…って、

小さな音を立てる。


「この前は危なかったよなぁ」


トシオが笑いながら言う。


「あれ、寅がおったから助かったんやで」


友ちゃんがそう返す。


ヨーコは、

泡の出る黄色い飲み物を掲げながら、


「ほら、“失敗しない男”やん、寅ちゃん」


って笑っとった。


みんな笑っとった。


ランタンの光が、

みんなの顔を、

やわらかく照らしとった。


その輪から少し離れた場所で、

オイラは丸くなっとった。


眠かった。


でも、

みんなの笑い声が、

なんや心地良かった。


うとうとしながら、

ときどき寝息が漏れる。


そのたび、

あの人が、

オイラの呼吸を確かめるみたいに、

こっちを見とった。


翌朝。


浜辺に出ると、

朝日が海を照らしとった。


茶衣は横で、

夢中になって砂を掘っとる。


せやけどオイラは、

動かへんかった。


ただ、

水平線の向こうを見とった。


海の向こうから来る風が、

オイラの毛を揺らす。


朝日の金色の光が、

海面を滑って、

オイラの身体を照らしていく。


暖かかった。


静かやった。


――まさか、

これが最後の夏になるなんて。


あのときの友ちゃんも、

あの人も、

きっと思ってへんかったやろ。


オイラも、

ちゃんとは分かってへんかった。


せやけど。


潮の香りの奥に、

ほんの少しだけ混ざっとったんや。


終わりの匂いが。

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