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第十九章 寅次郎、失敗しないんで!

梅雨の終わりごろやった。

窓の外には重たい雲が広がって、部屋の空気もじっとりしていた。


あの人はソファに座って、黒い箱を見ていた。

箱の中では、白い服を着た人間たちが忙しそうに動いている。


光る部屋。

銀色の道具。

張りつめた声。


「私、失敗しないので」


その台詞が部屋に響くたび、

友ちゃんが「また始まったね」と小さく笑った。


あの人は腹を押さえながら、それでも画面を見続けていた。


オイラはその横で伏せながら、じっと顔を見ていた。


テレビを見てる顔やない。


脂汗の匂い。

苦しい時の匂い。

無理して普通にしてる匂い。


ときどき眉間に皺を寄せながら、

それでもあの人は、画面の中の手術シーンを見ていた。


「メス」


「血圧下がってます」


「私、失敗しないので」


黒い箱の中の声が響くたび、

あの人の腹の奥も痛んでるみたいやった。


――なんでそんなしんどいのに見とるんやろ。


オイラには分からへんかった。


そのうち友ちゃんが立ち上がった。


「寅、散歩行こっか」


リードの金具が小さく鳴る。


玄関へ向かいながら振り返ると、

あの人はソファに深く沈み込みながら、小さく手を振った。


「行ってきな」


声が細かった。


外へ出ると、湿った風が鼻をくすぐった。

濡れた草の匂い。

遠くを走る車の音。


そしていつもの場所で、“ポテチ”に会った。


オイラたちは鼻を近づけて挨拶した。

その横で、ポテチの飼い主さんが友ちゃんの顔を見て言った。


「どうしたん?」


友ちゃんが、あの人の様子を話す。


お腹を押さえてること。

脂汗をかいてること。

テレビ見ながら苦しそうにしてること。


すると、その人の顔色が変わった。


「それ、盲腸かもしれない! すぐ病院行った方がいい!」


あとで知ったけど、ポテチの飼い主さんは看護師さんやった。


もしあの日、

オイラが散歩に出てへんかったら。


もしポテチと会ってへんかったら。


もしあのドラマを見ながら、あの人が我慢し続けてたら。


そう思うと、今でも少し怖い。


家へ戻ると、部屋の空気はさらに重たくなっていた。


黒い箱の中では、まだあの女の先生が言っていた。


「私、失敗しないので」


でもソファの上のあの人は、

もうテレビを見れてへんかった。


腹を押さえて、目を閉じていた。


それから赤い光。

サイレンの音。

慌ただしい足音。


オイラは玄関の奥から、それを見ていた。


白いベッドみたいなものに乗せられたあの人は、苦しそうやった。


それでも最後にオイラを見て、少しだけ笑った。


ドアが閉まる。


サイレンが遠ざかる。


静かになった部屋で、

友ちゃんはしばらく動かなかった。


泡の出る黄色い飲み物の匂いはしない。


黒い箱だけが、まだ光っていた。


数日後。

玄関の向こうから、聞き慣れた足音がした。


ドアが開く。


消毒みたいな匂いをつけたあの人が、少しゆっくり歩いて帰ってきた。


生きとる。


それが分かった瞬間、

オイラは安心して座り込んだ。


あの人はしゃがみ込んで、

オイラの頭を撫でながら言った。


「寅、おまえのおかげやったな」


オイラは小さく鼻を鳴らした。


だってオイラ、ただ散歩して、

友達に会っただけや。


でもきっと――


あの日ほんまに“失敗しなかった”んは、

ポテチと出会っていたことと、

しんどいのに医療ドラマなんか見てた、あの人の妙な意地やったんかもしれへん。

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