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第十七章 ■紫陽花と寅次郎 ― 静かなテラスで

季節がまた巡って、

紫陽花の匂いがする頃になった。


多摩川台公園の坂道には、

青や紫の花が静かに広がっていた。


風が吹くたび、

花がゆっくり揺れる。


オイラはその間を歩きながら、

鼻をくんくん動かしていた。


土の匂い。

草の匂い。

少し湿った雨の匂い。


それに混じって、

花の甘い匂いもした。


あの頃、

人間たちはみんな口を隠していた。


白いのや黒いのを顔につけて、

少し距離をあけて歩いていた。


でもオイラには関係ない。


オイラはいつも通り、

あの人の足元を歩いた。


友ちゃんの横にもぴたりとつく。


それだけで安心やった。


風は気持ちよかった。


マスク越しでも、

あの人たちは季節の匂いを感じていたんやと思う。


公園を歩いたあと、

オイラたちは田園調布倶楽部のテラスへ向かった。


あの場所、

オイラはけっこう好きやった。


外の空気が流れて、

人の声も静かで、

みんな少しゆっくりしていた。


テーブルの上には、

大きなハンバーガー。


そして、

あの人の前にはいつもの

“泡の出る黄色い飲み物”。


後にも先にも、

あの人はだいたいそれを飲んでいた。


グラスの中で泡が光って、

風が吹くたび少し揺れる。


あの人はそれを飲みながら、

「うまいなぁ」

と嬉しそうに言う。


友ちゃんも笑う。


その声を聞きながら、

オイラはテーブルの下で丸くなる。


通りを歩く人を眺めたり、

風の匂いを嗅いだりしながら、

静かな時間を過ごした。


世界はまだ少し変やった。


街には不安の匂いが残っていた。


でも、

このテラスだけは違った。


花の匂いと、

ハンバーガーの匂いと、

泡の出る黄色い飲み物の匂い。


そして、

友ちゃんとあの人の笑い声。


そこにはちゃんと、

いつもの日常があった。


気づけば、

この季節の散歩は毎年の恒例になっていた。


紫陽花を見て、

テラスで休んで、

あの人が泡の出る黄色い飲み物を飲む。


その足元には、

いつもオイラがおる。


花の色は毎年少し違った。


風の温度も違う。


でも、

あの時間だけは変わらなかった。


五年。


短いようで、

長い時間やった。


紫陽花が咲くたび、

あの人は少しだけ遠くを見ることがあった。


たぶん、

考えていたんやと思う。


あと何回、

こうして一緒に歩けるんやろうって。


でもオイラは、

そんな難しいことは考えてへん。


その日の風が気持ちよくて、

友ちゃんとあの人が笑っていて、

足元に陽射しが落ちている。


それだけで十分やった。


六月の風が吹く。


紫陽花が静かに揺れる。


その景色の中で、

オイラは確かに生きていた。

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