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第二章 富の寅次郎

その日、空気がいつもと少し違っていた。


風の匂いも、

母ちゃんの気配も、

どこか落ち着かない。


オイラは、いつもみたいに母ちゃんのあとをついて歩いていた。

小さな足で、ちょこちょこと。


奥の方に、人の気配があった。


見たことのある匂い。


遠い記憶の中で、

一度だけ会ったことがある気がする。


オイラをじっと見ていた人。


その人が、また来ていた。


近づいていくと、

何かが変わる気がした。


理由はわからない。

でも、体のどこかがそう言っていた。


「大きくなったなぁ……。」


その声が聞こえたとき、

オイラは少しだけ顔を上げた。


優しい声だった。


怖くはなかった。


むしろ――

なぜか、落ち着いた。


人たちは何か話している。


「名前」

「寅次郎」


その音が、耳に残った。


オイラのことを呼んでいるのかもしれない。


よくわからないけど、

その響きは、嫌じゃなかった。


やがて、オイラは小さな箱の中に入れられた。


少し狭くて、

外の匂いが遠くなる。


母ちゃんの匂いも、

だんだん薄れていく。


不思議な感じだった。


でも――


オイラは、一度だけ振り返った。


そこにいた人と、目が合った気がした。


そのとき、

胸の奥で、何かがすっと決まった。


この人についていく。


理由なんてなかった。


ただ、そう思った。


小さく鼻を鳴らすと、

その人が少しだけ笑った。


それで、十分だった。


箱の中は揺れていた。


知らない匂いが増えていく。


遠くへ行くんだと、なんとなくわかった。


少しだけ、不安だった。


でも、さっきの声が、

まだ耳の奥に残っている。


だから――


オイラは丸くなって、目を閉じた。


気がつくと、

眠っていた。


新しい世界が、

すぐそこまで来ている気がした。

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